ル・コルビュジエ:休暇小屋を愛した巨匠

20世紀の建築界に多大な影響をおよぼした建築家ル・コルビュジエが手がけた建築の中に「カップ・マルタンの休暇小屋」のような小さくてとても素敵な作品があります。南仏コート・ダ・ジュールの美しい海岸に面した高台に建つ小屋は、夫人と一緒に休暇を過ごすために設けられました。今回は建築界の巨匠ル・コルビュジエをご紹介します。

■ル・コルビュジエについて

みなさんはル・コルビュジエと聞いてどのような建物を連想されますか?「ロンシャンの礼拝堂」または日本の上野にある「国立西洋美術館」でしょうか。

ル・コルビュジエ(シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ)は、1887年10月6日にスイスのラ・ショー・ド・フォンで生まれました。父親のジョルジュ・エドゥアール・ジャンヌレは時計のエナメル盤を作る職人で、母親のマリー・シャルロット・アメリー・ジャンヌレ・ペレはピアノの先生でした。

1900年、コルビュジエ13歳のコルビュジェは地元にある美術学校に入ります。17歳で美術学校高等科に進学、そこでシャルル・レプラトニエ先生と出会い、建築への興味を抱くようになりました。

1905年、18歳のときには、美術学校の運営委員ルイ・ファレ氏の家を建築家ルネ・シャパラの協力を得てデザインしています。この「ファレ邸」がコルビュジエのデビュー作ということになります。

1907年の20歳から1909年の22歳まで、コルビュジエはヨーロッパ各地を2年の歳月をかけてまわります。また、1911年から半年間の予定でトルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方への旅を経験しています。この2つの旅が将来の建築家としてのコルビュジエを形作る原動力になっています。

1907年の最初の旅では、イタリアのミラノ、フィレンツェ、ガルッツォ、シエナ、ボローニャなどを周遊してルネサンス期の「エマの修道院」など名建築を見学しました。その年の11月にはブダペストを経由してウィーンに向かい、ウィーンに4カ月間滞在しています。

ウィーン滞在中に「ストッツァー邸」と「ジャクメ邸」の構想を練ります。1908年の3月にはニュルンベルグ、ミュンヘン、ストラスブール、ナンシーなどを巡り、パリへ向かいました。パリではフランツ・ジュールダン、アンリ・ソヴァージュ、シャルル・プルメ、ウジェーヌ・グラッセといった建築家や装飾家のもとを訪ねて面会しています。

しばらくの間パリにあるペレ兄弟のアトリエに滞在して製図職人として働きました。ヨーロッパの各地をめぐりラ・ショー・ド・フォンに帰ってきたコルビュジエは、1910年23歳で「連合アトリエ」を設立します。

1910年の4月にはラ・ショー・ド・フォン美術学校の任務でドイツの装飾芸術を調査するためにドイツへ赴き「ドイツの装飾芸術運動」という論文を執筆して発表しています。この年の冬には、ベルリンのペーター・ベーレンスの設計事務所で働き、ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエといった建築家たちと出会っています。

1911年には半年間の予定でベルリンから東欧へ、トルコ、ギリシャ、イタリアの建築を巡る東方への旅に出ます。

帰国後の1912年、コルビュジエは両親のために「ジャンヌレ・ペレ邸」をラ・ショー・ド・フォンに建てました。

1917年、コルビュジエは30歳のとき、生まれ育ったラ・ショー・ド・フォンを離れてパリに出ることを決意します。バヨンヌ通り20番地に最初のアトリエを設け、次にアストル通り29番地にアトリエを移しています。この年の4月には鉄筋コンクリート会社SABAの顧問に就任しました(1919年1月まで)。

1922年、建築家ペレのオフィスで働いていた従兄弟のピエール・ジャンヌレと共同で建築設計事務所を開設。両親のためにレマン湖の畔に建てた「レマン湖畔の小さな家」をかわきりに、「ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸」や「サヴォア邸」「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」「ロンシャンの礼拝堂」「ラ・トゥーレットの修道院」といった名建築を次々に生み出すことになります。

■コルビュジエが手がけた「国立西洋美術館」

日本の上野にある「国立西洋美術館」は日本国内で唯一のコルビュジエが手掛けた建築です。ただし、コルビュジエが担当したのは建物の基本設計のみで、具体的な詳細の設計はコルビュジエのアトリエで建築を学んだ弟子である坂倉準三、前川國男、吉阪隆正の3人が担当しました。

「国立西洋美術館」は、フランスで美術品を収集していた実業家である松方幸次郎氏のコレクション(松方コレクション)が日本に返還されるのに合わせて建設されることになった美術館です。松方コレクションは第二次大戦後、敵国資産としてフランス政府に差し押さえられていました。

コルビュジエは美術館の本体以外に周辺の総合的なプランも構想していましたが、美術館の本館以外の予算がとれず構想は実現しませんでした。同時期にコルビュジエの設計によるインドの美術館(チャンディガールとアーメダバード)が建設されました。インドの2つの美術館では実現できなかった中3階を利用した照明の配置が「国立西洋美術館」では実現しています。

「国立西洋美術館」はコルビュジエが日本に残した唯一の建物であることや、無限成長美術館構想に沿って建てられたこと、近代建築運動に貢献する建物であることから、2016年に世界文化遺産に登録されました。

■西洋の草庵「カップ・マルタンの休暇小屋」

「カップ・マルタンの休暇小屋」はコルビュジエが夫人と休暇を楽しむためだけに設計し建てました。

「カップ・マルタンの休暇小屋」の広さは3m66cm×3m66cm。方形をした一間だけの小屋です。小さいトイレが一つあるだけで、台所や浴室はありません。小屋の横に簡易シャワーが設けられているだけの極めてシンプルでストイックな構造です。

まるで日本のお茶室(方丈)のようなワンルームの小屋。この小屋はコルビュジエが提唱する「モデュロール」を基準にして広さや天井高が決められています。天井高は2m26cmで、この高さは身長180cmの大人が立って手を伸ばした寸法です。

フランス南部コート・ダ・ジュールの海が見わたせる高台に「カップ・マルタンの休暇小屋」(カバノン)は佇んでいます。1951年に妻のイヴォンヌにプレゼントしました。イヴォンヌはカップ・マルタン近くのマントンの出身です。

「カップ・マルタンの休暇小屋」の敷地は、コルビュジエがこの地でレストランを経営するオーナーであるトマ・ルビュタートのために建物を設計したことと引き換えに提供されたものです。

妻イヴォンヌは1957年に亡くなりましたが、その後もコルビュジエはこの休暇小屋をよく利用しました。

1965年8月27日、コルビュジエはバカンスを楽しむために「カップ・マルタンの休暇小屋」に滞在していました。そして、海で泳いでいる最中に心臓発作にみまわれそのまま帰らぬ人となりました。ルーヴルのクール・カレで葬儀が行われた後、カップ・マルタンの墓地に妻と一緒に埋葬されています。

■まとめ

建築家ル・コルビュジエ氏について紹介してきました。コルビュジエは画家としてスタートした類まれな建築家です。建築の構想を練りながらたくさんのタブローを制作しています。世界的な建築界の巨匠でありながら、人が暮らすギリギリの大きさの「カップ・マルタンの休暇小屋」を生涯愛して利用しました。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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