サマセット・モーム:医師・スパイ・物語の主人公として生き様を見せる

代表作「人間の絆」や「月と六ペンス」で有名なサマセット・モームはパリ生まれのイギリス人作家。医師の資格を持ちながらイギリス情報局MI6諜報部員として活動し執筆を続ける。世界各国を旅しながら91歳で大往生を遂げる。“完璧には一つの重大な欠点がある。退屈になりがちなのだ”といった彼の人生は小説そのものである。生涯と傑作を通してサマセット・モームの人生に迫る。

彼が医師の資格を持つ作家だということはよく知られています。しかし人々を驚かせたのはイギリスの諜報機関MI6の正史が発刊した際、モームが一時期MI6に所属したと明らかにされたことでした。

ジェームス・ボンド007シリーズの原作者イアン・フレミングもスパイであり、モームのスパイ時代がシリーズのモデルともいわれています。

また、91年間の人生で様々な国に旅をした彼の経験は作品へ大きな影響を与えました。医師資格、諜報部員、傑作の数々を世に送り出し華やかな経歴を持つモームですが、プライベートでは両親を早くに亡くし吃りが原因でいじめにあい、肺結核を病むなどの不運にも見舞われました。

10歳で孤独になって以来イギリスで苦労をした彼ですが、元イギリス首相ウィンストン・チャーチルと生涯の友となり、その付き合いは50年にも及びました。

そんな彼は何を考えながら人生を生き抜いたのでしょうか?残された多くの名言とともに検証していきます。

サマセット・モームの代表作

長編・短編、戯曲、評論など175作品と数多くの作品を書いたモーム。試行錯誤を繰り返した時期の作品の多くは封印しています。

「代表作」

  • 月と六ペンス
  • 人間の絆
  • お菓子とビール
  • フレデリック夫人
  • おえら方

数ある代表作のなかでも「月と六ペンス」は1919年、自身が45歳の時ベストセラー作家へ上り詰めるきっかけとなった作品です。
フランスの画家ポール・ゴーギャンをモデルとし、月は人間を狂わせるほどの芸術への情熱(夢)を、六ペンスは正反対の世俗的ならわし(現実)を表しています。

『私が確信できることがたったひとつだけある。それは確信できることはほとんどないということだ』と語るモームは「月と六ペンス」のように、人間の不可解さを淡々とした、一般大衆でも読みやすい文体で書き綴り人気を得ます。

サマセット・モームの生涯に迫る

彼の生涯を作品とともに反芻していきます。

1874年(0歳)4人兄弟の末っ子としてパリで生まれます。
父のロバートはイギリス大使館勤務の顧問弁護士、母イーディスは名家出身で美人だった為、パリ社交界の花形でした。

1882年(8歳)母が肺結核で41歳の若さで死去。

1884年(10歳)父が胃癌により61歳で死去。
モームはイギリス・ケント州にいる牧師をしている叔父に引き取られますが、新しい生活に馴染めず慣れない田舎で孤独を感じながら暮らします。

その後13歳になった彼は全寮制のキングズ・スクールへ入学。しかしパリ育ちで英語をうまく喋れないうえに生まれ持った吃りが原因となりいじめにあってしまいます。

このことは生涯のコンプレックスに繋がり、後に書く自伝的小説「人間の絆」前半部分に描写されています。

1888年(14歳)母と同様、肺結核の感染が判明。

休学して南仏に引っ越し療養に専念し、1年後無事に復学します。叔父が聖職に就かせるためオックスフォードに進学させようとしますが、彼は押し切り更にはキングズ・スクールをも退学してしまうのです。

1890年(16歳)ドイツのハイデルベルグ大学へ遊学。
学生達と講義を聴講し交際が始まります。この思春期に年長の青年ブルックスと愛を育み初めて同性愛を経験します。

1892年(18歳)作家を目指す。
法律家の父や牧師の叔父のように多くの人と接する職は不向きだと悟ったモーム。叔父との対立が続くなかロンドン・聖トマス病院附属医学校へ入学します。
インターンで勤務した病院で様々な人間を見たことがその後の処女作「ランペスのライザ」出版に活かされました。

1894年(20歳)ブルックスを訪ね初めてイタリアへ渡ります。このことがきっかけになりその後もたびたび旅行として行くようになり、翌年には初めてカプリに訪れます。

1897年(23歳)処女作「ランペスのライザ」を出版。聖トマス病院附属医学校を卒業し医師免許を取得しますが、文学で生計を立てようと決心し以前から憧れていたスペインへ旅立ちます。
その後、毎年のように新刊を出版しますが、初めての芝居公演は小さなシアターで8回のみ上演。また戯曲が上演されるもわずか2日で打ち切られるなど成果は得られませんでした。それと同時にスペインやイタリアへの旅も続けています。

