ポール・セザンヌ:サンサシオンを追求した天才画家

(Public Domain /‘Paul Cézanne in his studio at Les Lauves, 1904’ by Émile Bernard. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ポール・セザンヌは1839年フランス生まれの画家。独自に確立した革新的な絵画スタイルと論理は、20世紀のキュビズム画家をはじめとする多くの画家に影響を与え「近代画家の父」の威名を持つ。19世紀後半のフランスを代表する小説家エミール・ゾラとは少年の頃から親友であったことでも有名。(後に絶交した説が残る)1906年死去。享年67歳。

天才ポール・セザンヌが最後まで追及し続けた「サンサシオン」

セザンヌは1879年9月27日、親友であるゾラ宛の手紙で次のように述べています。

「野には、真に驚くべきものがある。深い沈黙が存在するようだ。私が表現できない感覚がこれだ。この感覚をさらによく感じねばならない」

出典:『西洋美術史』大沢武雄著造形社

彼を語るとき「サンサシオン」(仏Sensation)という言葉抜きでは説明できない。その生涯を通して「絵画にはサンサシオンと論理が必要だ」と言い続けた事実が多くの人たちの証言や本人の手紙に残っています。

英語に訳すと「センセーション」(英Sensation-感覚、官能的な感覚)などの意味になり、彼が伝えようとした「サンサシオン」とは少し違う意味になってしまいます。

彼が意図した「サンサシオン」は、オブジェとなる自然から感覚を体感するだけでなく、その感覚を意識的なレベルまで引き上げ論理とともに絵画で表現することでした。

ここでいう論理こそがピカソをはじめとする多くのキュビズム画家に影響を与えた「セザンヌ的キュビズム」でした。それは全ての物を円筒や球、円錐などで表現するというもの。例えば人間の顔や果物のりんごは「球」を意識し、首や腕、足は「円筒」を意識して描かれることでより記号化されて抽象的になります。

こうすることで人間や物体が置かれた空間は奥行きがより深くなり、2次元という限りのある画面を3次元に近い世界へ導きます。まさに天才的な発明。これらの革命的な絵画スタイルは彼が亡くなってから1世紀たった今でも多くの画家たちのなかに受け継がれています。

そんな天才な彼が最後まで追及し続け、完全にとらえることのできなかったと言っている「サンサシオン」。それは「自然」のなかに潜む「人間の感覚を超える何か」であり、一般的な言葉で言うところの「神の領域」であったのかもしれません。

ポール・セザンヌの生い立ちと経歴

幼少期・家族

1839年1月19日、ポール・セザンヌはフランスの南プロヴァンス、エクスに生まれました。
父のルイ=オーギュストはイタリア系の祖先をもち、行商人から身を起こし銀行の経営者になるほどの才覚あるビジネスマン。破産した銀行を買い取って成功したことから「成り上がり者」などと悪口を言われてしまうこともあったそうです。

フランス革命が終わり市民のなかから多くのブルジョア層が誕生したのは、ちょうど父が成功した時代でした。母アンヌ=エリザベート・オーベールとの間にはポールを含め3人の子供がいます。両親と妹2人、そしてポールの5人家族で育ちました。

学生時代

1852年、地元エクスのブルボン中学校に寄宿生として入学。
その後すぐにパリ出身でいじめられっ子のエミール・ゾラ(後に著名な小説家になる人物)と仲良くなりました。

ゾラとの出会いは芸術家として成功するためになくてはならないものでした。ゾラは生涯に渡り(セザンヌが一方的に絶交するまで)セザンヌに芸術家として大成するため多くのアドバイスをするようになり、ときには経済的なサポートもしました。

二人は同じ頃、後に天文学者となるバスティン・バイユとも親友になります。成績優秀な秀才3人組は常に行動をともにし、詩やヴィクトル・ユゴーなどの小説、哲学の勉強に励んでいました。

1857年、エクス市内の素描教室で素描を学んでいます。

1858年、エクス大学の法学部に通い、(法律家になってほしかった父の勧めで)ダブルスクールで素描教室にも通い続けました。
同年親友のゾラがパリへ発ち、ゾラ、バイユ、セザンヌの間で文通が続きます。頻繁にやり取りされた手紙でゾラはセザンヌにパリに来て芸術に専念するようアドバイスをします。

