シューベルト:「歌曲の王」

(Public Domain /‘Franz Schubert’ by Wilhelm August Rieder. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

<はじめに>

シューベルトについてです。ロマン派の音楽家と言うと、ショパンやシューマンらが有名ですが、シューベルトはそのようなロマン派の音楽の時代の先駆けとなったという点において非常に重要な働きをした音楽家です。

「歌曲の王」と呼ばれるシューベルトはどのような生涯を送ったのか、そして、彼はどのような作品を残したのかを中心にご紹介していきましょう。

<シューベルトの生涯>

~生い立ち~

フランツ・シューベルトは1797年1月31日にオーストリアのウィーンで生まれました。ウィーンと言えば、現在はもちろん、当時も音楽の都として大変な盛り上がりを見せていました。生まれた時点でシューベルトは音楽の道に進むことを運命づけられていたということもできるのかもしれません。

シューベルトの父は農家を営んでおり、また、アマチュアの音楽家としても活動していました。そのため、シューベルトは幼いころから兄弟とともに父親から音楽の手ほどきを受けていたようです。シューベルトは幼少期から主にヴァイオリンを中心に音楽教育を受けました。

音楽に触れたシューベルトはすぐにその才能を発揮し始めます。そして、その才能を見込んだ父はシューベルトを聖歌隊に入隊させ、シューベルトは表現力により一層磨きをかけることとなるのです。

また、聖歌隊の入隊というのはシューベルトの才能を周知するという意味でも大変有効であったようです。当時はまだ音楽は王侯貴族のためのものであるという側面が大きく、いくら音楽的才能にあふれていても、それを発表する場がなければ大成させるのは難しかったのです。

シューベルトは聖歌隊に入隊するやいなやすぐにその音楽的才能を認められることとなります。そしてそのおかげで、聖歌隊の所有するピアノを自由に練習に使う許可を得ることができたのです。

~コンヴィクトへの入学~

シューベルトは11歳の時、奨学金を借りて、コンヴィクトへと入学します。コンヴィクトというのは寄宿制の神学校のことを指します。「神学校」という名前からも分かるように非常に宗教色の強い施設であったようです。シューベルトは生涯を通して、宗教色の強い作品もいくつか残しているので、このコンヴィクトでの経験が関係しているとみる向きもあるようです。

シューベルトがこのコンヴィクトに入学したきっかけとして、宮廷礼拝堂のコーラス隊の育成に力を入れていたということがあるようです。このコーラス隊はウィーンでも特に力のあるコーラス隊であり、のちのウィーン合唱団に相当します。

しかしながら、シューベルトはこのコーラス隊ではあまり得るものがありませんでした。その代わり、シューベルトは学生オーケストラに参加し、音楽について新たな角度から学ぶ機会を得ていたようです。また、当時の交友関係も非常に充実していたという記録が残っています。

シューベルトはコンヴィクトの中でもどちらかというと貧しい育ちで、決して欲しいものをすぐに買うことができるような環境ではありませんでした。しかしながら、この豊富な友人関係のおかげで、必要な物品を分けてもらうなどして、上手に生活していたようです。

シューベルトはコンヴィクトに在籍している間、ピアノ曲や歌劇曲、室内楽を中心に作曲にも力を入れており、多くの作品が生み出されました。特にこの時期は室内楽曲の充実ぶりがうかがえ、オーケストラでの活動がシューベルトの室内楽に対する関心をより一層引き立てていたということが言えるでしょう。

~作曲家として生計を立てていくことを決意~

コンヴィクトを卒業したシューベルトはその後、当時著名な指導者であったサリエリという人物から指導を受けます。このサリエリという人物、非常に厳格なレッスンをすることで有名で、シューベルトもその過激な言葉に心が折れそうになることが幾度となくあったようです。

しかしながら、サリエリの指導というのは他の度の教育者よりも的確なものであり、シューベルトも彼のレッスンに必死に食らいついていったようです。そして、その経験が後の人生に大きくつながったのです。

