ディエゴ・ベラスケス:国王に愛され続けた画家

ディエゴ・ベラスケス(1599―1660)は1500年代後半から1600年代前半にスペインで活躍した宮廷画家です。24歳で宮廷画家となり国王フェリペ4世に気に入られ仕えますが、宮廷の王族以外の人々を描くこともしばしばありました。赤い十字章の謎がある「ラス・メニーナス」や「ブレダの開場」「教皇インノケンティウス10世」などが代表作で、エドワール・マネなどの印象派の芸術家たちやその後の美術界に大きな影響を与えました。

セビージャという街、パチェーコとの出逢い

(Public Domain /‘The Surrender of Breda’ byDiego Velázquez. Image viaWikimedia commons)※画像はディエゴ・ベラスケスの作品「ブレダの開場」

ベラスケスは南スペインの港街セビーリャで生まれました。大航海当時のセビーリャには、当時新大陸であった南北アメリカから金銀や動植物などを積んだ船が入港し、とても賑わっていました。
ベラスケスは7人兄弟の長男として誕生しました。両親は彼に絵の才能があることを早くから見抜いていて、地元で名の通る画家フランシスコ・パチェーコの元で息子に絵を学ばせます。パチェーコは画家としてだけでなく他の知識も多くあり、豊かな教養を身につけている人物でした。また、後にベラスケスはパチェーコの娘のフアナ・デ・ミランダと結婚をすることになります。

画家の最高位・師の娘と結婚

(Public Domain /‘Immaculate Conception’ byDiego Velázquez. Image viaWikimedia commons)

ベラスケスは18歳で当時の画家の最高位を認められ、パチェーコから独立します。そんなベラスケスの作品にとって重要なテーマとなるのが、原罪についてです。原罪とは、簡単に言ってしまえば、アダムとイヴが神様との約束を守らず林檎を食べてしまった罪のことです。神様から食べてはならないと言われていた林檎の実を、悪賢い大蛇サタンの誘惑により食べてしまったことで人間になったアダムトイヴ。この罪を神様の特別な配慮によって無効とされたのが、聖母マリアがイエスを宿したときなのです。ベラスケスは独立したとき、その話になぞられた「無原罪の御宿り」という作品を描きました。

(Public Domain /‘Portrait of a lady’ by Diego Velázquez. ImageviaWikimedia commons)※フアナ・デ・ミランダの肖像画

「無原罪の御宿り」を題材にした作品はたくさんあり、当時のスペインやヨーロッパの画家たちの多くがこの話に魅力を感じ好んで描いていました。ベラスケスはこの作品を妻であり師匠の娘であるフアナ・デ・ミランダをモデルにして描いたのです。2人の間には1619年に長女フランシスカが、1621年には次女イグナシアが誕生しますがイグアナシアは乳児期のうちに亡くなってしまいます。

ベラスケスの作品には妻をモデルにしたものがいくつかあります。その一つに彼が20歳のときに描いた「東方三賢者の礼拝」があり、この絵の聖母のモデルはファナ、赤子のキリストのモデルは長女フランシスカ、手前の男性はベラスケス本人だと言われています。「東方三賢者の礼拝」は現在、プラド美術館に所蔵されています。

宮廷画家になりたい

ベラスケスは独立してからずっと国王の肖像画を描くことが夢で、国王のいるマドリードをたびたび訪れていました。そして1622年にマドリードを訪れ、エル・エスコリアル修道院で王家のコレクションを目の当たりにします。そしてその後、人づてにベラスケスの噂を聞いたオリバーレス伯爵が、ベラスケスをマドリードに呼びます。

(Public Domain /‘Portrait of King Philip IV of Spain’ byDiego Velázquez. Image viaWikimedia commons)

オリバーレス伯爵は当時のスペイン国王の側近で、事実上行政の権力を握っている重要な人物でしたが、ベラスケスと同じセビーリャの出身であった事もあり彼を大変気に入りました。そしてベラスケスは念願だった国王フェリペ4世の肖像画を描くことができ、この作品がベラスケスの宮廷画家としてのキャリアの出発点となりました。しかし現在、このときのフェリペ4世の肖像画は消失してしまっています。

宮廷画家ベラスケス

(Public Domain /‘The Maids of Honor’ byDiego Velázquez. Image viaWikimedia commons)※画像はディエゴ・ベラスケスの作品「ラス・メニーナス」

国王フェリペ4世はベラスケスの絵画を非常に気に入り、時間を見つけてはベラスケスのアトリエを訪れて彼の制作の様子を眺めていたそうです。宮廷お抱えの画家は数名いましたが、ベラスケスは特に国王から敬愛されていたため他の画家たちから嫉妬されてしまいます。しかし国王はそんなベラスケスのために、他の3人の宮廷画家に「モリスコの追放」という作品を描かせてその質を競うコンテストをしました。そしてベラスケスが勝利し、宮廷内で彼の実力は確実なものとして認められました。しかし残念ながら、その作品も消失しており現在は鑑賞することが出来ません。

それからベラスケスは何枚もの肖像画や宮廷絵画を描き、国王はベラスケスに画家だけでなく多くの役職や肩書を与えました。それによりベラスケスは絵画の制作以外にも多くの仕事をしなければならなくなり、絵画を描く時間が限られていくのでした。晩年は王宮配室長にも任命され、その職務は晩餐会をとりまとめることなどでした。しかしあくまでも宮廷画家として制作がしたいベラスケスにとって、その仕事は相当なストレスでした。

そしてベラスケスは心労と過労がたたり61歳でこの世を去ります。最期まで宮廷と王族に愛されたベラスケスは、王宮からほど近いサン・ファン・バウティスタ教会に埋葬されますが後にここは破壊され、それからはどこに埋葬されたのかわからなくなってしまったそうです。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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