セザンヌは法律の勉強にあまり興味を抱けず、次第に学業を疎かにするようになりました。

画家としての初期

1861年、画家になることを決心しパリへ出発しました。
パリのルーヴル美術館で模写したり絵画教室「アカデミー・シェイス」に通ったりしながら独自の勉強を進め、ここで幸運な出会いを果たすことになります。セザンヌより少し年上で後にフランス後期印象派たちのなかで兄的存在になった画家カミーユ・ピサロと交友関係をもつようになったのです。ふたりは他の印象派の仲間たちとともに山へ出掛けてスケッチや意見の交換などをしました。

この年一旦エクスに戻り銀行員として働いたもののうまく行かず、再度パリに戻ります。

1863年、サロンに落ちた画家たちが集められた「落選展」でマネの物議を醸し出した話題作『草上の朝食』に出会いました。
この作品を見て非常に感銘を受けたと伝えられています。

1865年、当時フランスの王立絵画彫刻アカデミーが開催していた「サロン・ド・パリ」(後にフランス政府が開催する官展)に応募するが落選。
この間ゾラは働いていた雑誌社にセザンヌを庇護する記事を寄稿し続けています。

1867年、再度落選。
仲間として活動していたピサロ、シスレー、ルノワールなども落選しています。

1868年、サロンに対して攻撃的な作品を出品したセザンヌのみ落選。
他のメンバーであるピサロ、シスレー、ルノワール、マネ、ドガ、モリゾは当選しました。この頃父からの少ない仕送りで生活をしていたセザンヌ。彼女の生活費も負担することになり生活は更に困窮していきます。

1870年、普仏戦争勃発。
母の計らいでエスタック村へ移住し徴兵を免れます。

印象派とともに活動した時代

1871年、フランスが実質上敗戦する。

1872年、戦争が終わり、セザンヌや他の画家たちが続々とパリへ戻ってきました。
ポントワーズのピサロの家に他の仲間たちと集い、屋外でスケッチや油絵の制作をしました。

1873年、ピサロの紹介で、モンマルトルで画材店をしているジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)と親交を結ぶ。
お店の常連でタンギー爺さんの肖像画を描いているファン・ゴッホは、お店に飾ってあったセザンヌの絵を初めて見たとき相当な衝撃を受けたというエピソードは有名です。

1874年、モネたちが開催したグループ展に出品。
このグループ展こそが後に近代美術史に名を轟かせた「第一回印象派展」です。モネは代表作『印象・日の出』を出品。セザンヌは代表作『首吊りの家』など3点を出品しました。そして『首吊りの家』はアルマン・ドリア伯爵に高値で買い上げられます。ゾラも親友の快挙を賞賛する記事を「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に寄稿しています。

1875年、ルノワールの紹介で、税関の役人であったヴィクトル・ショケと出会いました。
元々画家のドロクロアのファンであったショケは後にセザンヌとの親交を深め。精神的に支えるほど仲良くなります。

エクス時代

1887年、ゾラが小説『居酒屋』を刊行し大成功を収めます。

1878年頃からセザンヌの印象派スタイルに不満を感じ始めますが、仲間たちとの親交は続きます。

1880年、セザンヌは再度サロンに応募するが落選となり、セザンヌはパリからエクスへ拠点を移します。
この頃セザンヌに妻子がいることを父に気付かれ仕送りを減らされてしまいました。この局面はゾラに経済的援助を求めなんとか切り抜けます。またタンギー爺さんのお店で画材代の代わりに作品を差し出すことも少なくなかったといわれています。しかしそれらの絵を目にした後続の画家たちは感銘を受け、ゴッホなど若手の画家たちから尊敬されるようになったのです。

1882年、初めてサロンに入選。
ゾラが発表した小説『作品』が引き金となり、セザンヌが一方的に絶交した説が有力とされていましたが、この後も手紙のやり取りをしていたことが判明しふたりの真意は謎に包まれたままとなっています。

1886年、父が死去。
このことにより多額の財産を相続します。エクス時代にサント・ヴィクトワール山をモチーフにした絵画を数多く制作します。これらの作品は後に最高傑作として評価されますが、当時は全く評価されず知名度も低いままでした。加齢とともに糖尿病を発症したセザンヌは屋外での制作を抑え、室内で静物画などを描くようになりました。

