ジョルジュ・デ・キリコ:形而上絵画とは何だったのか?

(Public Domain /‘Portrait of Giorgio De Chirico’ by Carl Van Vechten. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ジョルディ・デ・キリコは1888年イタリア生まれの芸術家で形而上絵画の創始者としても知られる人物。後にショルレアリスムの運動に大きな影響を与える。途中からは新古典主義の絵画スタイルに変更し、シュルレアリストたちを落胆させる。作品の制作年を勝手に変更してしまうことでも有名。

キリコらが提唱した形而上絵画とは?

キリコは1917年、弟サヴィニオらのアドバイスを受け、画家のカッラとともに「形而上絵画」を提唱しました。翌年にはイタリアの画家モランディが彼らに加わり「形而上絵画」は次第にヨーロッパ中で知られるようになりました。思想的にはニーチェやショーペンハウアー、ワインガーなどから影響を受けているといわれています。

独特の影や風の描き方、石膏象や機関車といったモチーフが一体となり「静謐な時間の流れ」を創りだしています。そこに置かれたモチーフはまるで謎解きの記号のように見る者に問いかけ、透徹した深い空間世界に私たちを置き去りにします。その空間は日常の世界ではあじわうことのない「解放的な世界」ともいえるでしょう。

ジョルジュ・デ・キリコの生い立ちと経歴

ジョルジュ・デ・キリコは1888年7月10日、ギリシャのテッサリア地方にある古い港町ヴォロスに生まれました。両親はイタリア人で、父エヴァリストは鉄道技師、母ジェンマはジェノヴァ貴族の出身でした。

1891年、弟アンドレア誕生。
後にはアンドレアは「アルベルト・サヴィニオ」の名で知られる著名な作曲家、画家、詩人となりました。キリコを生涯に渡り支えた人物といわれています。

1896年(8歳)デッサンの勉強を始めました。

1899年(11歳)ギリシャ人の画家マヴルディスに師事し、画家を目指すようになります。

1900年(12歳)父の仕事が落ち着いた関係で一家はアテネへ移転。
しばらくの間自宅で家庭教師から勉強を学び、その後アテネの理工科大学に通い始めます。学校では美術部門のデッサンコースに籍をおき絵画の基礎を学びました。ほとんどが彫刻の模写をすることが中心で、この頃に最初の静物画も描いています。

1904年、アテネ郊外の田園風景や海辺の風景を写生するようになり、油絵を描き始めます。
後に絵画のモチーフとなった汽船などもこの頃写生しました。

1905年(17歳)病弱だった父が死去。
葬儀は軍楽隊の歩兵も参列するほど壮大に行われました。その後一家はアテネを離れイタリアのヴェネチアを経てミラノへ移り住みます。このときルネッサンスの巨匠たち(フランチェスカ、ボッティチェエリなど)の模写をしたといわれています。

1906年(18歳)ドイツのミュンヘンに移住し、翌年王立美術赤アカデミーに入学。
ニーチェやショーペンハウアー、ワーグナーなどから影響を受けました。またドイツの文学や哲学にも興味を抱きます。絵画においてはマックス・クリンガーやクリムト、アーノルド・ベックリンなどに深く感銘します。なかでもベックリンの影響を強く受けこの頃は彼のような作品を制作しています。

1909年(21歳)ミラノへ移住。
18歳のとき同様、ベックリンに影響された作品を制作します。『重装歩兵とケンタウルスの戦い』などが代表作です。また母や弟の肖像画も多数制作しています。

1910年(22歳)フィレンツェへ移住。
ニーチェなどから影響を受けたメタフィジック絵画(形而上的絵画)の前身となる作品『秋のある午後の謎』などを制作しています。

1911年、母や弟とともにパリへ移住。

1912年、フォーヴィスムの画家たちを世に送り出したことで名高いサロン・ドートンヌ展に『自画像』など3点を出品し入選。
ピカソ、ボール・ギヨーム、ギヨーム、アポリネールなどと知り合い親交を深めます。特に詩人で美術評論家のアポリネールとは頻繁につきあうようになりました。後に『アポリネールの肖像』を描いています。

