ヨーゼフ・ボイス:フルクサスとパフォーマンスアート

(Joseph Beuyswax figure at Madame Tussauds museum in Berlin.)

ヨーゼフ・ボイスはドイツ北西部クレーフェルトに生まれた20世紀を代表するアーティスト。初期のフルクサスに関わり、絵画や彫刻、インスタレーションなどさまざまな作品を制作したことでも知られています。そんなボイスの人生はどのようなものだったのでしょうか。

ヨーゼフ・ボイスとは

ヨーゼフ・ボイスは1921年、ドイツ北西部のクレーフェルトに生まれました。子どものころから動物や植物といった自然に興味を持ち、日頃から家畜の羊やうさぎなどと接する日々を送っていました。またこの頃からデッサンの技術に秀でており、ピアノやチェロなどの楽器も得意でした。さまざまな事物に興味を持つ中で特に自然科学に興味を持っており、医学の道を志すようになります。しかし彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックの作品を目にする機会があり、これに衝撃を受けたボイスは彫刻家を目指すようになったのです。
また、幼少期はドイツがヒトラー主導の下、戦争への道をひた走っている時期でした。1935年には「ヒトラーユーゲント」と呼ばれる国家の公式な青少年団体が成立、10歳から18歳までの青少年全員の加入が義務付けられることになります。1941年、ドイツ空軍に入隊、1942年はクリミアに駐留し爆撃機のパイロットとして軍務にあたりますが、1944年ウクライナ近くのクリミア戦線でソ連軍に撃墜されてしまいます。この際に当時クリミアを遊牧していたタタールの部族に救出され、体温が下がらないように傷口に脂肪を塗り、フェルトにくるむといった手厚い看護を受けたとボイスは後に語っています。
この「タタール人神話」はその後彼のアーティストとしてアイデンティティになっていきますが、ドイツ捜索隊によって救出され野戦病院に入院した記録が残っており、タタール人の集落がクリミアにいた事実はないなど、ボイスの作り話だったのではないかとも言われています。

デュッセルドルフ美術アカデミー

その後、戦争末期になるとボイスはイギリス軍の捕虜となり、1945年に帰国、クレーヴェの両親の元に戻ることができました。1947年から1951年まではデュッセルドルフ芸術アカデミーで学び、1961年には彫刻家の教授に就任します。大学が定員制を取っていたためにアカデミーに入れなかった学生を自分のクラスに受け入れていましたが、この点でアカデミーと衝突することになり、1972年には教授職を解雇されてしまいます。

フルクサスとのかかわり

1962年になるとナムジュン・パイクと交流を結ぶようになります。またフルクサスのメンバーとなったのもこの頃でした。
フルクサスとはリトアニア出身のデザイナーであるジョージ・マチューナスが提唱した芸術運動のこと。フルクサスとは「流れる、変化する」という意味であり、ドイツ、アメリカ、日本といった10か国近くのメンバーが所属しており、美術の他にも音楽や詩、ダンスといったさまざまなジャンルを横断する団体でした。
フルクサスに参加したことで美術や音楽、文学など多くの芸術分野にまたがるイベントに関与するようになります。こうした経験からボイスの作品は徐々にパフォーマンスアートとなっていきました。後にフルクサスから離れて制作活動を続けていきますが、「芸術が社会に対し何をなしうるか」というテーマのもと、多くのオブジェやパフォーマンスアートを作り上げていきました。

ボイスのパフォーマンスアート

彫刻に興味を持つ少年はデュッセルドルフ芸術アカデミーやフルクサスでの経験を経て、パフォーマンスアートに向かっていくわけですが、彼のパフォーマンスアートはどのようなものがあるのでしょうか。

・《死んだうさぎに絵を説明する方法》1965年

パフォーマンスアートの中でももっとも有名なのが《死んだうさぎに絵を説明する方法》です。1965年11月26日、ボイスはデュッセルドルフのシュメラ画廊で初個展を開きます。ここで行ったパフォーマンスアートが《死んだうさぎに絵を説明する方法》です。
ボイスは観客をガラス壁の向こう側に追い出し、ギャラリーの中で死んだうさぎを胸に抱き、絵の説明をしてうさぎの身体を直接絵画に触れさせました。この際彼は頭を蜂蜜や金箔で覆い、右足には鉄の靴底を、左にはフェルトの靴底を履いていました。パフォーマンスの3時間後に観客をギャラリーに招き入れ、ボイスはうさぎを抱いたまま入り口のそばにある椅子に座りこのパフォーマンスを終えました。
蜂蜜は暖かさと理想的な社会、金は錬金術、鉄は火星など、このパフォーマンスアートに用いられた素材はシュタイナーの人智学や各地の神話に興味を抱いていたボイスにとって象徴的な事物でした。このシャーマンめいたパフォーマンスアートを行う一方で、絵画について本当に重要なことを理解するためには絵をよく見ることが重要であるとも言及しています。その後社会彫刻という概念を発表しており、「あらゆる人間は自らの創造性によって社会を彫刻できる」としています。このパフォーマンスによって観客らの目線はうさぎから作品へとくぎ付けになり、作品は観客をも巻き込み「拡張された芸術概念」となっていくのです。

・《チーフ》1964年

1964年、ベルリンのルネ・ブロック画廊の地下で発表されたパフォーマンスアート。ボイスは大きなフェルト製の毛布を敷き、その中に自身がくるまって寝転がります。毛布の両端には2頭の死んだヤギが置かれており、そのまわりには棒やフェルト、脂肪などが設置されていました。毛布の中ではマイクロフォンを手にしており、ボイスは8時間もマイクロフォンに向かって何かをつぶやいていました。
この作品のインスピレーションとなったのは、ボイスがドイツ空軍に所属していた折に爆撃機から墜落し、その際に受けたタタール人の看護ではないかといわれています。特にフェルトや脂肪といった素材に思い入れを持っており、1966年には《グランドピアノのための等質浸潤》という作品をフェルトで制作しています。また、脂肪を四角いギャラリーの隅の空間を埋め上げるように積み上げた《脂肪のコーナー》など、数多くの作品を制作しました。
この頃ボイスはフルクサスの初期メンバーとして活動するようになり、作品は彫刻からパフォーマンスアートへと変化していきます。《チーフ》はタタール人の話をもとに、さらにパフォーマンスアートとして昇華させた作品といえるかもしれません。

おわりに

ヨーゼフ・ボイスはドイツで生まれたアーティスト。当初は彫刻を主な作風としていたものの、初期のフルクサスに関わるようになりパフォーマンスアートに取り組むようになりました。また、彫刻や芸術を社会へと拡張した「社会彫刻」という概念を生み出しました。こうした社会や教育に関わる活動から1974年には自由国際大学を解説、社会改革のための情報センターとしており、自らも教育者としてさまざまな教育活動を行いました。
その後1976年に「独立したドイツ人の運動連合」の候補として出馬、1979年には緑の党の欧州議会議員候補として立候補し、自然運動や反核運動の最前線に立ち続けました。1986年にボイスは死去しましたが、アートと社会を結びつける彼の思想は今でもなお現代のアーティストたちに受け継がれているのです。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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