フランシス・ベーコン:20世紀後半の最も偉大な芸術家

フランシス・ベーコン(1909-1992)はピカソと並び20世紀を代表する画家である。その数奇な運命を辿った人生の歩みのなかで、一貫して具象絵画にこだわり続けて数々の傑作を描いている。人間が本能的に持つ不安や叫びといった激情的な感情を主題に置き、作品の中に見られるモチーフの連続性と時間はトリプティックとも呼ばれているのだ。21世紀に入ってもさらに評価の高まりを見せ続け、それに伴い価格も上昇し続けている最重要画家である。

生い立ち

フランシス・ベーコン(以下ベーコン)はアイルランドに生まれました。父親は軍人で競走馬のオーナーである厳格な人物であり、母親は裕福な製鉄業の家系だったのでいわゆる上流階級の子どもとして育ちました。ベーコン家は引っ越しが多く、アイルランドとイギリスの間を何度となく往復して過ごします。このことでベーコンは様々な文化性の違いに早くから気づいたのです。

また幼少期から女装癖があったベーコンは、度々家の中で母親の洋服を着て化粧をして遊んでいました。ベーコンにとってはそれがごく普通で心地よいものであったものの父親からは反感を買い、また当時は同性愛を含めそういった趣向は奇異の目で見られていたため、家と外の両方の世界で窮屈さを感じて育ちました。そうした経験がベーコン自身の人格形成にも影響を与え、それが芸術と出会うことで顕在化していったのです。

そうした感性が育まれた要因の一つに、ベーコン自身が病弱で喘息持ちであったがために学校へは通えず個人授業を受けており、社会との交わりが限定的であったことも影響しているはずです。専門的な美術教育は受けていないものの、10代半ばごろからベーコンは絵を少しずつ描きはじめています。自身の内面を表現することに早くから気付き始めていたのです。

ロンドン一人暮し〜暗黒街生活へ

1926年、幼い頃から父親との折り合いがつかずついに勘当されてしまったベーコンは、ロンドンへ移住します。生活は貧しいものだったので、いくつかの仕事に就きますがどれも長続きはしませんでした。いわゆる普通の仕事というものにベーコンは全く馴染むことが出来なかったのです。

そこからロンドンの暗黒街の世界で生きるようになり、そこでは昼間の仕事と違いベーコンのことを求める同性がたくさんいました。そうした環境に身を置くうちにベーコン自身も同性愛に目覚めていきます。そこで知り合った同性愛者を通じての仕事はうまくいき、ロンドンでの生活も向上していきます。そうした環境(とはいえどこまで知っていたかは定かではない)を案じたベーコンの両親は、母親の親戚でブリーダーのハーコート・スミスのベルリン旅行へと教育のために同行させます。

ところがこれが大きな間違いで、ハーコートはバイセクシャルだったがためにまんまとベーコンは客にしてしまいました。2ヶ月ほど一緒にベルリンに滞在したのち、ハーコートは別の女性とどこかへ行ってしまいます。途方に暮れたベーコンでしたが、思わぬ副産物として映画「戦艦ポチョムキン」を観て大きな衝撃を受け触発されていきます。
戦艦ポチョムキン…1925年にソビエト連邦で公開されたサイレント映画。監督はセルゲイ・エイゼンシュテイン。後に続く映画人たちに大きな影響を与えている。

その後パリへ渡りベーコンは様々なアート作品に触れることとなります。当時のパリはアート世界の中心であり、エジプトやギリシャなどの紀元前の作品から同時代のアーティストの作品まで幅広く学んでいきます。そこでプッシーニの絵画作品「幼児虐殺」のなかに出てくる登場人物の「叫び」にベーコンは生涯に渡り虜となっていきます。

それは戦艦ポチョムキンのなかで女性が叫ぶシーンにも関心を抱いていたのと同様に、後に人間の不安や恐怖をテーマに絵画を描きますがこの時点ではまだ画家になる決意をしていませんでした。確信を持って絵と向き合うまでにはもう少し時間が必要だったのです。

再びロンドンに戻ったベーコンはインテリアデザインなど様々な職に就きながら長い間道に迷います。例えば口内の病気についての書籍にとても興味を抱いて生涯に渡り読み直しています。とにかく関心を持つと物凄い情熱を注いで研究する性格だったのです。その時代のことをベーコンは「関心を抱く分野はたくさんあれども画家としてのテーマを見つけることが出来ず、そのために芸術家としてのスタートが遅くなった」と語っています。

キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)

