ホイットニー・ヒューストン:短い道を走り切った世界的ディーバ

ホイットニー・ヒューストンはアメリカ合衆国の代表的な歌手、女優で元ファッションモデル。素晴らしい美声を持ちながらも不遇の人生を歩み、最後には薬物に溺れて48歳という若さでこの世を去ってしまいました。

芸能一家で生まれ育つサラブレット

ホイットニー・ヒューストンは1963年8月、ニュージャージー州ニューアークで父、ジョン・ヒューストンと母で歌手のシシー・ヒューストンの第三子として生まれました。母は1960年代に活躍したR&Bグループ「スイート・インスピレーションズ」のリードボーカルで、ソウルの女王アレサ・フランクリンや、ロックの王様エルヴィス・プレスリーなどのツアーでバックコーラスを担当しています。
従姉などにゴスペルやR&B、ポップ歌手がいた為彼女は確実にその血を受け継いでいました。
幼い頃から教会でゴスペルを学び、11歳の時には聖歌隊のソリストとして活躍していました。始めて間もない頃は自分に自信が無く目を瞑って歌っていたそうです。ある日教会で自分の歌を聴く人々の姿を見て受け入れられた事を感じ、プロの歌手を目指すようになります。
10代の頃に両親は離婚。親権は母が持ち、ホイットニーはカトリック系の女子校に通って学生時代は母から歌唱の指導を受けていました。同時に母が歌うナイトクラブについて行き、同じステージに立つなどして経験を積んでいきます。母との活動によりファッションモデルをしながらチャカ・カーンなどの有名アーティストのバックコーラスも務めていました。
そんな彼女の姿を周りが放っておく訳もなく、1983年にプロデューサーのクライヴ・デイヴィスに見出されアリスタレコードと契約しました。

きらきら輝いていた絶頂期

契約から2年後の1985年、満を持してデビューアルバム「Whitney Houston」を発表すると大ヒットを収めます。その後セカンドシングル「Saving All My Love For You」から7曲連続で全米シングルチャート1位という記録を樹立、更にセカンドアルバム「Whitney」はビルボード初登場1位を記録するなど輝かしい功績を残します。
1991年、史上最高と賞賛された国歌斉唱を行い、1992年に映画「ボディガード」に出演、1994年にはグラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞するなど絵に描いたようなスターダムにのし上がり、彼女の歌声は世界中を魅了したのです。

誇り高い「ソウルのプロムクイーン」とゲットーで育ったバッドボーイの結婚

ファッションモデルもこなす程容姿端麗だったホイットニーに浮いた話が全く出ない事からレズビアンではないかとゴシップが流れた事もありました。しかし「私はそう簡単には男性と付き合わない。心から愛せる男性が現れるまで待つように育てられてきたし、そういう家庭で育ってきたから」とカトリック系の女子校に通っていた彼女らしく、キリスト教信者であることを常に誇りに思いデビュー後もクリーンなイメージを保ち続けていました。
そんな彼女の輝かしい記録の数を比例するかのように、忙しくめまぐるしい日々が続いていくなかで自分の支えになる物をもがき探し求めるようになります。それが元夫であるボビー・ブラウンでした。二人は1992年に結婚します。
彼もまた同じ時代にヒットを連発し売れっ子の道を走っていました。一見同じ立場の者同士に思えますが、ホイットニーの人気に反して彼の人気は徐々に陰りを見せるようになります。妻の人気に嫉妬したボビーは大麻やコカインなど違法薬物に手を出し、家庭内暴力をもするようになります。
それでも夫を愛していた彼女はどうにか更生させようと努力したものの、夫に勧められるがまま自身も薬物に手を染めてしまうのです。
ここから彼女の転落人生が始まります。

確実に踏み込み始めてしまった死への階段

2000年にベストアルバムを発表しますが、その頃ハワイで大麻を所持していた事により拘束されてしまいます。その後テレビで薬物乱用やアルコール依存などを告白しました。ボビーが暴行事件などで度々逮捕されていた事もあった為彼女のプライベートを取り上げられる事は多かったようです。薬物の乱用をやめられず美しかった彼女の姿は急激に痩せ細ってしまい、その姿にファンは驚きを隠せませんでした。
夫の家庭内暴力もエスカレートしてしまい、ホイットニー自ら警察に通報したこともありました。2006年、ようやく14年間の結婚生活に終止符を打ち離婚が成立しました。2008年にニューアルバムをリリースすると発表されましたが延期になり、実際には翌年の2009年「I look to you」を発表しました。「ボディガード」から17年振りに全米チャート1位を獲得し見事な復活を遂げたのです。

復活もつかの間、悲しい最後と死後にも起こる不運

2012年、グラミー賞の授賞式に出席する為ロサンゼルスのザ・ビバリー・ヒルトン・ホテルに宿泊中、浴槽で倒れているのを発見され、48年という短い生涯を終えました。
後にロサンゼルス郡検視局によると彼女の死因はアテローム硬化性心疾患とコカインの摂取によるもの。薬物から復帰する為にプログラムにも参加していたものの、アルコールや薬物乱用の壁を乗り越えるのは安易な事ではなかったようです。
その後も彼女の周りに更なる不幸が付きまといました。2015年、ホイットニーの娘であるボビー・クリスティーナ・ブラウンが皮肉にも母と同じように水の溜まった浴槽で倒れているのを発見され昏睡状態に陥ります。家族の献身的な看病の甲斐も無く、彼女の意識は戻らないと医師に告げられ延命処置をやめる事を決断。同年クリスティーナは息を引き取りました。

人生は分かれ道の連続

そんな不遇な人生を送ったホイットニー・ヒューストン。カトリック系の女子校に入り、良き少女だった時代からもう一度やり直してクリーンなまま歌手生活を続けていたら、ボビーと結婚しなければ、薬物に手を染めなければ…一体どうなっていたのでしょうか。
2018年、彼女の公に出ていなかった更なる苦悩や輝かしい功績を記録したドキュメンタリー映画「Whitney」が公開されました。家族やボビー、関係者達へのインタビューが行われ、美しい声を持つ彼女の人生の奇跡から没落まで深く掘り下げた内容となっており、親友でありアシスタントも務めたロビン・クロフォードとの親友以上の関係の疑惑や、幼い頃の性的虐待の可能性など衝撃的な内容も明らかにされています。このような内容から公開後に物議を醸しましたが、長年ホイットニーのもとで映画出演のエージェントとして側に居たニコール・デイビットはこの映画をプロデュースするにあたって彼女の最終的な「お騒がせクイーン」という印象を払拭し、何故若くして死ななければならなかったのかちゃんと理解をしたかったと語っています。その思いは明確に映画を鑑賞した人々に届きました。
また彼女が亡くなった今もなお、これだけ世界中から注目されるという事が、ホイットニーの歌声の素晴らしさを何よりも証明する物となりました。
人生は別分かれ道の連続です。薬物と出会う事無く、名誉叔母とも言われていたアレサ・フランクリンのように歳を重ねても歌い続けるホイットニー・ヒューストンの姿を見てみたかったと悔やむファンのため息は世界中で溢れている事でしょう。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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