ビートルズ:アイドル期/前代未聞バンド登場の衝撃

1962年、イギリスの港町リバプールで生まれ育ったジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人組がレコードデビューしました。たちまちイギリス国内でスターダムにのし上がり、続いてアメリカをはじめとする全世界で多くのファンを獲得するに至ります。斬新な音楽やメンバーのキャラクターに魅了された若者「ビートルマニア」によって、ビートルズは熱烈な支持を受けました。

ビートルズ、デビュー

1962年、ビートルズはファーストシングル『Love Me Do』をリリースしました。
ジョン・レノンとポール・マッカートニーが「クオリーメン」というグループ名で、一緒に初めてのステージに上がってから約5年。その間にはジョージ・ハリスンの加入やドイツでの下積みがありました。ドラマーがピート・ベストからリンゴ・スターへ代わるなど紆余曲折を経て、マネージャーを買って出たブライアン・エプスタインの後押しを受けました。しかしデッカ・レコード担当者から「ビートルズの音楽は好きじゃない」という、今となっては「世界最悪の予言」として歴史に残る言葉を浴びます。めげずに懸命な営業やオーディションを続け、EMIで待望のデビューを果たしました。
『Love Me Do』はイギリスの売り上げチャートで17位にスマッシュヒット。
ここから「史上最も成功したロックバンド」とギネス認定されるグループの伝説が始まったのです。

トップを独走

1963年に入ってすぐに第二弾シングル『Please Please Me』を発売。プロデューサーのジョージ・マーティンが予測したとおり、チャート1位を獲得します。
その余勢を駆ってアルバム『Please Please Me』のレコーディングをたった1日で行います。これを翌月に発売し、またもや1位一位を獲得。

このファーストアルバムがひたすら毎週1位を走っている間、次のアルバム『With The Beatles』をレコーディング。発売されると、当然のごとく1位を獲得します。
ラジオやテレビ出演も行い、コンサートツアーも多数敢行。それまでのロックンロールに飽き足らなかった若者の間でビートルズ人気は加熱し、イギリス社会においてこの熱は大きく広がったため、熱狂的なファン「ビートルマニア」が誕生しました。
特に10代女性ファンの多くがコンサートで大きな喚声をあげ、ビートルズの演奏は聞こえなくなるほど。失神するファンも続出し、楽屋の入り口にはプレゼントや電報の山で埋まってしまうほどでした。

アメリカ制覇

(Public Domain /‘Beatles with Ed Sullivan’ by CBS Television. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1963年11月にイギリスで発売された『I Want To Hold Your Hand』がついに翌年2月、アメリカのヒットチャート1位を獲得。
ビートルズはすぐさま渡米し、テレビの人気音楽バラエティ番組「エド・サリバン・ショー」に出演します。
このときの放送は視聴者数が7300万人、視聴率は72%だったと伝えられています。
同年4月にはビルボード誌のチャートで1位から5位までを独占するという空前の偉業を達成するに至りました。世界一のマーケットであるアメリカを完全制覇し、名実ともにトップスターになった瞬間でした。

初期ビートルズの「新しさ」とは

Public Domain /‘The Fabs’ by United Press International. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

初期のビートルズはなぜ世界中の人々から驚きをもって迎えられたのか。大きく二つの要因が挙げられます。
一つ目は、初期のアルバム収録曲の一部を除き、楽曲は全てメンバー自作であったということ。新人ミュージシャンが自作曲でデビューを飾るというのは現在当たり前ですが、当時としては異例中の異例でした。更にはその自作曲が斬新な傑作揃いだったため、耳の肥えたリスナーは彼らに病みつきになったのです。
二つ目は、メンバーの自由奔放・反逆的なキャラクターでしょう。多くの若手が優等生ぶるショービジネス界において、報道陣に囲まれても平気で酒を飲みタバコを吸い、時には怒鳴りつけたり言い負かしたりというスタイル。さらにそれを秀逸なユーモアで笑い飛ばす豪胆さ。当時の若者を魅了したのは当然の成り行きと言えます。

激務に悲鳴

アメリカで成功した当代随一のスターとして、ビートルズは映画に出演します。初の主演映画は『A Hard Day’s Night』。このタイトルは文法としては正しくありませんが、リンゴがあまりの忙しさに思わず口走った言葉をジョンが面白がって使ったのが採用されたのです。コンサートや旅、そしてファンに追いかけられる日常をもとに作られたこの映画は好評を博しました。
映画と同名の曲、そしてアルバム(一応サントラとされている)がジョン主導で作られ、これは「初期の最高傑作」としての呼び声が高いものとなります。初めて13曲全てがカバー曲なしのレノン・マッカートニー自作によるアルバムとなりました。

映画撮影が終了してわずかな休暇をとった後、北米大陸25会場コンサート、新作アルバム『Beatles For Sale』レコーディング、1964年末から翌年にかけて3週間の英国ツアー。その隙間にシングルも三枚発売という超過密スケジュールに追われます。
ジョージは当時を振り返って「1日が1週間分の感じだった。僕らはまともだったんだ。世間が異常だったのさ」と述懐。ポールも「僕らは、少しずつクレイジーな状況になっていった」と振り返ります。

誰もが認める「アーティスト」へ

殺人的スケジュールに最も辟易していたのはジョンだったのでしょう。

1965年2月から、主演2作目の映画『Help!』の撮影と同名アルバムのレコーディングを開始します。ジョンはアルバム1曲目の自作『Help!』について「アイドル稼業はもううんざりだ。助けてくれって心境だった。あの曲は、はじめて書いたメッセージ・ソングだ」と当時の心境を正直に告白しています。
このような狂乱にも似た状況の下、ポールは後に「世界で最もカバーされた曲」としてギネス認定される名曲を『Help!』に収録しています。その曲とは、言わずと知れた『Yesterday』です。ポールがある朝目覚めるとメロディが鳴っていて「知らない曲だ。何だこれは」と思い、いろんな人に訊いてみたものの、どうやら自分が作ったらしいと結論づけたというエピソードが残っています。

辛辣な皮肉屋で知られるジョンも、さすがに後年には「『Yesterday』のことなら全部わかっている。僕は『Yesterday』を絶賛しているんだ。ポールが生み出した、ポールの曲だ。よくできているよ。素晴らしいね」と手放しで絶賛したほど。
この単独で作った、レコーディングのときもポール以外のメンバーが参加していない『Yesterday』は、ビートルズファンはもちろん、ビートルズの曲を「ただのやかましい不良の音楽」と渋い顔で非難していた人たちまで唸らせる結果となり、アイドル扱いのようなことをされていたビートルズが変革期に移るきっかけの一つにもなりました。
そして1965年10月、外貨獲得に大きく貢献したという理由でバッキンガム宮殿にてエリザベス女王から勲章(MBE)を受けました。しかし、この受勲に対して批判を口にする人々も。ジョンによれば「不平を言っていたのは戦争の英雄行為で勲章を受けた人たちだった」。ポールは後年に「叙勲者たちの多くは僕らを祝福してくれたけど、英国空軍の老人たちの何人かは、長髪の馬鹿どもが叙勲するとはMBEも落ちぶれたものだって思っていたみたいだ。でも、たいていの人たちは、僕らのことを輸出に貢献したイギリス大使みたいに思ってくれたよ」と回顧しています。
名実ともに世界を代表する大スターにまで登り詰めたビートルズ。しかしそこに安住することなく、グループ活動中盤の変革期へ入っていくのです。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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