ジョン・レノン:ビートルズ以降/愛と平和を訴え続けた男の魂

ビートルズ解散前に結婚したオノ・ヨーコとともに、類い稀な創作・パフォーマンスを始めたジョン・レノン。盟友だったポール・マッカートニーとの確執が続きましたが、アーティスト活動の中では前衛音楽の他に『イマジン』を代表とする平和賛歌などを手がけました。ニューヨークを活動の拠点とするも、70年代後半は表舞台から距離を置いて主夫として育児に専念。1980年にはミュージシャンとして再出発しますが、狂信的なファンに射殺されました。

「ソロ活動」はオノ・ヨーコとともに

ジョン・レノンは、1969年に結婚したオノ・ヨーコとともに結成したプラスティック・オノ・バンド名義で、ビートルズが実質上解散した1970年にアルバム『ジョンの魂』をリリースしました。収録曲『マザー』では、「あなたは僕のものではなかった」というフレーズが使われています。
このアルバムの制作前、ジョン、ヨーコ夫妻はロサンゼルスに赴き、精神科医アーサー・ヤノフのもとで「原初(プライマル)療法」を受けています。この療法は、患者の記憶を幼少時代まで遡らせ、心の傷を過去に探ることで、人間本来の姿に戻って「原始的な叫び」を上げ、感情をそのまま表現することで精神的苦痛を和らげるというもの。
ジョンも医師のヤノフも「効果があった」と述べています。前述の『マザー』で子供の頃の傷を吐き出し、事故で母を失ったトラウマから抜け出すことができたのでしょう。
最初の妻・シンシアは1歳年上で、続くヨーコは7歳年上。ジョンが言うには「ヨーコはもっと年上でもよかった」。亡き母親ジュリアのイメージをヨーコの中に重ねていたのでは、という評論もあります。
ビートルズ最後のアルバムでポール・マッカートニーは「重荷を背負っていくんだ これから長い間ずっと」と歌いましたが、ジョンは『ゴッド』の曲中で「ビートルズを信じない」と歌い、全否定。唯一信じられるというヨーコとともに人生を歩んでいくと宣言しました。

名曲『イマジン』とポールとの「確執」

(Public Domain /‘Lennon-McCartney’ by United Press International, photographer unknown. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ジョンはアルバム『イマジン』を発表し、イギリスとアメリカでチャート1位を飾ります。なんといっても同名のシングル曲は、ソロ時代のジョンにおける代表作かつ偉大な平和賛歌として末永く世界中で聴かれ、歌われることになります。
後年のインタビューで「『イマジン』を一日に二度歌ったことがあったけど、うんざりしたな。でも、もし自分が誰かのコンサートに行ったら、知っている曲を聴きたいと思うだろう。あの曲は本当に、すごく誇りに思っている」と語っています。
その一方で、このアルバムには当時訴訟などで険悪な関係にあったポールに対する皮肉としての曲『ハウ・ドゥ・ユー・スリープ(眠れるかい?)』も収録。「お前の功績は『イエスタデイ』だけだ」などとなじりました。
また、ポールはジョンとヨーコへの皮肉を歌い、この「音楽を通じた喧嘩」ともとれるやりとりはしばらく続きました。とはいえ、「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の人が悪口を言うのは許さない」というスタンスも持っていたそうです。

「失われた週末」

(Public Domain /‘The Lost Weekend (1945 film)’ by Illustrator unknown. “Copyright 1945 Paramount Pictures Inc.”. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

イギリスを離れてニューヨークに活動拠点を置いたジョンとヨーコ。「ニューヨークは世界中で最もホットな都市だ。物事が起こりつつあるのはここなんだ」と言い、ニューヨークでも精力的に活動しました。
しかし1973年秋、ヨーコはジョンに別居を言い渡します。原因は諸説ありますが、アメリカ居住権に関するトラブルなどで自暴自棄になったジョンによってヨーコが傷つき、このままではお互いダメになると感じたため、といわれています。これが有名映画のタイトルをもじった、ジョンの「失われた週末」の始まりでした。
1973年9月18日、ヨーコの元を離れ、女性アシスタントのメイ・パンを伴ってニューヨークからロサンゼルスへ向かいました。ヨーコと離れたことにより、多くの音楽仲間がジョンの元を頻繁に訪れるようになります。
この時期、それまでの熱心な平和運動から一転、セッションやレコーディングを精力的に行っています。しかし、その後メイ・パンが述懐するように「ニューヨークでは規律を守ってレコーディングしていたジョンは、ロサンゼルスでは他の連中とアルコールを飲んでいた」ということで、彼の生活は荒れに荒れました。彼自身も「どん底だった。ヨーコと別れて、毎日飲んだくれていた。本当に惨めだった」と振り返っています。
実はこの「失われた週末」の時期にポールと4年ぶりに再会しています。21世紀になってから明らかになった事実ですが、ただ会っただけではなく、セッションも楽しんだそうです。
妻・リンダを伴って現れたポールは、まるで一週間ぶりに会ったかのような雰囲気で昔どおりの関係に戻っていた、とメイ・パンは語っています。