1913年(25歳)アンデパンダン展やサロン・ドトーンヌ展に作品を出品。
サロン・ドトーンヌ展に出品した作品のうち『赤い塔』が売れます。これが彼の最初に売れた作品となりました。またこれらの展示会で代表作品『謎の時代』などが高い評価を受けます。

1914年、再度アンデパンダン展に出品。
代表作品『アポリネールの肖像』を制作。この作品は友人であるアポリネールに襲いかかる災いを予期した作品といわれていますが、その真意はいまだにわかっていません。

1915年、第一次世界大戦が勃発。
志願兵として従軍したアポリネールが銃弾に倒れる。キリコはこの戦争でイタリア軍に召集され弟とともに入隊しました。軍政本部書記に任命され従軍しますが、その間も絵を描き続けます。

1916年(28歳)神経衰弱に陥り入院。
詩人トリスタン・ツァラやイタリア人の画家カルロ・カッラと知り合います。後にカッラとキリコは弟のサヴィニオの助言を受け形而上絵画をたちあげます。(その後カッラはイタリア未来派の画家に転向)

1917年、ミラノで初めての形而上絵画の作品をカッラが発表。

1918年(30歳)イタリア軍を除隊。雑誌『造形的価値(ヴァロリ・プラスティチ)』を創刊。

1919年(31歳)ローマで『造形的価値(ヴァロリ・プラスティチ)』の展示会を開催。
当時パリの芸能界で注目を浴びていたマックス・エルンストなど多くのダダイストたちに大きな影響を与えました。しかしこの展示会は美術史家であるロベルト・ロンギに酷評されてしまいます。

1920年(32歳)ティチアーノの絵画に出会い古典への回帰を決意。
「形而上芸術について」「技法への帰郷」などを出版。テンペラ画の伝統的な技法を学び、ラファエルロやミケランジェロといったルネッサンスの巨匠たちの画を模写します。

1921年、テンペラ画の制作を開始。
ミラノのアルテ画廊で個展が開催される。更にベルリンの国立ギャラリーにて「造形的価値グループ展」を開催。

1923年、ローマ・ビエンナーレに作品が出品される。
フィレンツェやローマを転々とすることになります。

1924年、「第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ」に作品が出品される。

1925年(37歳)再度パリへ戻る。
この頃シュレアリストの先駆者の一人として迎えられますが、決別を決意します。

1926年、ニューヨークやヨーロッパの各地で個展を開催。

1929年.パリで幻想小説『エブドメロス(Hebdomeros)』を出版。

1930年、オペラ『オレステースの生涯』の舞台装置を担当。

1931年、ミラノへ戻りミラノ・トリエンナーレの会場でテンペラ壁画を担当。

1932年、「第18回ヴェネツィア・ビエンナーレ」に2度目の出品。

1935年、ニューヨークへ移住。「ピエールマティス画廊」で大回顧展を開催。

1936年、母が死去。

1942年、フィレンツェへ移住。「第23回ヴェネツィア・ビエンナーレ」に作品を出品。
このとき彼の作品を展示するために1室全てを与えられます。

1944年、ローマへ移住。

1948年、「第26回ヴェネツィア・ビエンナーレ」展に招待される。

1949年、王立イギリス芸術家協会で個展を開催。
その後30年に渡り世界各地で個展や回顧展が開催されます。

1978年11月20日、心臓発作で死去。享年90歳。

ジョルジュ・デ・キリコの代表作品(年代順)

『The Enigma of the Hour』(1911)

油彩・キャンバス

形而上絵画の初期作品。

建物の中央には時計があり、ふたりの人間が立ち止まっています。時計や人がそこに存在していることを忘れされるくらい静謐な時間の流れが描かれています。

『The Nostalgia of the Infinite』(1911-13)

123.5×52.5cm

油彩・キャンバス

ギリシャの陽射しを感じさせる強いコントラストの空間に、巨大な塔とふたりの人間が小さく描かれています。この巨大な塔はイタリア・トリノにあるモーレ・アントレリアーナ博物館をモチーフにしたといわれています。

『The Soothsayer’sRecompense』(1913)

134×179cm

油彩・キャンバス

形而上絵画の代表作品。

ギリシャ的なハイコントラストの空間に「古代」を感じさせる石膏象と「現代」(1913年当時)を感じさせる建物、そして「その瞬間」を感じさせる『煙を出して走る機関車』の3点がパラレルにひとつの世界として描かれています。