1905年(31歳)パリに長期滞在。芸術家志望の青年達と交際します。翌年にギリシャやエジプトへ旅行。若い女優スー・ジョーンズと知り合い、親密な関係になります。その後スーとの交際は8年間続きます。1907年(33歳)「フレデリック夫人」が1年以上に渡り422回も上演され大ヒットする。

1908年(34歳)「ジャック・ストロー」「ドット夫人」「探検家」が続いて大ヒット。
モームは一躍注目の人となります。この頃ウィンザーに近いカントリーハウスでウィンストン・チャーチルと出会います。生まれ年も没年も同じ、そして生涯の友となるのです。以降数々の戯曲や初めてのアメリカ訪問など、彼の活動は止まることを知りません。

1912年(38歳)自伝的小説「人間の絆」の執筆を開始。

1914年(40歳)第一次世界大戦勃発。自ら野戦病院隊に志願しフランス戦線へ出ます。
39歳の時出会ったシリーとの親密な関係が続いていたものの、22歳の青年ジェラルドとも出会います。この時期「人間の絆」の執筆を終え、同時期に情報部へキャリアを変更。ジュネーブを拠点に諜報活動に従事するとともに劇作を再開しました。

その後、原作「探検隊」が映画化されアメリカで公開、戯曲「手の届かぬもの」が上映するなど作家としての活躍が順調な反面、シリーの夫が起こしていた離婚裁判に出廷したり肺結核に罹ったりと苦しい出来事も降りかかります。ジェラルドを正式に秘書とし静養のためタヒチに渡ります。そこで長編「月と六ペンス」の執筆材料を収集することになります。

1918年(44歳)肺結核が悪化し入院。
退院後はイギリス・サリー州の家で家族と過ごし「月と六ペンス」の執筆を終えます。

1919年(45歳)「月と六ペンス」がベストセラー。「ミス・トムソン」「ひとめぐり」など次々と評判を得て上演されます。
その後も彼の旅は続き47歳から10年間、極東、アメリカ、近東、ヨーロッパ各国、北アフリカなどを様々な国に訪れました。更には劇作家ジョン・コルトン脚本による芝居「雨」が驚異的なヒットを打ち、ロンドンでの「おえら方」は上演548回にも上りました。長編・短編と執筆活動を続ける彼は南フランスのリヴィエラ・フェラ岬に「モレクス邸」を購入して定住します。

1927年(53歳)シリーと別居。
1929年(55歳)シリーと正式に離婚が成立します。そのゴタゴタのなか離婚前の54歳の時に23歳だったアランと出会います。50代60代も執筆活動に精力的であり、モレクス邸で悠々自適の生活を送る最中に第二次世界大戦が勃発。

1939年(65歳)イギリス情報省の依頼を受け、戦時下のフランス国内を視察して周ります。そしてフランスの最高勲章である“レジオン・ドヌール勲章”を授与。第二次世界大戦中はアメリカに滞在。
その後モレクス邸へ戻り、70代になっても作家として作品を世に送り出し続けます。

1944年(70歳)秘書兼パートナーだったジェラルドが52歳で死去。

1945年(71歳)第二次世界大戦が終戦を迎える。40歳になったアランを新しい秘書兼パートナーになります。1959年(78歳)オックスフォード大学から名誉学位を授与。また各国への旅も続けていたのです。

1958年(84歳)60年の長きに渡る作家活動に終止符を打つと宣言。

1961年(87歳)文学勲章位“The Order of the Companion of Literature”を受賞。

1964年(90歳)映画「人間の絆」が世界各国で公開。1965年(91歳)南フランス・ニースのアングロ・アメリカン病院で死去。

91年の人生を走り続けた彼、最後に数ある名言をご紹介します。

サマセット・モームの名言

女性と男性の両方の恋に落ちた彼は恋愛についての名言も多く残しています。

『もっとも永く続く愛とは、報われぬ愛である』
『恋の悲劇は無関心であることだ』
『人生の悲劇は死んでしまうことではなく、愛することを止めてしまうことだ』
『愛と芸術を求めるには人生は短すぎる』
『結婚生活はとても良いものだが、それが習慣になってしまうのは誤りだと思う』

恋愛以外の格言

『思い煩うことはない。人生に意味はないのだ』
『我々は、その長所より欠点によって友を知る』
『イギリスでよい食事をしようと思うのなら、朝食を三度とればよい』

文豪サマセット・モームのまとめ

19世紀に世界中を旅し退屈とは程遠い人生を送り、“人生には二つの素晴らしいことがある。考える自由と行動する自由である”と自らを全うしたサマセット・モーム。

自伝的小説「人間の絆」では、果たして人生に意味はあるのかという永遠の疑問が込められています。
この本を読みながらが考えさせられること自体に、本当の意味があるのかもしれません。

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