主夫として

1975年1月にヨーコと復縁し、ニューヨークに戻ります。そして同年10月9日、奇しくもジョンの誕生日に待望の子供、ショーンが誕生します。
1976年1月、レコーディング契約が切れましたが、その後どこのレコード会社とも契約しませんでした。
音楽活動を休止し、育児と家事に専念する主夫になることに。ビジネス関係はヨーコに任せるようになります。
とはいえ、主夫業に専念している間全く音楽の活動をしていなかったわけではなく、リンゴ・スターのアルバムに『クッキン』という曲を提供してスタジオに赴きピアノを演奏したり、自宅で曲作りをしたりしてデモ・テープも残しました。この中には後に『ビートルズ・アンソロジー』シリーズで発表される『フリー・アズ・ア・バード』『リアル・ラブ』が入っていたのです。

復帰直後に非業の死

「音楽活動はショーンが五歳くらいになったら再開する」と決めていたジョン。

1980年、ショーンとともにバミューダに旅行し、新曲をデモ録音します。そして8月から9月にかけて本格的なレコーディングを行いました。
同年秋、実に五年振りのシングル『スターティング・オーバー』を発売。続けてアルバム『ダブル・ファンタジー』を発表し、ワールド・ツアーも真剣に考える対象になっていました。

1980年12月8日月曜日、この日もジョンとヨーコはレコーディングやインタビューなどの仕事が入っており多忙でした。
午前11時から午後にかけて雑誌『ローリング・ストーン』のためのフォト・セッション。午後2時からRKOラジオのインタビュー収録。
インタビューで彼は「今まで僕が一緒に、一夜限りでなく仕事ができたアーティストは二人しかいない。ポール・マッカートニーとオノ・ヨーコだ。それは、最高に素晴らしい選択だったと思っている」と半生を総括。
さらに、同世代のリスナーにも語りかけました。
「歌を作り、歌い、録音しているとき、僕はいつも同世代の人たち、すなわち1960年代をともに生き抜いてきた人たちのことを思い浮かべている。若い人たちにも気に入ってほしいけど、僕はまず自分と一緒に育ってきた人たちに向けてこう言いたい。やあみんな、調子はどうだい? きみたちの関係はうまくいっているかい? うまく切り抜けてきたかい? 70年代はさんざんだったね。80年代はいい時代にしようじゃないか。それができるかどうかはぼくたち次第なんだから」。
そして「僕は死ぬまで自分の仕事が終わるとは思わない。死んで埋められてしまうのは、まだずっと先のことだと思いたい……」と締めました。
午後5時、自宅のアパートメント「ダコタ・ハウス」を出てスタジオに向かおうとするジョンに眼鏡をかけた大柄な若い男が近寄り、『ダブル・ファンタジー』のレコードを差し出しました。彼はそれを受け取り、サインします。「これでいいかい?」と言って男にアルバムを返して車に乗り込み、窓からにこやかに「じゃあね!」と手を振りました。

スタジオでの仕事は、主にヨーコの新曲の仕上げミキシング。それを終えて午後10時半にスタジオを出発。ダコタ・ハウスへの帰途につきます。
午後10時50分。ヨーコとともに車を降りたジョンが管理人室のドアにさしかかろうとしたとき、突然後ろから「ミスター・レノン?」と呼びかけられます。
振り返るとわずか5メートルほどのところで男がかがみこみ、射撃態勢をとっていました。男はそのままピストルを向け5発発射。ジョンは「撃たれた」とうめきながら床に倒れました。

急遽病院へ運ばれますが午後11時過ぎ、医師により死亡宣告を受けます。全身の血液の80パーセントを失ったショック症状が死因でした。満40歳没。
犯人は、夕方スタジオへ行く前に『ダブル・ファンタジー』にサインをしてやった、あの若い男だったのです。警察は男を逮捕しました。
その後、彼の亡骸は、翌日午後2時頃ニューヨーク郊外の葬祭場で火葬されました。
あまりにも早い死を迎えてしまったジョン・レノン。彼の音楽や平和への願いは長きに渡り全世界に影響を与えています。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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