アンドレイ・タルコフスキー:ノスタルジーの映像詩人

アンドレイ・タルコフスキーは、東西冷戦が過熱する最中に、人類の救済をテーマにした作品を次々に発表しつづけた映画監督です。ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」をモチーフにした「サクリファイス」は第39回カンヌ国際映画祭で4賞を独占して受賞するなど高い評価を受けました。

■アンドレイ・タルコフスキーについて

アンドレイ・タルコフスキーはモスクワから北東へ250kmほどのところにあるイワノヴォ地区のヴォルガ川河畔の街ユリエヴェツで1932年4月4日に生まれました。父親はウクライナの詩人のアルセニー・タルコフスキー。タルコフスキーが幼少の頃に父親は家を出て別の家庭を持ったため母親が一人で育てました。

母一人子一人の家庭だったため幼少のタルコフスキーは貧しい生活を強いられました。作曲家になる夢があり芸術学校に入りましたが、家にピアノがないため練習ができずに断念しています。その後画家を目指しますが肺結核にかかり画家の道も断念せざるを得ませんでした。

鬱屈したタルコフスキーは、アメリカ文化に影響されジャズと女漬けの日々を送るようになります。素行がどんどん悪くなっていく息子を心配した母は、シベリア地質調査隊に入隊させます。タルコフスキーはシベリア地質調査隊として1年間シベリアの森の中で過ごしました。

シベリアから帰ったタルコフスキーは映画大学への進学を決意し受験します。詩人である父親の働きかけで見事に全ソ国立映画大学(現在の全ロシア映画大学)に合格。全ソ国立映画大学は世界で最も古い歴史のある映画大学で、卒業生にはセルゲイ・パラジャーノフやニキータ・ミハルコフなどがいます。

全ソ国立映画大学に入学したタルコフスキーは映画監督で脚本家でもあるミハイル・ロンム教授について映画を学びました。在学中には、やがてソビエトを代表する映画監督になるアンドレイ・コンチャロフスキーなどと親交を結び、3年生のときにはヘミングウェイの「殺人者」を脚本にした短編映画を制作しています。

全ソ国立映画大学の卒業制作では「ローラーとバイオリン」という短編映画を制作しました。この作品はニューヨーク国際学生映画コンクールで一位を受賞し、ウラジーミル・ボゴモーロフの小説を原作にした映画「僕の村は戦場だった」の監督起用の話が持ち上がりました。「僕の村は戦場だった」はタルコフスキーのデビュー作となります。

映画「僕の村は戦場だった」はヴェネチア国際映画祭でサン・マルコ金獅子賞に輝き、サンフランシスコ国際映画祭では監督賞を受賞するなど国際的に高く評価されました。

その後、ロシアの伝説的なイコン画家のアンドレイ・ルブリョフをテーマにした映画や、SF映画「惑星ソラリス」などを発表。「アンドレイ・ルブリョフ」はソ連政府の検閲で「反愛国的」と評価され国内では5年間上映できませんでした。しかし、海外では高く評価され、カンヌ国際映画祭では国際映画批評家賞を受賞しています。

1975年には自伝的な作品「鏡」。1979年には「ストーカー」を発表しました。「ストーカー」は、重いテーマと社会性を帯びたメッセージ色の強さから、またもやソビエト当局の検閲にひっかかります。これを境にソビエト当局とタルコフスキーとの対立が深まっていきました。

徐々にソビエト連邦と距離を置いて活動するようになったタルコフスキーは、1983年に滞在先のイタリアでフェデリコ・フェリーニ監督の脚本家を務めたトニーノ・グェッラをスタッフに迎えて「ノスタルジア」を完成させます。

そして1984年、ソビエト当局の帰国要請を拒否する形で事実上の亡命宣言を発表しました。

スウェーデンで核戦争勃発をテーマにした最後の映画「サクリファイス」を制作して発表(1986年)。その年の12月29日に肺がんのため54歳の若さで死去しました。

■アンドレイ・タルコフスキーの代表的な作品

・「ローラーとバイオリン」

全ソ国立映画大学の卒業制作としてタルコフスキーがはじめて演出した作品です。音楽学校に通う少年と、路上でローラーをひいて整地作業をする少年との心の交流をみずみずしく描いています。

