ジョージ・ハリスン:ビートルズ以降/『静かなビートル』の慈愛

ビートルズ最晩年にソングライターとしての才能を開花させたジョージ・ハリスン。ソロで発表したアルバムが大成功をおさめ、その地位を不動のものにしました。また、幅広い人脈を持ち、チャリティーコンサートも早い段階で成功させた人物です。盗作訴訟、親友であるエリック・クラプトンと妻パティとの三角関係事件などの試練を乗り越え、晩年は趣味の合間にマイペースな音楽活動を行いました。最期は、癌により58年の生涯に幕を閉じます。

華々しいソロ・デビュー

(Public Domain /‘George Harrison 1974’ by David Hume Kennerly. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ジョージはビートルズのメンバーだった時代、ジョン・レノンやポール・マッカートニーという巨大な二人の天才の存在によって、自作曲を発表するチャンスがなかなか与えられませんでした。
しかし、ビートルズの実質的なラストアルバムでは『サムシング』や『ヒア・カムズ・ザ・サン』などの傑作を発表。世間はもとより、ジョンやポールも舌を巻きました。
解散後に満を持して発表したソロ・アルバム『オール・シングス・マスト・パス』は三枚組の超大作。
長年書きためた曲を存分に放出し、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ビリー・プレストンなど親しい友人たちもこぞってセッションに参加したこのアルバムは、各方面から絶賛の嵐。「静かなビートル」と呼ばれた彼の想像以上に強力な作品に、多くの人が目を見張りました。
『オール・シングス・マスト・パス』は、ヒットチャートも席巻しました。イギリスとアメリカ、両方のチャートで1位を獲得。イギリスでは7週、アメリカでは8週もの間その座を守りました。
シングル・カットされた『マイ・スウィート・ロード』もイギリスで7週、アメリカで4週のナンバーワンを記録するという快挙を成し遂げたのです。
ジョン・レノンは「ラジオのスイッチを入れたら必ずと言っていいほどジョージの曲が流れる」と半ば呆れた様子で語ったとのことです。

チャリティー・コンサートの成功

『オール・シングス・マスト・パス』の成功の余韻冷めやらぬなか、ジョージは紛争や飢餓に苦しむ難民への義援金を集めるための大規模チャリティー・コンサートを行います。「ソロで最初に成功した元ビートル」となった自信も後押ししたのでしょう。
「ビートルズ時代にはいろいろ得るものがあったが、そのうちのひとつは大胆さだ。ジョンに影響されたと思う。ジョンは強く感銘を受けたらすぐに行動に出ただろ?」と彼は語りました。
寸暇を惜しんで友人たちに電話をかけまくり、協力をあおいだそう。
リンゴ、クラプトン、プレストン、レオン・ラッセルなど、誰もが喜んでノーギャラの出演を快諾。ジョージの人脈の幅広さがうかがえます。
1971年8月1日、マディソン・スクエア・ガーデンで開かれたコンサートは大成功。チケットは4万枚があっという間に売り切れ、コンサート当日まで出演があやぶまれたボブ・ディランも姿を見せました。
このようなチャリティー・コンサートは当時としては画期的なものであり、ロックコンサートにおいても、こうした社会性のあるイベントが成立することを世界に知らしめました。

新レーベル「ダーク・ホース」と北米ツアー

順風満帆なソロ活動を続けるジョージは、1974年5月に自らのレコード・レーベル「ダーク・ホース」を設立します。販売契約を結んだレコード会社は自身が所属していたEMIではなく、A&Mでした。この新レーベルの名前は、その頃制作していた曲名に由来しています。彼の話によると、ダーク・ホース(穴馬)とは自分自身のこと。
新レーベルの立ち上げに合わせ、1974年11月からソロとして初のコンサート・ツアーを行うことを決めました。行き先は北アメリカ。ポール・マッカートニーの「ウイングス・オーバー・アメリカ・ツアー」に先駆けること一年半です。
11月2日のバンクーバーから12月20日のニューヨークまで、26都市45回のコンサートを行う過密スケジュール。プログラムの売り上げなどの利益は、各地の地元の病院やユニセフに寄付されました。
ただ、観客の反応は良かったものの、ジョージの声の不調やビートルズナンバーの歌詞を変えて歌ったこと、共演者が一般にはなじみのうすいインド音楽だったことなどからマスコミの反応は冷たく手厳しいものに。このときの経験によって、以後ツアーに対して消極的になっていきます。