とはいえ、シューベルトはサリエリの指導を受けつつも、当時はまだ音楽家を仕事として生活していくことに関してためらいがあったようです。やはり当時も音楽家として生計を立てることができるレベルに達するのは困難で、相当に覚悟にいる決断だったのです。

才能に恵まれながらも進路に迷うシューベルトの背中を押したのは、コンヴィクト時代の友人フランツ・ショーパーでした。彼はシューベルトと同じ名前をしているということもあり、学生時代から非常に親密にしていた間柄でした。

ショーパーは進路に迷っているシューベルトの相談に乗り、「自分に合わない仕事をしてお金を稼ぐくらいならば、自分が情熱を傾けることのできる芸術で勝負するべきである。」とアドヴァイスしたようです。そして、この旧友からのアドバイスによってシューベルトは音楽家として自立することを決意するのです。

とはいえ、シューベルトの作曲家としての生活というのはやはり簡単なものではなかったようです。最初は報酬になる仕事を手に入れる段階で大きな苦労をしていたようです。しかしながら、そんな彼を支えたのもやはり、彼の友人たちでした。

シューベルトの友人たちは彼を支援するために、食糧や金銭的な援助、宿泊施設の貸与などを積極的に行っていたようです。このようなエピソードからシューベルトは貧しくても非常に人望にあふれた人物であったということが伺えます。

~待ちに待った初公演~

シューベルトはその後もしばらく作曲家として注目されることはありませんでしたが、それでも積極的に創作活動を行いました。そしてそのような地道な努力がついに報われる時がやってきます。それが、シューベルトの作品の初公演です。

それまでシューベルトは歌劇曲をいくつも書いてきましたが、それらが実際に舞台で披露されるということはありませんでした。しかしながら、19歳の時、囚人のための刑務所コンサートでシューベルトの作品が取り上げられる運びとなったのです。

刑務所で行われるコンサートであるため、決して華やかなものではありませんでしたが、それでも自分の作品が認められたということはシューベルトにとって大きな自信になったようです。これを機に、シューベルトはますます創作意欲を増していくことになります。

そして、この公演をきっかけにシューベルトのもとには公演の依頼が少しずつやってくるようになったようです。それもあり、20歳前後のシューベルトは創作時間の多くを歌劇の制作に割くこととなります。

~大物との対面~

少しずつ結果を残し始めたシューベルトは23歳の時、2つの重要な出会いに恵まれます。それがベートーヴェンとの対面です。シューベルトは当時、ベートーヴェンのことを非常に尊敬していたようで、ベートーヴェンもまたシューベルトの才能を高く評価していたようです。

そして、もう一つの重要な出会いがウェーバーとの出会いです。ウェーバーもまたシューベルトの尊敬の対象であったようです。彼もまたロマン派の先駆けとなる音楽家であり、シューベルトにとっては良きライバルでした。

結果的に、この2人とこの後親交を深めるまでには至りませんでしたが、シューベルトの知名度が少しずつ上昇していたことが伺えるエピソードであるということができるでしょう。

~シューベルトの晩年~

シューベルトはその後も作曲に精を出し、数多くの作品を生み出します。シューベルトは晩年も歌劇を制作し、ウィーン楽友協会から報酬をもらうなど一定の成果を残していたようです。

しかしながら、彼の生涯というのは思わぬ早さで幕を閉じることとなります。シューベルトは31歳の秋、かつてないほどの高熱と拒食症に悩まされることとなります。そしてほどなくして、1928年11月9日、彼のわずか31年の生涯に幕を閉じるのです。

シューベルトの死因は現在でもはっきりとは特定されておらず、腸チフスや梅毒治療に用いられた水銀の蓄積など、諸説あるようです。

<シューベルトは死後に再発見された作曲家である>

さて、ここまで彼の生涯を追ってきましたが、読者の皆様はとある一つの疑問を抱いたのではないでしょうか。「彼の人生、なんだか地味すぎない?」そう感じた方もいらっしゃることでしょう。