1889年、パリ万国博覧会に『首吊りの家』が展示されるが知名度は低いまま。

1894年、フランス画家で印象派画家のコレクター、ギュスターヴ・カイユボットが死去。
カイユボットがセザンヌの旧作など印象派絵画を政府に遺贈したことから物議を醸し出し、知名度を上げました。

晩年

1894年、モントマルトル画材店主のタンギー爺さんが死去。
お世話になったタンギー爺さんが亡くなり非常に悲しんだセザンヌはしばらくの間誰とも口をきけなくなってしまいます。タンギー爺さんが所有していたセザンヌの作品のうち、4点をパリの有名な画商アンブロワーズ・ヴォラールが購入しました。

1895年、ピサロの勧めで画商アンブロワーズ・ヴォラールが購入した作品4点を含むセザンヌの初個展をパリで開催。

1897年、母が死去。

1898年、ゾラが当時話題になっていたドレフュス事件に言及し、ドレフュス氏を弁護した罪にとわれたためイギリスに亡命し、(後に無罪判決)翌年帰国。
セザンヌ自身も一部で誹謗中傷を受けました。

1899年、第15回アンデパンダン展に出品。

1900年、「フランスの美術100年展」に作品を出品。

1901年、ナビ派の画家で有名なモーリス・ドニが作品『セザンヌ礼賛』を発表。
エミール・ベルナールなど若手画家たちと親交を深めます。

1902年、ゾラが一酸化中毒で死去。(殺人の陰謀説があるが真相は不明)
死去のニュースを耳にしたセザンヌは非常に悲しみ、感情を露わにしたと伝えられています。

1903年、ピサロが突然病気で倒れ死去。
この頃ゾラとセザンヌに敵対する人たちが論文をエクスの街中でばら撒き誹謗中傷に苦しみます。

1905年、モネがセザンヌへの尊敬を公表。
セザンヌを礼賛する記事がエクスの地方紙に掲載されました。

1906年、屋外で製作中、大雨にうたれて帰宅。
体調が悪化し翌日死去。

ポール・セザンヌの代表作品(年代順)

(Public Domain /‘The Artist’s Father, Reading “L’Événement,” 1866’ by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『父ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像』(1866?)

200×120cm

油彩・キャンバス

初期の代表作品。

父はセザンヌに法律家になってほしかったため画家になることを反対していましたが、それでも息子が自分の肖像画を描いてくれることに対して嬉しくない父はいないでしょう。そんな心情が父の柔らかな表情からも伝わってきます。しっかりとした安定感のある構図のなかに父とソファが存在感をもって描かれています。ひとり掛けのソファは逆遠近法で描かれており、父の存在がフォーカスされるような仕組みになっているのが感じられます。

(Public Domain /‘Still life with kettle’ by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『黒と白の静物(湯沸しのある静物)』(1867-69)

64.5×81.2cm

油彩・キャンバス

初期の静物作品のなかで特に完成度の高い作品。

テーブルの中央には卵、オニオン、ナプキンなどが置かれその後ろにグレーのピッチャー、壷、果物などが配置されています。背景は暗いがオブジェにはくっきりとハイライトが描かれています。そのため明暗がはっきりとした印象を与えています。カラバッジオ的な明暗の分け方で中世的な雰囲気も感じさせるといえるでしょう。奥行きを出すための伝統的な技法(ナイフを手前に置いた)もこの絵に中世的な印象を与えている要因のひとつとなっています。

(Public Domain/‘The Hanged Man’s House, Auvers-sur-Oise’by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『首吊りの家』(1872-73)

55.5×66.5cm

油彩・キャンバス

印象派時代の代表作。

「第一回印象派展」に出品されアルマン・ドリア伯爵に高値で買い上げられました。後にパリ万国博覧会にも出品されますが、壁の一番上の隅に展示されていたため気付く人はあまりいませんでした。

小さめな作品でありながら実際に作品の前に立つと、その壁に窓ができてそこから遠景を眺めているような気分になります。それほど奥行きを感じさせる作品と言ってよいでしょう。セザンヌ特有の「高い地平線」が描かれるようになったのもこのあたりからです。

(Public Domain /‘Madame Cézanne in a Red Armchair’ by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人』(1877頃)

