レイチェル・プラッテン:遅咲きも歌姫

レイチェル・プラッテンはアメリカ合衆国のシンガーソングライター。長い下積み時代を経て34歳でようやくブレイク。今もなお精力的に歌い続け、今後の活躍も期待される人物。

小さい頃から音楽が好きだった

レイチェル・プラッテンは1981年にニューヨークで生まれ、マサチューセッツ州ニュートンセンターで育ちました。5歳からクラシックピアノを習い、両親の影響でビートルズやサム・クックの歌を口ずさんでいたと言います。高校時代にギターを習い始めてヒップホップや女性シンガーソングライターなどから影響を受けるようになったそうです。
彼女が集めていたレコードはトーリ・エイモス、パティ・グリフィン、ア・トライブ・コールド・クエスト、ナズなど多くのジャンルに及びます。昔から音楽を聴く際に歌詞を重視していたレイチェル曰く「自分の弱さをさらけ出す脆弱な歌詞」という共通点に心惹かれていました。
また自分はオタクだったことも語っており、10代の頃は自分に自信がなく、歌詞の内容と自分を照らし合わせて共有・共感して過ごしていたのでしょう。そんな彼女が唯一輝ける場所が高校時代、大学時代に所属していたアカペラグループ。ただ歌は大好きだったものの「将来アーティストになるなんて絶対に不可能だ」と考えていました。

トリニティカレッジ時代、短期留学でトリニダート・トバゴに行った際、音楽コンテストで友人のバンドで歌う機会があり8万人の前で歌声を披露します。ステージに立った瞬間「これが私の宿命なんだ!」と強く衝撃を受け、この時の体験が後にアーティストと目指すきっかけとなったのです。

アーティストを目指す事を決意するものの、長い下積み時代が始まる

20代の頃、音楽を続けられる環境を作る為にそれとマッチした仕事を渡り歩き、音楽優先の生活をしていました。自身がエージェントのふりをしながら重たい機材を担いで自主公演を何度も行い、時にはお客さんの前で何時間も歌ったと言います。
そんな自主ツアー以外でも自分が歌で出来ることを探し求めていた彼女は、チャリティ団体の「Musicians On Call」と出会います。治療中やベッドから出る事の出来ない患者のもという団体で、ミュージシャンとして所属したレイチェルも多くの病院を回って患者達を元気づけました。このことにより音楽の素晴らしさを更に再確認し、アーティストになるという夢はどんどん強くなっていったのです。
この頃住んでいた近所に「アーヴィング・プラザ」というライブハウスがあり、収容人数は1000人程と小さかったものの、いつかここの看板に自分の名前を掲げてライブをしたいという事を目標にしていました。
この成功に向けてSNSで「どうすれば成功させることが出来るのか」「秘策はないか」呼びかける投稿をしますが、無名の彼女にコメントやいいね!を返す人など誰もいませんでした。しかし負けることなく強い心でPRし続けました。

一度はデビューしたが、売れないまま30代に

2003年に一度インディーレーベルから「Trust in me」というアルバムをリリースしていますが大々的に世に出ることはなく、芽が出ないまま30歳を迎えます。
心配した周囲からは「もういい歳なんだし、夢を追うのやめたら?」「絶対成功出来ないから諦めなさい」などと言われ続けますが、彼女の情熱が冷めることはありませんでした。2011年、ようやくメジャー契約し、セカンドアルバム「Be Here」を発表します。この中の収録曲「1000ships」がビルボードのアダルトトップ40で初めて24位にランクインします。更にはアメリカの人気テレビドラマなどでもフューチャリングされ、レイチェルの歌は少しずつ認知されていきますがその先の大きなヒットはなく、本人も諦めかけていました。

自分で火をおこして燃え上がらせる!自分応援ソング「Fight Song」の誕生

アーティストとしての大ヒットを諦めかけていましたが、現マネージャーに「他人の火で温まるのではなくて、自分で火をおこして人を集めなさい」と言われ心打たれます。そして自身の最後の力を振り絞って書き下ろしたのが「Fight Song」でした。
2012年、コロムビアレコードとの契約を獲得し、2015年に「Fight Song」をリリースすると彼女のおこした火はどんどん広がり大きくなっていきます。
当初全米チャートは80位でしたが、わずか3ヶ月でトップ10にランクインするまでになったのです。
ラジオ局から「1位になった」と連絡が来た際、レイチェルはラジオ番組のチャートで1位になったと思っていたそうで、その後「全米だよ」と言われ非常に驚いたと語っています。こうして同曲は社会現象となり、自分を奮い立たせる為に作った自分だけの応援ソングは人々の共感も得てみんなの応援ソングとなっていきました。また、第一線で活躍するアーティストのライブに招待され共演したり、人気テレビ番組でがん患者の少女とデュエットしたり、更にはヒラリークリントン議員が選挙のキャンペーンソングとして使用するなど多くの人に愛される一曲となったのです。
「Fight Song」が収録されたアルバム「Wildfire」は他にもヒットソングが収録されており全米初登場5位を獲得しました。

ふと立ち止まった時、ふいに不安になることも…

「Fight Song」のヒットで周囲から「いつも人を元気づけ、ポジティブでご機嫌だ」と勘違いされる事が多々あるようです。「そう思われる事は光栄だけど私はそんな人間じゃない」と言います。大きな夢を掴みましたがそんな中でも苦悩があり、自分の中で溜めてきた事があることに気がつきます。
更なる音楽での解放を探し求めた彼女に大きな影響を与えたのが、女性の権利を訴える「ウィメンズ・マーチ」でした。参加者が赤い服をまとってニューヨークの街を進んで行く姿が炎のように感じたレイチェルは、社会進出したいけれど逆境に直面して見えない壁の向こう側を見たいと望んでいる人達の為の曲「Broken glass」を作りました。

ゆっくりでもいい。折れそうになっても負けないで。必ず実を結ぶから。

幼少時代から音楽が好きでひょんなことから8万人の前で歌を披露して以来、アーティストになる夢を信じて一直線に進んで来たレイチェル・プラッテン。当時誰も答えてくれなかった彼女のSNSは現在5万人を超えるフォロワーがいます。また、近所にあった小さなライブハウス「アーヴィン・プラザ」でのライブも、夢見た日から実に10年越しで完売し夢を叶えたのです。
遅咲きであるからこそ人の心に優しく寄り添えるのかもしれませんね。歌詞を重視して曲を聴いてきたレイチェルだからこそ生まれる今後のメッセージに注目し、期待していきたいと思います。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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