ニキ・ド・サンファル:「射撃絵画」と「ナナ」

ニキ・ド・サンファルはフランス、パリに生まれた芸術家で、本名はカトリーヌ・マリ・アニエス・ファル・ド・サンファルといいます。その独自の表現である「射撃絵画」や「ナナ」で注目を集めるようになり、フランスを代表する女性アーティストとして数々の作品を残しました。

■ニキ・ド・サンファルとは

ニキ・ド・サンファルは1930年、フランス人の父とアメリカ人の母の下に生まれました。上流階級の家柄で裕福な生活をしていたものの、両親の仲は決して良いものとは言えませんでした。母親は保守的な考え方の持ち主で、地位のある男性と結婚するのが女性としての幸せだと決めつけ、ニキにもそれを押し付けました。一方、ニキはそういった価値観を跳ね返し、自由な生活を送ります。

一家はアメリカを転々としており、精神修道女学院やニューヨークのブレアリー・スクール、メリーランド州オールドフィールド校などで学び、18歳のときにはモデルとして活躍。『ヴォーグ』や『ライフ』などの表紙を飾ることになります。

■精神療法としてのアート

後に作家となる幼馴染のハリー・マシューズと結婚し、マサチューセッツ州ケンブリッジで暮らすようになります。ハリーは音楽を学び、ニキは油彩とグワッシュで絵を描き始めるようになりました。1952年には一家でパリに移り、芸術家たちと交流を重ねるようになります。
この頃から精神のバランスを崩し、ニースでの病院に入院します。病室での生活のなか、精神療法として絵に取り組み、その結果回復を見せたことから画家としての人生を歩み始めました。

ニキは、11歳の時に実の父親から性的虐待を受けていたことを告白しています。このことを精神科医に相談しても相手にされることはなく、彼女の心にやるせなさと大きな傷を残すことになりました。
マシューズとの結婚生活には大きな問題はなく、子供も生まれたことから幸せなもののように思えましたが、そこには彼女にとって「妻」や「母」という常に悩まされてきた役割があってのものでした。そうした生活から精神を病んでしまったのです。そんななか、自分自身を一人の人間として見つめ、全てから解放された状態で作品の制作に取り組むことは、大きな心の支えとなりました。

そうした背景もあってアーティストとして生きることを決めた彼女は、1960年にハリー・マシューズと離婚。子どもたちはハリーと生活を共にすることになり、芸術活動に打ち込みます。

■「射撃絵画」

その翌年である1961年、作品を銃で打ち抜くという「射撃絵画」を発表します。この「誰も殺さない殺害」を行うことで、両親への憤り、男性への不信感、自分自身の生き方を見いだせない焦燥感といった感情を作品にぶつけていきました。その衝撃的なパフォーマンスは人々の注目を集め、ヌーヴォー・レアリスムの重要なメンバーとしても認められるようになりました。

ヌーヴォー・レアリスムとは1960年批評家ピエール・レスタニと画家イヴ・クラインがフランスで結成した芸術家グループのことであり、大量生産品や廃棄物などを用いて作品を制作することで第二次世界大戦後の工業化社会におけるアートの在り方を模索する活動を行っていました。
ニキの作品は、作品を銃で打ち抜くというこれまでの芸術からはかけ離れた表現であるとともに、ただ高尚なだけではない、生々しい感情を表す新しい表現でもありました。そうした表現が評価され、アーティストとしても高く評価されるようになっていきます。そして彼女は2年間の間射撃絵画を制作し続けました。

(モントリオールのナナ)

■「ナナ」

射撃絵画を制作し終えたニキの胸の奥底に残ったのは「女性とは何なのか」という疑問でした。こうした疑問を作品のインスピレーションとして《赤い魔女》を制作します。赤いハイヒールを履いた魔女は全身真っ赤であり、左胸には真っ青な心臓が、左足では髑髏が子どもを食べています。そうしたグロテスクな作品でありながら、魔女の身体の奥底には聖母マリア像がうめこまれているのです。《赤い魔女》はニキの自画像とも、清らかさも醜さも併せ持つ生身の女性像ともいわれています。

ニキはそうした生身の女性を主題としながら、立体作品を制作していきました。そんななかアーティスト仲間の妻であるクラリスが子供を授かります。日々お腹が膨らみ、命をはぐくむクラリスの姿はニキのなかで輝かしいイメージとして受け止められ、ここでようやく「女性」を受け入れるようになったのです。

そして制作したのが「ナナ」でした。ナナとは、フランス語で「女子」を意味する俗語です。女性の体で表現されたこの作品からは、生き生きとした輝きと、自由で開放感に満ちたイメージが強く伝わってきます。
ナナは手足を大胆に広げ、ダイナミックなポーズを取る抽象的な女性像として制作されました。立っているもの、ジャンプしているもの、座っているものなど、彼女たちのありようは枠にはまりません。色も、カラフルなものもあれば、肌を黒く表現したものもありました。
こうしたナナの作品は決められた女性像からの解放を象徴し人気を集める一方、「公共の場にふさわしくない」として設置を反対されることもありました。

また、ニキは《ブラック・ロージー、あるいは私の心はロージーのもの》という肌を黒く表現したナナを制作します。この作品はアメリカ公民権運動が盛んだったころに作られたもので、公民権活動家であるローザ・パークスへの尊敬の念を込めたものでした。女性と黒人という、社会的な抑圧の対象とされがちなテーマを扱うことで、ナナという作品の持つメッセージ性をより強めました。

■ジャン・ティンゲリーとの出会い

アーティストとしての人生をより豊かにしたのは、スイスの彫刻家であるジャン・ティンゲリーとの出会いでした。ティンゲリーと出会ったのは20代半ばのことで、ハリーとの離婚後共に暮らすようになりますが、同居と別居を繰り返し、お互い別の恋人を作ることもあるなど穏やかさからはかけ離れたものでした。

しかし、アーティストとしてはお互いを支えあう存在であり、1977年にバーゼルに《噴水の劇場》を、1982年にはポンピドゥーセンターに隣接するストラヴィンスキー広場に《自動人形の噴水》を共同で設置するなど、各地にパブリックアートを作り上げていきました。

1991年にティンゲリーが亡くなり、1994年にはアメリカのカリフォルニア州サンディエゴに移住。「自分の彫刻が並ぶ小さな国を作る」というイメージのもと《タロット・ガーデン》を制作します。そして2002年には、71歳で生涯を閉じることになりました。

彼女の人生の始まりは経済的に豊かであっても愛情からはかけ離れたものであり、生涯にわたってその喪失感に苦しめられてきました。しかしその苦しみをインスピレーションとして昇華させた、それこそがニキ・ド・サンファルという女性なのかもしれません。

■おわりに

ニキ・ド・サンファルは裕福な家庭に生まれたものの、父からの虐待や母への反抗心から女性としての在り方に悩み、その抑圧された感情をインスピレーションとしてアーティストになった人物。当初は作品を銃で打ち抜く射撃絵画を制作していたものの、徐々に女性を肯定できるようになり、「ナナ」の作品制作につながっていきました。
そして芸術に打ち込むニキの傍らにはパートナーであるジャン・ティンゲリーが寄り添っていました。芸術への探究心とお互いを尊敬する気持ちで強く結びつけられた二人は、生涯を通してお互いかけがえのない存在となっていくのでした。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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