ホイットニー・ヒューストン:世界に愛された歌姫

(Public Domain /‘Whitney Houston Welcome Home Heroes 1 cropped’ by PH2 Mark Kettenhofen. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

■ホイットニー・ヒューストンの誕生

1963年8月9日 アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアークにて誕生。
このエリアは低所得層地域であり、マイノリティにとって恵まれた環境ではありませんでした。

1967年 ニューアーク暴動が発生。
白人警官による黒人タクシードライバーへの暴行事件をきっかけに起こりました。身の危険を感じたヒューストン一家は、隣町であるイースト・オレンジへ引っ越します。

母親はゴスペル・R&Bシンガーとして活躍していたシシー・ヒューストン。かつてエルヴィス・プレスリーやアレサ・フランクリンのバック・コーラスとしてツアーに参加していたほどの歌唱力の持ち主でした。

そんな母親の元で育ったホイットニーは、ニューホープ・バプテスト・チャーチの聖歌隊メンバーとして歌うことを始めます。
母親の厳しい歌唱指導の結果、才能を伸ばし続けた彼女は12歳で聖歌隊のソリストに抜擢されます。ティーンながら圧巻の歌唱力を披露していました。

信仰心が強い女性として成長した彼女。それは母親の教育や教会通いによって形成されたものです。

1980年 ロビン・クロフォードとの出会い
カトリック系女子高校に通っている時に二人は出会い、すぐに意気投合。その後はホイットニーの相談役として仕事のサポートもするようになりました。

■歌手デビューでポップス界のプリンセスに

1980年代前半 モデルデビュー。
カーネギー・ホールで母親と共に歌う彼女をカメラマンが見つけたことをきっかけに、モデルとしてデビューします。
アメリカを代表する雑誌「セブンティーン」に登場し、黒人として初めて表紙を飾りました。

モデルとして活躍しながらも、歌うことは辞めませんでした。

1983年 レコード契約。
歌唱力に感銘を受けたアリスタ・レコードの社長クライヴ・デイヴィスはホイットニーと契約を交わします。

同年6月23日に初めてテレビ出演し、ミュージカル映画「ウィズ」の楽曲「Home」を熱唱しました。

1985年 デビューアルバム「Whitney Houston」が異例の大ヒット。
全世界で2500万枚以上を売り上げました。

いきなり大ヒットを生み出した秘訣は、レコード会社の狙いが的確だったため。
白人至上主義が根強いアメリカで黒人女性シンガーである彼女が受け入れられるように、全ての楽曲をポップに仕上げ、更にファンクやR&Bなどの黒人らしい要素の入った曲は作り直すほど徹底していました。こうしてデビュー早々、突如現れたポップス界のプリンセスとして大衆に認識されることになったのです

1986年 アメリカン・ミュージック・アワード受賞。
同年2月にはグラミー賞も受賞しています。

1989年 黒人向けの音楽賞「ソウル・トレイン・アワード」の舞台でブーイングの嵐。
これは彼女の楽曲が聞き慣れたR&Bとはかけ離れた音楽であるとの反発から起こったもの。このことにより自分らしいブラックミュージックを製作していきます。

■R&Bシンガー、ボビー・ブラウンとの出会い

ソウル・トレイン・アワードの会場でR&Bシンガーであるボビー・ブラウンと出会います。
お互い低所得エリアの生まれという共通点もあり、急速に仲を深めていきます。

1992年 結婚。
出会いから3年後に結ばれ、翌年には一人娘のクリスティーナを出産しました。

■映画「ボディガード」で成果のトップスターに

(Public Domain /‘Whitney Houston Welcome Heroes 7’ by PH2 Mark Kettenhofen. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

結婚後も仕事面で更に大きな結果を成し遂げます。俳優ケビン・コスナーとの主演映画「ボディガード」の全世界興行収入が4億1100万ドルを突破する大ヒットを記録。
主題歌「I Will Always Love You」収録のサウンドトラックは、全世界で4200万枚を売り上げました。

彼女のボーカルだけで始まるこの曲。アイデアはケビンから提案されたものでした。結果的に彼女の歌声をより引き立たせるアレンジに仕上がっています。

映画とサウンドトラックの大ヒットにより、誰もが認める全世界のスターの座を手にしたのです。

■ドラックにより低迷

映画「ボディガード」で世界的なスターとなった彼女の周りには、常にパパラッチとファンが付きまといます。プライバシーを失い、信用できる友人もおらず、更には夫であるボビーの浮気など、家庭内でも大きな問題を抱えていたことからコカインに手を出すようになります。

1999年 ワールドツアーを敢行。
ドイツやオランダ、オーストリアなどヨーロッパの会場で別次元の美声を披露し、オーディエンスを魅了しました。

しかし、シンガポール公演を急遽キャンセル。当初は病気によるものだと発表されていましたが、実はコカインの摂取により喉にコブができ、歌えない状態だったのです。
周りの関係者は彼女がコカイン中毒になっていることを知りつつ、ドラッグ摂取を止めることはしませんでした。その理由は、口出しをすると仕事をクビになってしまうためです。

2000年 第72回アカデミー賞に「Somewhere Over The Rainbow」で出演予定。
しかし、本番2日前にリハーサルを行った際に、原曲を無視して好き勝手歌い出すというハプニングが起こります。様子がおかしく、このまま生放送するのは危険だと感じた音楽監督バート・バラックは彼女の出演をキャンセルしました。

2001年 マイケル・ジャクソンのソロ30周年コンサートに出演。
アッシャー、マイアと共に「Wanna Be Startin’ Somethin’」を熱唱しオーディエンスを釘付けにします。
しかし、彼女の体はドラッグ中毒により驚くほど痩せこけてしまっていました。

2002年 マリファナとコカインの使用をテレビ番組で告白。
病床の父親が1億ドルを要求する訴えを起こした件を質問された際には、娘のことよりお金に関心がある父親に対して涙を流し、その場から去ってしまいました。

2006年 暴行や浮気が絶えなかった夫、ボビーと離婚。
その後ドラッグ依存から抜け出すためリハビリを続けますが、思うように問題は解決しませんでした。

■突然の永眠

2012年2月11日 48歳という若さで死去。
カリフォルニア州ロサンゼルスにある、ビバリーヒルトン・ホテルの客室の浴槽内で死亡していた彼女が発見されました。

天使の歌声で全世界から賞賛されたホイットニー・ヒューストン。
連続1位獲得曲数はあのビートルズをも上回るほど、彼女の曲は愛されていました。

そして今後も色あせることなく、世界中のリスナーから愛され続けることでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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