実はシューベルトは今でこそロマン派を代表する作曲家ですが、現役時代は歌劇曲を除くと作品が高く評価されることがほとんど無かった作曲家です。では、なぜ彼が現在のような名声を手に入れることができたのでしょうか。

そのきっかけとなったのが「シューベルト没後100年記念国際記念コンクール」の開催です。このコンクールによって、シューベルトの作品は100年の時を経て、再評価されるチャンスを得たのです。

これをきっかけにシューベルトの今まで演奏されなかった作品を見直そうという動きが音楽家達の中で次第に広がっていきました。こうして、現在はロマン派の代表的な作曲家としての名声を得るに至ったのです。

きっとシューベルト自身も自らの死後にここまで多くの作品が評価されることになるとは思っていなかったのではないでしょうか。

<シューベルティアーデ>

シューベルティアーデとはシューベルトが私的に行っていたパーティーのことを指します。このパーティーは決して派手なものではなく、むしろ親しい知り合いたちとゆったりと会話を楽しむような場であったようです。また、このシューベルティアーデの存在により、シューベルトは実際には裕福な生活をしていたのではないかという説も浮上しているようです。

加えて、シューベルトは生涯にわたって31歳で亡くなったとは思えないほど多くの曲を残しています。それだけ作曲のための環境が整っていたこともまた、シューベルトが実際は恵まれた暮らしをしていたのではないかと考えられる理由となっているようです。

<シューベルトの残した代表曲>

「魔王」

シューベルトの魔王は今も昔も非常に人気のある歌劇曲の一つです。実際、シューマンよりも後の時代に生まれたリストなどの作曲家もこの「魔王」のメロディーをアレンジして作品を発表しています。

迫りくるようなイメージの冒頭のメロディーが特に印象的な曲です。ピアノ、ヴァイオリンなど様々な楽器で演奏されている曲なので、色々と聞き比べてみると興味深いのではないでしょうか。

「ピアノ五重奏曲『鱒』」

シューベルトは歌劇王と言われていながら、その生涯において数多くの室内楽曲も残しています。その中でも特に有名なのが、この「鱒」です。ピアノと弦楽器の巧みな掛け合いに注目してみると、楽しく聴くことができるのではないでしょうか。

「4つの即興曲集」

これはシューベルトが残したピアノ曲の中でも特に有名なものであるということができるでしょう。シューベルトは旋律日について非常に熱心に探究した作曲家でもあります。その成果が存分に生かされた作品こそ、「4つの即興曲集」なのです。

また題名の通り、この曲はシューベルトが即興で演奏した曲を基に作曲されています。音楽の感覚的な要素と理論的な要素が見事に融合した作品であるということができるでしょう。

「楽興の時」

この「楽興の時」もまた「4つの即興曲集」に並んで、シューベルトのピアノ作品で最も有名な作品です。とりわけ第3番に関してはメロディーを聴いたことがあるという方も少なくないのではないでしょうか。

技術的な華やかさこそあまりないものの、一つ一つの音の重なり合いにシューベルトの持つ音楽性を見出すことができる作品の典型例であると言えます。

<終わりに>

さて、今回はロマン派音楽の開祖であるシューベルトについてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。シューベルトは「歌曲の王」として知られていますが、現役時代は現在ほどの評価を得ることのできなかった、不遇の音楽家だったということがわかったことでしょう。

やはり、ロマン派の時代の曲と一口にいっても、様々な違いがあるということなのです。シューベルトの作品を、ショパンやシューマンのような他のロマン派の作曲家の作品と比較し、「当時の民衆はどのような曲を好んでいたのだろうか……?」と思いを巡らせてみるのもまた面白いのではないでしょうか。

出典:Wikipedia フランツ・シューベルト

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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