カーネル・サンダース:波乱万丈なKFCの顔

カーネル・サンダースは、アメリカ合衆国インディアナ州ヘンリービル出身の実業家である。ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者、カーネルおじさんしても有名で、KFCをフランチャイズ化して全世界に広めたことで知られている。

〈幼少期〜ガソリンスタンドの成功〉

ハーランド・デーヴィッド・サンダースは、1890年アメリカ合衆国にあるインディアナ州クラーク郡ヘンリービルで生まれ、彼が6歳の頃に父親は亡くなりました。そのため母親は工場に勤めながら一人で残された子供たちを育てました。働きに出た母の代わりに家族の為に食事を作る。このことがきっかけとなり、もてなすことの喜びを感じ、のちのレストランをオープンさせることに繋がっていきます。10歳になる頃、貧しい家計を支える為に農場へ働き出るようになり、14歳になると学校を辞め、農場の手伝いだけでなく市電の車掌としても働くようになりました。
1906年、16歳になったサンダースは年齢を偽り陸軍へ入隊します。
キューバに派遣されますが、軍人としての経歴は今ひとつ結果がでないまま1907年に除隊しました。その後さまざまな仕事に就きます。保線区員やフェリーボートをはじめ、ボイラー係りにタイヤのセールス、機関助手や保険外交員そして鉄道の機関車修理工など、多岐に渡り、40以上を転々とします。

30代後半になるとケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドの経営をするようになりますが、大恐慌が起きたことにより代金を回収できず倒産してしまうなど安定しない人生を送ります。
1930年にケンタッキー州のコービンで再度、ガソリンスタンドの経営を始めます。その後スタンドを利用するお客様のために物置を改造し6席だけのミニレストラン、サンダース・カフェを始めるようになります。利用者が特に多い国道25号線に面していたことと素材にこだわった手作りの味の評判もあり店舗は大繁盛し、規模を拡大することに成功しました。1935年には州に料理で貢献したとして、当時知事を務めていたルビー・ラフーンからカーネルという名誉称号を与えられました。

〈オリジナルレシピの開発とKFCの誕生〉

1937年、サンダース・カフェは142席のレストランにまで店舗を拡大しモーテルも併設するようになります。1939年に店舗が火災し被害を受けたものの、1941年には147人を収容できるレストランを再び構えました。この店舗はHarland Sanders Café and Museumとして博物館になり、アメリカ合衆国国家歴史登録財としても登録され、多くの人々が足を運ぶ施設となっています。

サンダース・カフェの目玉商品はフライドチキンです。1939年に開発された圧力釜と植物油100%を使用したオリジナル・フライドチキン「11種のハーブとスパイスからなるオリジナルレシピ」を9年の歳月をかけ試行錯誤の末、完成させました。70年たった現在でも、製法はもちろん、変わらぬ味を受け継いでいます。

1952年、サンダースは新しいビジネスモデルを思いつきました。それは各地でレストランを営んでいる経営者やそこで働く従業員に、フライドチキンの調理法を教え、その歩合を貰うというアイデアでした。ユタ州ソルトレイク市にいたピート・ハーマンが最初の顧客となり、輝かしいフランチャイズ一号店がオープンします。そのさいにハーマンがケンタッキーフライドチキン(KFC)と名前を提案したことによりブランドが誕生します。

1955年、州間高速道路75号線が開通しコービンの町外れを通過できるようになったため車と人の流れが大きく変化し、サンダース・カフェへの客足も次第に遠のくようになり店舗を手放すことになります。店舗を売却し、余ったお金で負債を返済したためほとんど手元には残りませんでした。その後サンダースはフランチャイズビジネスに力を入れることにし、フライドチキンをワゴン車に積んで旅に出発します。各地のレストランでオリジナルチキンを振る舞い、気いってもらえたら、レシピを教える。その代わりにチキン一つにつき
かー払ってもらう、そうして各国へと徐々に結果を出し1960年にアメリカ合衆国とカナダで400店舗となり、1964年には実に600店舗を超えるほどの規模に成長したのです。

74歳になった彼は、KFCの権利を後のケンタッキー州知事となるジョン・Y・ブラウン・ジュニアに売却します。このときの売却額は200万ドル、これは2013年の貨幣価値で表すと約1500万ドル程度だと言われています。この売却によりフランチャイズビジネスの第一線からは退きましたが、売却の際にサンダースへの終身給与を支払うことや、品質管理の責任者になることが決められたため、public spokesman for the companyというKFCの普及をする役割を与えられビジネスには関わり続けます。そのため各地に拡大したKFCでレシピが守られているかを確認するべく世界各地の6000店舗を超える店を訪れ、自身の目で確かめたのです。訪れた店舗によっては、味、サービスも悪いマニュアルも守らない店もありました。サンダースはその度に店に警告をし、改善がなければ契約を取り消すという方法を取りました。強いこだわりがあるからこそ、長い間親しまれ手作りの味を守り続けているのでしょう。

1980年、急性白血病を発症してしまいます。肺炎を併発したことにより12月16日、90歳でこの世を去りました。

〈サンダースの人物像や評価〉

サンダースは、「サザン・ホスピタル」アメリカ南部のおもてなしの心をとても大切にしていました。訪れた人を暖かく迎えもてなす。小さい頃に、家族に料理を振る舞い、とても喜んでもらえた嬉しい気持ちをずっと胸に抱いていました。
人を幸せにするのに引退は無い。善団体にも積極的だった彼は、孤児院にいる子供たちのために毎日アイスクリームをプレゼントしていました。さらに肢体不自由児のために基金を設立するだけでなく、ボーイスカウトの活動を始め医学研究や教育、病院などにも資金提供をしています。サンダースが活躍したケンタッキー州の議会には胸像が飾られています。モデルや女優、動物愛護活動家として活躍していたパメラ・アンダーソンは、KFCはニワトリへの残酷行為の象徴だという主張をし、サンダースの胸像を撤去するよう要請しました。しかしケンタッキー州の知事は、サンダースはケンタッキーの象徴だと反論し撤去することはありませんでした。

「おいしいもので人を幸せにしたい」その信念で店舗を構え、世界各国で愛されるKFCというブランドを作りあげたカーネル・サンダース。40歳頃までは転職を繰り返し苦労人であったことを初めて知った方も多いのではないでしょうか?数々の苦労を乗り越えて有名になった彼の人生は、人をもてなす気持ちサザン・ホスピタリティの精神が反映されています。

出典(公式サイト):ケンタッキー

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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