ビートルズ:変革期/レコーディングアーティストへ

多忙やトラブルなどによって、ビートルズは急速にコンサートへの興味を失っていきました。それに反比例して、ナンバーワンヒットを量産する彼らのレコーディング現場での権限は強くなり、大いに時間をかけて制作に集中します。そして、ついにコンサート活動は中止するのです。楽曲はサイケデリック・シュールに傾き、ポップでありながらも複雑化。さらなる高みへ向かいました。そんななか、マネージャーのブライアン・エプスタインが急死し、デビュー以来最も大きな痛手を負います。

コンサートへの飽きと、飽くなきレコーディング

『Help!』に続くアルバム『Rubber Soul』は、ジョンによると「ジャケットやデザインを何もかも自分たちでやった最初のアルバムだった。スタジオも思い通り使えるようになった」とのことです。
レコーディング作業に凝れる環境に身を置くことになったビートルズは、詞・曲ともに渋みと深みが増してきます。そうなると『Rubber Soul』収録の『In My Life』などに代表される、コンサートでの再現が難しい楽曲がたくさん作られる事態に。
そして、自分たちの演奏をろくに聴かずに喚きまくるオーディエンスの前でのコンサートに対しては、ほとんどやる気を失っていました。唯一ライブ活動に意欲的だったポールでさえも当時「有名になるってことは、結局、サインを求めてくるファンから逃げるように車に乗り込んだり、食事中にポニー・テールの中年アメリカ人女性に話しかけられたりするってことなんだよ。僕ら4人は世界中の人々に知られているみたいだけど、そんなに有名になったなんて思ってないよ」と、半ば自身の立場にうんざりしたような発言をしています。

レコーディング革命、本格始動

1965年にイギリスでは最後になる国内ツアーを行ったビートルズは、翌1966年、ニューアルバム『Revolver』をレコーディング。ドイツ・日本・フィリピンでのツアーを挟んで発売しました。そんななかジョンの不適切な宗教発言による「ビートルズ不買運動」がアメリカ南部で猛威をふるいました。その他にもファンの暴動、メンバーの暗殺危機などにより、アメリカとカナダでのツアーを最後にコンサート活動はピタリと中止するに至ります。
ジョージは「誰も彼も頭がおかしくなってるなかで、僕らが一番正気を保ってたね」。ジョンも「音楽なんか聴こえやしなかった。ただの見せ物だよ。ビートルズそのものが見せ物だったんだ。音楽はどうでもよかったのさ」と言い切り、完全にスタジオでの楽曲制作・レコーディングバンドに移行することになりました。メンバーはミキシング作業にもしばしば立ち会うようになっていきます。そこでテープの逆回転やオーバーダビングの多用といった様々な試みが行われるようになりました。

そのようななかでリリースされた『Revolver』のなかで最も意欲的な曲は、ジョンが作った『Tomorrow Never Knows』でしょう。ジョンの「ダライ・ラマが山頂から歌っているようにしてほしい」というスタッフへの難題を基に、インドをはじめとする東洋思想、そして現在では違法のドラッグでのトリップなどがない交ぜになったサイケデリックな作品で、これまでのラブソング中心のアイドル的イメージを完全払拭し「今までにない、何か」になることを高らかに宣言するかのようなものでした。そしてそれはすぐ実現するのです。
EMIレコードのスタジオ技術革新も目を見張るもので、さらにレコーディングスタッフにも新たな感性を持った若手が加わってより強力に。完全にビートルズのレコーディングバンド化へのお膳立ては整えられました。

1967年「サマー・オブ・ラブ」の渦中での「現象」

最後の北米ツアーから帰国したビートルズは、バンド活動を小休止。ジョンは映画『How I Won The War』に出演し、ポールはジョージ・マーティンと映画音楽制作に着手します。ジョージはインドを訪れて、シタールという楽器の演奏を学びました。
3ヶ月ほどの自由な活動で英気を養った彼らは1966年11月、スタジオに集結します。
手始めにジョンの『Strawberry Fields Forever』を録音し、続いてポールの手による『Penny Lane』を制作・録音。
この二曲は翌年にシングルとしてリリースされます。故郷リバプールに想いを寄せた本作は、ファンの間でビートルズ史上最高のカップリングシングルという意見が多いものです。しかし、当時のヒットチャートでは2位止まりだったため、『Please Please Me』から続いていた連続1位の記録が途切れます。それでも1967年のビートルズは、60年代のヒッピー文化全盛期における「時代を象徴するアルバム」を制作・発売して世界中のリスナーの度肝を抜くのです。

