RUN DMC:ゲトーの音楽HIPHOPをオーバーグラウンドに引き上げた伝説のグループ

RUN DMCはアメリカのニュヨーク州ニューヨーク市出身の3人組HIPHOPグループ。
解散してしまった今もなお、世界中の人々に聴かれているヒット曲を持つ。

●RUN DMCの始まり

RUN DMCのメンバーはニューヨーク市クイーンズ地区で生まれたジョセフ・シモンズ、ハーレム地区で生まれたダリル・マクダニエルズ、ブルックリン地区で生まれたジャム・マスター・ジェイの3人。ジョセフは12歳にして、兄でありHIPHOPレーベル「デフ・ジャム」の創設者であるラッセル・シモンズがプロデュースしていたカーティス・ブロウのもとでDJ活動を開始し、その後ソロアーティストとしてシングル「ストリート・キッド」をリリース。しかし全く売れず、1982年に高校の同級生だった3人でRUN DMCを結成しました。

●新しい風を起こす、新しいサウンドの誕生

1983年、デビューシングル「イッツ・ライク・ザット」を発表しR&Bチャートで11位を記録しました。続いてリリースされたファーストアルバム「RUN-D.M.C」はHIPHOPアーティストのアルバムとして初となるゴールドディスクを獲得します。このアルバムでこれまでのHIPHOPにはなかったメインのドラムに合わせて力強いラップを披露するというまさにヘヴィメタルやパンクロックなどを意識した衝撃的なサウンドが展開されました。
1985年、セカンドアルバム「キング・オブ・ロック」ではほとんどの収録曲にメロディーといわれる演奏がつき、曲を格段に覚えやすくなります。翌年の1986年に発表したサードアルバムでは世界的ロックバンド、エアロスミスのスティーヴン・テイラーとジョー・ペリーが参加し、大ヒットした「ウォーク・ディス・ウェイ」が収録されロックファン層に認知されていきます。

●サウンドだけではない、彼らの新しい手法はこんな所にもあった

彼らのコンサートにアディダスの重役を招待し、サードアルバム「ライジング・ヘル」の収録曲「マイ・アディダス」を歌う直前、お客さんに「皆の履いているアディダス(靴)を脱いで高く掲げてほしい」と言うと観客達は靴を脱ぎ高く掲げて会場中が3本線のスニーカーで覆われたそうです。

その後RUN DMCはアディダス側から自分達用の製造ラインを作ると言われ、スポンサー契約を交わします。まるで高年俸のスポーツ選手かのように扱われ、一流アーティストへと上り詰めました。
現在ミュージシャンが独自にブランドと契約するという動きが当たり前になりましたが、それもRUN DMCがきっかけだったと言えるでしょう。
また違った分野にも挑戦していきます。1985年の映画「クラッシュ・グループ」ではシーラEとダブル主演で共演し、HIPHOPムービーの先駆けと言える存在にもなりました。

●遅すぎた栄光、あの頃の自分達

こうしてゲトーの音楽と言われてきた貧困の若者達の象徴である音楽「HIPHOP」が品格すら醸し出すようになり、その流れは様々なアーティストに影響を及ぼします。
ラップグループのパイオニア的存在であるRUN DMCは現役時代「ソウルトレイン・ミュージック・アワード」の最優秀アルバム賞やシングル賞を受賞しています。その功績は解散後も輝き続け、2014年に「グラミー殿堂賞」、2016年には「グラミー賞 特別功労賞生涯業績賞」を受賞するなど未だに新しいアーティストに影響を与え続けているのがわかります。
受賞した時の気持ちを彼らはこう語っています。「俺らにしてみたら、過去には何度もノミネートされていて、一度も受賞する事が出来なかったのに、今頃功労賞をくれるのかって感じだった。俺達がラップグループとしてグラミー賞に初めてノミネートされた時には、ラップのカテゴリー自体が無く、事実上の対象外として外されたから、今になって賞を送ろうってわけだ」
ただ、過去に功労賞を受賞した偉大なるアーティストの仲間入りができる事に関しては誇りを持っていました。しかし、大ヒットを飛ばした1986年に自分達が受賞できなかった事への悔しさはこの先もずっと心に残ってしまったのです。あのマイケル・ジャクソンから「君達の曲を聴かない日はなかった。86年、あの頃の君達はアワードを総なめするべきだった」と言われ、敬意を表されたという事実が彼らの気持ちを更にそうさせたのでしょう。

※ジェイ・マスター・ジェイの墓 (本名ジェイソン・ウィリアム・ミゼル)

●あまりにも突然で悲しい出来事

RUN DMCを語る上で忘れてはいけない…解散のきっかけにもなった重大な事件がありました。2002年、メンバーのジャム・マスター・ジェイが音楽スタジオで何者かに銃撃されて亡くなります。
当時スタジオには4人居たとされ、スタッフが膝を撃たれるなどの被害にあいました。その2年後には彼の甥であり、HIPHOPグループ「Rusty Waters」のロドニー・ジョーンズが銃撃されてほどなく犯人は逮捕されました。その犯人がジャム・マスター・ジェイも殺したのではないかと疑惑が浮上しますが、結局その事については逮捕されませんでした。この頃HIPHOP界で西海岸と東海岸の抗争があり、西と東の代表的なアーティスト、トゥパックとノトーリアスBIGが相次いで殺害されるなどの事件が起こり、その抗争が深く絡み付いているのではないかとも言われています。容疑者と思われる人物が浮上したり独自で捜査する者が現れたりと、各方面から殺人事件について深く調べられましたが、犯人が捕まることはなく事件の15年後2017年にニューヨーク市警は未解決事件として認定しました。
彼の死によって「三人でRUN DMCなのであって、彼がいなくてはやっていても仕方がない」という事で銃撃された同じ年にRUN DMCは活動休止を発表しました。
ロサンゼルスを代表するラッパー、アイス・キューブは彼らの音楽を高く評価していましたが、ある日「HIPHOPは死んだ」というフレーズを耳にし、そんな訳がないと思っていましたがジャム・マスター・ジェイの死を知った彼は「そうか、HIPHOPは死んだんだな」と納得してしまったそうです。同じ時代を歩んできた大物アーティスト達は彼の死を大変悲しみました。

●斬新な事ばかり挑戦してきた彼らの未来

ジャム・マスター・ジェイの死後も二人の活動自体は特別目立つようなものではありませんでした。それぞれソロで活躍しながらも二人でライブセッションを行うなど、現在も音楽活動を続けています。
ただ、かたくなに「再結成」はあり得ないというスタンスを貫いているように思えます。それはあくまでも「三人でRUN DMC」という解散理由にもなったこの言葉を、ある種「約束」として各自が守り続けているということなのでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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