スティーブ・ジョブズ:もし今日が最期の日でもハングリーであれ

スティーブン・ポール・ジョブズ(1955-2011)アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身の実業家。また、技術者、作家、教育者であり、アップル社設立者の1人でもあります。家庭用コンピュータの開発に成功し、新たなコンピュータ像を創り上げました。彼は、25歳の若さでフォーブスの長者番付に入り、27歳でTIME誌の表紙を飾っています。アップル社の取締役会長を退任後、ピクサー・アニメーション・スタジオを立ち上げ、ディズニー社の取締役を務めました。

※カリフォルニア州サンフランシスコの

<コンピュータ好きによる、コンピュータ好きのためのコンピュータ>

ジョブズは、1955年に父アブダルファン・ジャンダリと母ジョアン・シンプソンの間に誕生します。当時大学生だった母は、シリア移民としてアメリカへ移住した父との結婚を両親に反対されていました。そのため、ジョブズは生まれる前から養子に出される事が決まっていたのです。彼は、カリフォルニア州マウンテンビュー在住のポール・ジョブズとクラリス・ジョブズ夫妻に育てられる事になりました。

※スティーブ・ウォズニアック

高校生になった彼は、クパチーノのホームステッド高校へ通いながら、パロアルトにあるヒューレット・パッカード社の講義にもたびたび通っています。その後、ヒューレット・パッカード社のサマーインターンシップに参加する事となり、後にアップル社の共同設立者となるコンピュータ・エンジニアのスティーブ・ウォズニアックと出会いました。ウォズニアックは、6歳にしてアマチュア無線の免許を取得し、自作のアマチュア無線機を組み上げるほどの有能なエンジニアです。さらに、13歳の頃には、トランジスタの組み合わせによる二進加減算機コンピュータを作り、科学コンクールで優勝。また、彼は無料で長距離通話が出来る違法なコンピュータ「ブルーボックス」の製作に取り組み、ジョブズがそれを大学で販売しました。

1972年、ジョブズはオレゴン州ポートランドのリード大学へ進学しましたが、学習に価値を見出す事が出来ず、わずか半年で中退します。しかし、中退後も興味のある講義だけは、聴講していました。この頃、カリグラフィーデザインにも興味を持ち、後のマッキントッシュに活かされる事となります。その後、彼は初期のコンピュータを趣味とする人々の団体、ホームブリュー・コンピュータ・クラブへ出入りするようになりました。ここには、後に活躍する多くのIT起業家が所属していたのです。

※AppleII

その後もウォズニアックとの交流は続き、1976年にアップル・コンピュータ社を共同で創設します。ジョブズは私財を投じ、唯一の移動手段であったフォルクスワーゲンのバンを売りに出しました。一方ウォズニアックは、ヒューレット・パッカード製電卓HP-65を500ドルで売り、AppleIを開発しています。その後1977年には、AppleIIを発売。AppleIIは、世界初の個人向けパーソナルコンピュータで、大量生産、大量販売が実現しました。ジョブズは、自分のようにコンピュータ好きな人々が、専門的な知識が無くても使用出来るコンピュータの販売を実現したのです。AppleIIは、家庭でコンピュータを使用したいという人々に好まれ、教育現場でも使用されるようになりました。

※初代マッキントッシュ

<洗練されたマッキントッシュと引き換えに>

1984年、ジョブズ率いるアップル社は、マッキントッシュを発表します。これまでは、キーボードでコマンド打ちをしていたコンピュータですが、マッキントッシュはマウスで操作し、画面に表示されたアイコンをクリックするというスタイルを採用。加えて、以前から彼が興味を持っていたカリグラフィーの美しいフォントとデザインが人々を虜にしました。

マッキントッシュは、デザイン性や機能性が洗練された商品です。しかし、そのこだわりが従業員にとって重荷となり、社内を混乱させました。その結果、1983年にマーケティングのプロとしてペプシコ社から引き抜いたCEOのジョン・スカリーとの権力争いが勃発します。