その名も『Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band』。タイトルも長いですが制作期間も長く、デビューアルバム『Please Please Me』は一日でレコーディングを済ませたのに比して、この作品には約五ヶ月間、延べ700時間がかけられました。
ポールのアイディアでアルバム全体が架空のバンドのコンサート形式になっていて、いわゆるトータル・アルバムとして作られた作品です。当時のレコーディング技術を駆使し、とことんサイケデリックな音を追求して仕上げられました。
1967年6月にリリースされた『Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、サマー・オブ・ラブとも呼ばれています。この年の夏を鮮やかに飾る「時代の象徴的作品」として、ロックの頂点に達した記念碑的なアルバムとして歴史に名を残すことになりました。
その一方、コンサートをやめたからか、大作を完成させた反動からか、この頃から単独行動・単独レコーディングというパターンが顕著となり、グループの新しい形が出来つつあるようになります。

映画制作の企画と全世界テレビ中継

ポールがアメリカ滞在中に「大型バスにビートルズや仲間たちを乗せてミステリアスな旅をし、それを撮影しよう」と企画し、帰国後メンバーに相談し了承されました。
また、アメリカの映画会社が『Help!』に続く作品『Yellow Submarine』というアニメ映画を作ることに。当初は自分たちがアニメになることを嫌がりましたが、完成した作品は優れたもので、芸術的でした。現在でも評価の高いほどの仕上がりになっており、メンバーも大変満足したとのことです。
この時期にイギリス放送局BBCから全世界での中継番組「Our World」に出演するという企画が舞い込みました。
1967年6月25日、ビートルズとそのスタッフ、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、エリック・クラプトンなどの有名人が集まり、そこでジョンがリード・ボーカルを務める『All You Need Is Love』が世界同時中継で放送されたのです。後にリンゴは「世界中の何百万、何千万という人たちに電波を届けられたんだ。衛星放送で世界に放送された初めての番組なんだよ。今じゃ当たり前のことだけど、あの時僕らがやったのが一番最初なのさ。ほんとワクワクしたね。僕らは史上初ってことをたくさんやった。どれもエキサイティングだったよ」と回想しています。

マネージャー、ブライアント・エプスタインの急死

1967年8月27日、マネージャーのブライアン・エプスタインが薬物の大量摂取により急死します。ビートルズをデビュー前から陰で支え続けたブライアン。ビートルズがコンサート活動をやめて以来、自身の存在意義を失ったかのように薬物に頼る荒れた生活を送っていました。検死によって自殺ではなく、事故死と断定されました。
このとき、メンバーは全員でバンゴアを訪れ、インドの超越的瞑想の指導者マハリシ・マヘシ・ヨギのセミナーに参加していました。ブライアンの訃報を聞いた彼らは急いで車に乗り込み、ロンドンへ向かいます。
ポールは「ひどいショックだ。ショックで頭がおかしくなりそうだ」。ジョンは「彼に捧げる言葉が見つからない。とにかく彼は楽しい奴だった。今僕らが思い出すのは楽しいことばかりだ」。ジョージは「彼はビートルズに人生の多くを捧げてくれた。僕らは彼のことが大好きだった。彼はビートルズの一員だった」。リンゴは「僕らはブライアンが大好きだった。優しい人だったよ。僕らは彼にすごく大きな恩がある。ずっとブライアンと一緒にやってきた、一緒に歩いてきたんだ」と、それぞれブライアンに対しての感謝を口にするも、相当狼狽していました。
ブライアンは同性愛者であり、ジョンに振られたことが精神的に不安定になった一因でもあるとの憶測もありますが、真相は今もって謎に包まれています。
ともあれ、マネージメント全般を引き受けていたブライアンの死によってビートルズは自らマネージメントをすることになり、それは解散に向かう遠因ともなっていくのです。

初の挫折

完成させたテレビ映画『Magical Mystery Tour』はイギリスで1967年12月26日に放映されました。ストーリーらしいストーリーはなく、ビートルズらの思いつき中心で作られたこの作品は、ほぼ理解されずに視聴者や評論家から厳しい酷評を受けました。
現在となっては、ビデオ・クリップの先駆けとして一部識者から評価されています。しかし、これまで全ての作品が絶賛を受けて成功していたビートルズにとっては初めての苦い挫折になりました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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