72.5×56cm

油彩・キャンバス

セザンヌ夫人の肖像画のなかで一番有名な作品。

無表情のセザンヌ夫人が鮮やかな赤いソファに座って手を組んでいる様子が描かれています。印象派時代にピサロから指導を受けて明るい色使いをするようになったといわれています。この作品でも明るい赤や緑が採用されており、近くでみると夫人のプリーツスカートも色彩豊かに描かれ、あたたかく夫人を包んでいるのがわかります。

シャイで頑固だったセザンヌは、生涯に渡り夫人以外の女性をモデルに起用することはありませんでした。作品に多数登場する裸婦などはどのように描かれたのか不明のままですが、巨匠たちの名画を模写してきたことで想像力を駆使できたといえるでしょう。

(Public Domain /‘Mont Sainte-Victoire’ by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『サント・ヴィクトワール山』(1885-87)

64.5×81.6cm

油彩・キャンバス

数多く描いた『サント・ヴィクトアール山』。その作品郡は代表作品のなかでも特別な輝きを放っています。後に「セザンヌ的キュビズム」といわれる画法をこの頃既に確立していたことが風景画のなかの立体的なオブジェから見てとれます。印象派時代に培った明るい色使い、「ゆらぎ」を感じさせる空と空間。それは風の「ゆらぎ」ではなく、もっと本質的な全ての生物が絵のなかに存在するための「ゆらぎ」である可能性が考えられます。そして「自然」に潜む生物たちが常に生み出し続けている「ゆらぎ」であるともいえるでしょう。このような空気感を描いた理由の一つには冒頭で述べた「サンサシオン」が深く関係していると考えられます。

(Public Domain /‘Portrait of Gustave Geffroy’ by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『ギュスターヴ・ジュフロアの肖像』(1895)

110×89cm

油彩・キャンバス

肖像画のなかで特に成功している作品。

知り合う前からセザンヌに好意的な論評を書いていたジュフロア。セザンヌはお願いして3ヶ月間彼の書斎に通い、この肖像画を描きあげたといわれています。色とりどりの表紙が並ぶ本棚の前にはジュフロアが座っており、机の上は小綺麗に、そして無造作に置かれたノートや本があります。ジュフロアは無表情で彫刻のように構図のなかに収められていますが、顔や手の肌はとても色彩豊かに生き生きと描かれています。

(Public Domain /‘The Card players’ by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『トランプをする男たち』(1892-96)

47×56.5cm

油彩・キャンバス

1890年代に同じような構図の作品を何枚か描いています。この作品はテーブルに向かい合った男性たちの姿が奥の窓ガラスに映っており、更に奥行きがうまく表現されている巧みな作品といえます。

(Public Domain /‘Apples and Oranges ’ by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『りんごとオレンジ』(1895-1900)

74×93cm

油彩・キャンバス

晩年を代表する名作。作品を見た多くの画家たち(ピカソなど)がその構図を再現しようと試みました。まるで魔法のようなこの作品は、果物が今にも机から落ちそうで落ちない不思議さをもっています。間に敷かれたテーブルクロスなどがかろうじて果物をテーブルの上の空間につなぎとめる役割をしており、晩年のセザンヌが巧みな技で実力を示した傑作といえるでしょう。

(Public Domain /‘The Large Bathers’by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

『大水浴』(1898-1905)

208×249cm

油彩・キャンバス

晩年に数多くの水彩画とともに『大水浴』シリーズの作品を描いています。この作品は油彩で描かれていますが、まるで水彩画のように少ない絵の具で軽いタッチとなっています。裸婦のモデルを絶対に起用しなかったセザンヌがこの大作を仕上げるのは容易ではなかったでしょう。そのため裸体は円筒や球体を感じさせる「セザンヌ的キュビズム」の手法で描かれています。その独自の構図とともに絵の奥行きを非常に深いものにしています。この構図は多くの若手画家たちを惹きつけ、模写されてきました。

【参考文献】

『現代世界美術全集25人の画家セザンヌ』|講談社

『西洋美術史改定新版』|大沢武雄著造形社

『ポール・セザンヌ』|ウィキペディア

『Paul Cezanne’s Masterpieces』|ポール・セザンヌ公式サイト

『Paul Cézanne』|Wikipedia

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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