そして、ジョブズの身勝手さ、マッキントッシュの膨大な在庫、従業員の人員削減が重なり、彼はスカリーの手によってマッキントッシュ部門の責任者から解任されました。

その後、ジョブズはNeXT社を創立。さらに、NeXTルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を1,000万ドルで買収し、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立しました。(ピクサー・アニメーション・スタジオは、2006年にウォルト・ディズニー・カンパニーの完全子会社となります。)

1996年、アップル社はNeXT社を約4億ドルで買収する事に合意。彼は、非常勤顧問という立場で復帰を遂げたのです。その後、2000年にはCEOに就任し、アップル社の株式、1,000万株のストックオプションを付与されました。

※初代iPhone

2001年にiTunesとiPodを発表し、音楽事業が軌道に乗り始めます。2007年には、スマートフォンという新しい形の携帯電話、iPhoneを発表。この携帯電話事業は、総売上高の半分を占めるまでに成長を果たしました。

<妻ローレン>

1989年頃、ジョブズがスタンフォード大学で講演を行った際、聴衆の1人であったスタンフォード大学院生のローレン・パウエルと出会います。当時27歳の彼女はペンシルベニア大学卒業後、ウォール・ストリートの投資銀行で働いていましたが、MBA取得のためにスタンフォード大学院へ通っていたのです。その後、MBAを取得した彼女は非常に優秀で、教育問題や女性問題にも興味を抱いていました。

2人は、1991年に結婚。ヨセミテ国立公園で結婚式を挙げ、その年に長男リード・ポール・ジョブズが誕生します。その後、長女エリン、次女イヴも誕生し、3人の子供に恵まれました。しかし、2003年にジョブズは肝臓癌と診断されます。最初は手術を拒んでいましたが、癌の進行により摘出手術を受ける事になりました。その後、復帰を果たしましたが、2008年に癌の転移が判明。肝臓移植手術を受け、一時的に回復したものの2011年に再発し、56歳の若さで息を引き取ります。

晩年、妻のローレンに手紙を綴っており、“僕は20年前と同じ。一目で君に夢中になった。今も君に夢中だ。”と伝えました。

ジョブズ亡き後、彼女はアップル社の株式550万株とウォルト・ディズニー・カンパニーの株7.3%を相続します。また、教育問題や女性問題などの慈善活動に力を注ぎ、その知識や人間関係を多くの人々に活用していきたいと考えました。

<ハングリーであれ。愚か者であれ。>

ジョブズは、2005年にスタンフォード大学の卒業式でスピーチをしています。その時の言葉は学生のみならず、世界中の人々に感動と反響を与えました

『Steve Jobs Stanford commencement speech 2005』

彼は自分の人生を振り返り、3つのポイントを語っています。

①点と点をつなげる

大学を中退した彼は、興味のない授業を受ける気になれませんでした。自分の好奇心が掻き立てられる授業のみを受け、その中でもカリグラフィーの授業に興味をそそられます。当時は、カリグラフィーが何かの役に立つとは考えもしませんでしたが、その知識によってMacの美しいフォントを生み出す事が出来ました。このように、たくさん集めた点が人生のどこかで実を結ぶ事を信じるしかありません。

②愛と敗北

彼は、若い頃にコンピュータやウォズニアックなど、“大好きな事”に出会えました。それがまさか自分の会社から解雇されるとは。人生をかけて築いたものが、突然手の中から消えてしまったのです。しかし、彼がアップル社を追われなければ、ピクサー社から「トイ・ストーリー」が生まれる事もありませんでした。素晴らしい恋愛と同様、仕事にやりがいを感じる唯一の方法は、“素晴らしい仕事”と心底思える事をやる。そして、それを探し続けて下さい。

③死について

彼は、スピーチにおいてある言葉を引用しました。それは、“毎日を人生最期の一日だと思って生きれば、その通りになる”という言葉です。毎朝、鏡に映る自分に「もし、今日が最期の日だとしても、今からやろうとしていた事をするだろうか。」と問いかけました。癌と宣告され、時間に限りがある事を悟った彼は、本意でない人生を生き、時間を無駄にしないで欲しいという事を学生に伝えたかったのです。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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