盗作訴訟

ちょうどこの時期、彼の身の上に訴訟が持ち上がります。
前述したメガヒット曲『マイ・スウィート・ロード』が、シフォンズのヒット曲『ヒーズ・ソー・ファイン』のメロディーを盗用しているということで、『ヒーズ・ソー・ファイン』の版権を持つブライト・チューンズ・ミュージック社から訴えられたのです。
1971年3月に最初の訴えが起こされ、示談交渉を試みるもうまくいかず、1976年に本格的な審理が始まりました。同年9月に出された判決では「意識的な盗作」とは認められなかったものの、「潜在意識における盗用」ということでジョージの敗訴となりました。
この件により、しばらくの間作曲をする気になれなかったといいます。

ロック史上もっとも有名な三角関係

ジョージはビートルズ時代の映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』に出演していたパティ・ボイドに一目惚れし、1966年に結婚しました。しかし1970年代に入ってからはすれ違いが多くなります。
そんななか、ジョージの親友であるエリック・クラプトンがパティに恋心を抱くようになるのです。
夫婦は1974年に別居。パティはクラプトンと同棲生活を始めます。そして1977年には正式に離婚が決定し、パティは1979年にクラプトンと結婚しました。
しかし、ジョージとクラプトンの友情は変わりませんでした。関係のもつれが起こった後もミュージシャンとして共に敬い刺激し合う関係が続き、共演も多く果たしています。
彼はパティとクラプトンの結婚披露パーティーに出席し、ポールやリンゴとともにジャム・セッションを行っています。
1978年、ジョージの生涯の伴侶となるオリヴィア・トリニダード・アリアスとの間に男の子が誕生。9月に二人は正式に結婚しました。

趣味の世界

少年時代から車やモーター・スポーツが大好きだったジョージ。1970年代以降は、あちこちのF1グランプリ会場に出かけて観戦を楽しみます。
1979年のインタビューでは「ニキ・ラウダ(F1のチャンピオン・ドライバー)はただ、家に帰ってリラックスして、好きな音楽を聴いているときがいちばんいいと言っていた。そのとき思ったんだ。『こりゃすごい、曲が書けそうだぞ。世間は皆、俺をミュージシャンとして見ている。実際は何もせずブラブラしているだけなのに。でも、ニキが休日に楽しんでくれるような曲なら作れるかもしれない』とね。そろそろ何かやったほうがいいなと思ったんだ」と述べています。
また、晩年に至るまでガーデニングに力を入れ、オックスフォード州にある広大な邸宅、通称フライアー・パークの敷地内での庭仕事にも熱中。庭園には珍しい植物が植えられ、フライアー・パーク内の様子はアルバム・ジャケットやビデオ・クリップなどにしばしば登場しました。

苦難の時代とこの上ない幸せ

1980年12月8日、ジョン・レノンが射殺されたとき「僕はジョンが大好きだったし、尊敬していた。それは今でも変わらない」と彼はコメントしています。
一方、自身のニュー・アルバムはジョンの五年振りのアルバム『ダブル・ファンタジー』が同時期に発売されることになり、レコード会社はジョージのアルバムの発売をずらすことにします。さらに、収録曲が地味だという理由で、四曲分を差し替えるよう求めました。新曲が却下されるという屈辱を味わったのです。
業界のビジネスに振り回されることに嫌気が差したジョージは、しばらく音楽活動から遠ざかり、公に姿を見せる機会もほとんどなくなりました。
そんな彼がようやく久々のナンバーワンヒットを飛ばしたのが1987年。ニュー・アルバムに先駆けて発売したシングル『セット・オン・ユー』がアメリカの各誌で一位を獲得。『ギブ・ミー・ラブ』以来約15年振りのことでした。続くアルバム・タイトルは『クラウド・ナイン』。「この上ない幸せ」を意味し、そのタイトルのごとく、最高の気持ちで第一線に復帰しました。

最期の日々

1990年代、クラプトンの誘いで日本でのツアーを成功させ、ボブ・ディランのデビュー30周年コンサートに出演。改めて健在ぶりを示したジョージですが、1998年に喉頭癌の手術を前年に受けていたことを告白。それでも音楽制作に意欲的だった彼に1999年、邸宅に侵入した暴漢に襲われ刃物で刺されるという事件が起きます。幸い、命にかかわる事態にはなりませんでした。
ポールとリンゴが揃ってジョージを訪れたのが2001年11月12日。三人で何時間も思い出話に花を咲かせます。終始明るく前向きだったと報道されました。ポールの回想によると、ジョージの手を握ったときには涙をこらえきれなかったそうです。
同年11月29日午後1時30分、ジョージ・ハリスン死去。満58歳没。ジョージの亡骸は「大騒ぎになることを避けたい」という遺志により、他界を公表する前に荼毘に付されたといいます。
翌2002年1月には、追悼シングル『マイ・スウィート・ロード』が再発売され、オリジナル発売時以来31年振りに全英1位になりました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