・「僕の村は戦場だった」

全ソ国立映画大学を卒業したばかりのタルコフスキーがメガホンをとったデビュー作。作家ウラジーミル・ボゴモーロフの短篇「イワン」が原作です。ドイツとソ連の戦争で両親を失った少年イワンが両親の敵を打つために偵察行動に参加して命を落とす物語。少年が平和だった時代の記憶をたどる回想シーンが詩情豊かに描かれています。詩情豊かな回想シーンと戦争という厳しい光景とのコントラストが残酷な現実を浮き彫りにする作品です。

・「鏡」

タルコフスキー自身の自伝的な映画作品。「私」による一人称でストーリーが進行していきます。

あらすじ
「私」が胸に秘めている母や父への思い、映像は40年前の「私」が生まれた祖父の家からはじまる。鬱蒼と生い茂る木々に囲まれたその家で、母がたらいに水を満たして髪を洗っている。鏡に映る母の長い髪から水が滴り落ちる。たしかあれは干し草置場で火事があった1935年のこと。それ以来父が「私」の前から姿を消した。
離婚した妻や離れて暮らす息子への後悔の念、「あのときこうすればよかった」という家族の間でおりなす感情のもつれ、過去と今を交錯させながらいろんな真実が浮かび上がってくる。息子を「私」の幼い頃と同じ境遇にさせてしまったことへの後悔の念が胸を締めつける。

・「ストーカー」

「ゾーン」に踏み込んだ3人の男たちを通して、現代人の苦悩とわずかな希望を見出そうとした作品です。

あらすじ
巨大隕石が落下したのか、それとも宇宙人の仕業か、または核による事故なのか。立ち入りが厳しく制限されている「ゾーン」と呼ばれるエリアがある。政府はただちにゾーンへ軍隊を派遣したが誰一人帰ってこなかった。
ゾーンには不思議な力があると人々は信じていた。一番切実な望みをかなえる「部屋」があるということだった。厳重な立ち入り制限を突破してゾーンへ侵入しようとする者が後をたたない。「ストーカー」(密猟者)は侵入者たちを部屋まで案内する役割を担っている。

・「ノスタルジア」

映画「ストーカー」をカンヌに出品した直後にタルコフスキーとスタッフのトニーノ・グエッラとが構想を練りはじめた作品です。撮影は主にトスカーナ地方で行われました。イタリア人スタッフが驚くほどの美しいロケーションをタルコフスキー自らが探し出したといわれています。

制作準備に3年半の期間を要し、製作会杜オペラ・フィルムを中心としてロベルト・ロッセリーニの息子であるレンツォ・ロッセリーニとマノロ・ポロニーニが制作を担当。イタリア国営放送RAIが制作費を出資して完成しました。

・「サクリファイス」

カンヌ映画祭で審査貞特別大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞、芸術特別貢献賞という史上初の4つの賞に輝いた作品です。言葉を話せない子供が話せるようになるまでの1日を描いた物語。子供の父親は「核戦争勃発の声」をテレビで聞き、自らの命を神にささげるかわりに世界を核戦争から救ってほしいと神に願い出ます。

「サクリファイス」の撮影は、スウェーデン南部のソ連を望むバルト海に浮かぶ島「ゴットランド島」で行われました。「サクリファイス」の完成後タルコフスキーは病床に伏し、1986年12月28日に肺がんのため54歳で亡くなりました。

■まとめ

ソビエトの映画監督、アンドレイ・タルコフスキーについて紹介しました。タルコフスキーは20世紀の人類が抱える深刻な問題と直接対峙し、わずかな可能性とかすかな希望を紡いだ映像詩人です。冷戦が終結したとはいえ、人類の抱える問題の深刻さは増す一方です。タルコフスキーの作品をもう一度見なおして再評価する時期かもしれません。

・映画「ストーカー」(1979) 予告編

・映画「ノスタルジア」(1983) 予告編

・映画「サクリファイス」(1986) 予告編

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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