現実的で写実的な時間の流れでなく、それらから「解放された」特殊な世界がこの絵には存在しているように思える作品です。

『piazza d’italia』(1913)

油彩・キャンバス

1910年代に数多く制作した『イタリア広場』シリーズのひとつ。

この作品はシリーズのなかでも色彩の鮮やかさ、構図などの点において一番成功している作品といるでしょう。

『The Soothsayer’s Recompense』(1913)

同様「解放的」な時間の流れが作品のなかに満ちていて、みる者を幻想的な世界に誘います。

『The Song of lone』(1914)

73×59.1cm

油彩・キャンバス

代表作品のなかでも特に不可解であることで有名な作品。

その不可解さが「形而上絵画」の特徴であるとの意見もあります。この謎解きのようなミステリアスな作品は多くの若手芸術家を虜にしてきました。シュルレアリストのアンドレ・ブルトンやダリたちも大きく影響されたといわれています。また、画家マグリットは同じような手法で「だまし絵」の画風を確立していきました。

『Melancholy and Mystery of a Street』(1914)

油彩・キャンバス

逆遠近法で描かれた手前のカーゴが創る空間と、遠近法で創られた空間がイン・アウトの不思議なねじれを演出しています。その「ねじれた空間」の間を影のような女の子が遊びながら駆け抜けていく不思議な作品です。

『Portrait of Guillaume Apollinaire』(1914)

81.5×65cm

油彩・キャンバス

キリコと親交が深く、作品のよき理解者でもあった批評家アポリネールを描いた肖像画です。アポリネールの未来を暗示している作品ともいわれています。

『子どもの頭脳』(1914)

80×63cm

油彩・キャンバス

タイトルに反して裸の中年男性が描かれている作品。

男性の前には一冊の本が机に置かれており、手前には壁、背景には窓から見える空と建物の景色がみえます。

『王の凶悪な天才』(1914-15)

61×50cm

油彩・キャンバス

初期の代表作品のなかでも特に有名な作品。斜面に置かれたオブジェは重力を全て取り払われ、永遠に影と一緒にその斜面に貼り付けられてしまったかのように存在しています。

『The Double Dream of Spring』(1915)

56×54cm

油彩・キャンバス

実験的ともいえるこのアンビシャスな作品は、ひとつの絵のなかに遠近法の消失点をいくつも存在させています。そのうえ手前にあるキャンバスの色と背景の空の色を同じ色調にしているためまるで「だまし絵」のような効果が創られています。

『The Melancholy of Departure』(1916)

50.5×34cm

油彩・キャンバス

『偉大な形而上学者』(1916)

110×80cm

油彩・キャンバス

この頃から形而上でなおかつマッス的な作品も制作するようになります。

『不安を与えるミューズたち』(1917)

97×65cm

油彩・キャンバス

『偉大な形而上学者』(1916)

同様、マッス的な作品のひとつ。色彩が美しく構図のバランスも絶妙に保たれている名作です。

『Sacred Fish』(1919)

79.4×61.9cm

油彩・キャンバス

当時ダダイスムの画家たちに多大な影響を与えたといわれている作品です。

『画家の家族』(1926)

146.5×115cm

油彩・キャンバス

ピカソの作品にもみられるようなマッス的に描かれた人体の作品です。

『ボールのある形而上的室内』(1960)

73×60cm

油彩・キャンバス

『王の凶悪な天才』(1914-15)と同じ構図で描かれた作品です。精度が増しており色彩が鮮やかに描かれています。

『Still Life with Silver Ware』(1962)

100×140cm

油彩・キャンバス

『The Return of Ulysses』(1968)

60 ×80cm

油彩・キャンバス

『形而上的室内で消えた太陽』(1971)

80×60cm

油彩・キャンバス

キリコの晩年を代表する作品です。

【参考文献】

『現代世界美術全集25人の画家キリコ』講談社

『Giorgio de Chirico』|WIKIART

『【完全解説】ジョルジョ・デ・キリコ「形而上絵画」』|Artpedia 近現代美術の百科事典

『ジョルジュ・デ・キリコ』|ウィキペディア

『Giorgio de Chirico』|Wikipedia

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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