1944年に制作したこの作品によって画家としての自身の能力に自信を持ち始め、この作品は第二次世界大戦後の1946年ごろから注目されていきます。この作品はギリシャ神話に出てくる3女神をモチーフにしており、擬人化された生命体が描かれています。後に映画監督のデビット・リンチが「イレイザー」を撮る際、大いに触発されたとも語っています。
本作をもってベーコンは「画家人生の始まりである」と語っています。

画家人生を駆け上っていく

1940年代後半に入ると、ベーコンの作品は様々な批評家からも賞賛されていきます。その時代の代表作と言えば「絵画(1946年)」です。狂気と暴力が剥き出しとなったこの作品は、目を背けたくなるものの、どこまでも視神経に迫ってくる傑作といえるでしょう。心地よさと対極にある衝撃や衝動を与えるベーコン作品の真骨頂でもあるのです。しかしベーコンは気に入った作品以外はことごとく破壊していくのでその後の数年間の作品は残されておらず、全時代を合わせても現存する作品数は少ないです。またこの頃にジャコメッティなどの芸術家とも親交を深めていきます。

アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)…スイスの彫刻家。細長い独自の人物像を創り上げ、人間の実存的な不安と孤独を表現した20世紀を代表する彫刻家。

1950年代のベーコン

1950年代頃からベーコンは「コロニー・ルーム」という芸術サロンに出入りするようになります。ここは会員制のクラブであり、ベーコンは生涯会員でもあるのでそこではベーコンは特別に週10ポンド払えば、友人・知人の著名人を招待することで自由にお酒を飲むことができました。ベーコンの招待客のお陰もありサロンは人気芸術家の集う場所となります。画家、写真家、ミュージシャンなど、様々な表現者がそこに集ったのです。この場所はベーコンが亡くなった後の2008年まで続き、今ではイギリスを代表するアーティストとなったデミアン・ハーストも若い頃に通っていました。

ダミアン・ハースト(1965ー)…現在のイギリスを代表するアーティスト。死を連想させるインスタレーションや作品を数多く残し、絶えず論争を巻き起こしている。YBAs(ヤングブリティッシュアーティスト)のひとり。1995年にはターナー賞を受賞している。

天井から落下してきた運命の出会い

1964年にベーコンのアトリエに泥棒が入ろうとして天井から落下してきた男こそ、ベーコンのミューズとなったジョージ・ダイアー(以下ダイアー)でした。ベーコンはダイアーの姿を見て一目惚れします。そして、警察に突き出さない代わりにベッドへと誘ったといいます。それ以降、ダイアーはベーコンのモデルでもあり愛人になっていきます。

ベーコンはダイアーのなかにある不安定で繊細でお人好しな性格に惹かれ、ダイアーはベーコンがいつでも自信があり堂々としているその姿に次第に惹かれていくのです。そしてベーコンの作品のなかにもダイアーが度々登場するようになります。若き頃のベーコンとおなじく暗黒街にいたダイアーをいきなりセレブの世界へ引っ張り上げたものの、あまりにも生活環境が変わりダイアーはお酒に逃げることが増えてアルコール依存症になってしまいます。そして次第にベーコンやその周囲の人間に迷惑をかけるようになっていくのです。

黒の3連が生まれる

この作品が生まれる経緯となったのが1971年10月のことでした。その日ベーコンはパリのグラン・パレで開かれた名誉ある回顧展で絶賛を浴びている最中、ダイアーはホテルで大量の睡眠薬を飲み自殺してしまいます。これを機にベーコンの内面は壊れていき、深い悲しみの日々が続いていきます。

この出来事がきっかけで生まれたのが「黒の3連」と呼ばれる作品です。描かれているのはもちろんダイアーでした。弱々しさを強調しながらも肉体的な部分もベーコンの解釈によりデフォルメされた悲しくも美しい傑作が生まれたのでした。

おわりに

その後も新たな恋人ができ、実に恋多き人生を歩んだベーコンは1992年、恋人に会いにスペインのマドリードへと滞在中に持病の喘息が悪化して入院します。そして同年の4月28日に20世紀後半の最も偉大な芸術家と呼ばれたベーコンは亡くなりました。

アトリエとして使用していたスタジオも有名でカタログ化され、そこには残されていた約570冊の書籍、1500枚の写真、100枚のキャンパス、1300枚の本の切り抜きなどが散乱したカオスな空間となっています。ベーコンが何を感じ、何を見て、どこへ行こうとしていたのか、その息遣いを手に取るように感じることができるのです。

衝動、衝撃、混乱、絶望、そういった感情すらも、偉大なアート作品になることをベーコンは今も私たちに証明し続けてくれているのです。ベーコンのことを知り少しでもアートの見方の幅を広げていくことができたならとても嬉しく思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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