ビートルズ:爛熟期/傑作群を残して解散

ビートルズは自身のレコード会社「アップル」を設立します。インドに旅し、新曲を多く制作しました。2枚組アルバム『The Beatles』制作の頃には、メンバー同士が険悪な仲となり、バンドの主導権はジョンからポールへ移りました。ポールによってライブ・バンドへの原点回帰が試みられましたが、芳しくない結果に。最後に制作した『Abby Road』で有終の美を飾るも、メンバー間の溝が埋まらないままビートルズは実質的な解散に至りました。

アップル設立

ジョンは「自分たちのレーベルを作ることは絶対にない。面倒すぎる」と1965年に語っていました。しかし敏腕マネージャーのブライアン・エプスタインが急死したことにより、その面倒なレーベル作りをする流れになったのです。
ビートルズが興したアップルという会社は当初、若いアーティストを支援するという理想を掲げていました。しかし、ほぼ無惨な結果に終わり、結果的にはビートルズ解散の火種となって更に面倒なことにさせてしまう事態に発展していきます。
そんなことがあってもアップル自体は現在もなお存続しており、ビートルズ関連の商品を売り出しているのは歴史の皮肉と言えましょう。

インドでの失望と楽曲量産

ビートルズの四人はそれぞれ妻や友人などを伴い、インドのマハリシのもとへ超越瞑想を学ぶために出かけました。
瞑想やインドの哲学・音楽などにもっとも傾倒していたのはジョージです。彼は1968年の時点で、瞑想などを通じて「僕はすでに寿命が20年延びたと思うね」と述べています。
一方、ポールとリンゴはさほど瞑想に強い興味を持ってはいなかったようで、特にリンゴはインドの食べ物が全く合わず、一週間でイギリスに帰国しています(妻のモーリーンはハエに耐えられなかったそうです)。
ジョンは瞑想に対して大きな期待を寄せていましたが、マハリシがビートルズの友人女性たちに近づこうとしている疑惑が持ち上がると、次第に警戒し後に楽曲を通してマハリシ批判をぶちまけました。
ジョージを別とすれば、当初考えていたような瞑想の偉大な成果は得られなかったビートルズでしたが、この旅での最も大きな成果といえば現地で多くの曲を作ることができたという事実でしょう。ジョンも「インドでいい休暇を過ごし、保養をして帰国し、また仕事にもどった」と言い、旅先でのリラックスした雰囲気と少々の刺激を通じて英気を養い、創作も順調に行うことができたようです。

バラバラのグループが作った2枚組アルバム

アップルからビートルズ最初のレコード発売ということで、ポールは「(サイケでカラフルな)『Sgt.Peppers Lonly Herts Club Band』とは対照的なジャケットにしたい」とデザイナーに要望。真っ白なジャケットにシンプルなタイトル『The Beatles』の浮き彫り文字と、限定ナンバーが入っただけの簡素な出来上がりになりました。それゆえ、この作品は通称が『White Album』となり、定着しています。
とはいえ、レーベル第一弾アルバムだけに中身は凝りに凝っています。メンバー四人のカラー・ポートレートには大判のポスターも封入。そのポスターの裏には全曲の歌詞が。オリジナル盤は、レコードをジャケットの上部から出し入れできるというものでした。
何と言っても、ビートルズ初の2枚組アルバムに収録された曲数が大ボリューム。実に30曲でした。約八年にわたるキャリアのなかでの公式発表曲数は213なので、実にその7分の1がこのアルバムに収められています。

(Public Domain /‘Beatles and George Martin in studio 1966’ by Capitol Records. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

内容に関しては、ポールの「『Sgt.〜』とは対照的な」という考えに則したシンプルな出来のものが多いですが、極めて幅広いジャンルを網羅しています。ジャマイカ系、ブルース、ハードロック、ラグタイム調、そして未だにファンの間で意見が割れている『Revolution9』のような前衛音楽も。この多様性の極みといえる『White Album』は、時に散漫な印象を持たれることもあり、プロデューサーのジョージ・マーティンに言わせると「半分は名曲だが半分は入れる必要がない駄曲だった」とのこと。しかし、21世紀のビートルズファンの中でも「通」と言われる人の多くが、最も好きなアルバムに挙げるのが本作です。
このアルバムの制作中は、コンサートを中止した時期から無くなりつつあった一体感がほとんど崩壊したかのようでした。ジョンは交際を始めたオノ・ヨーコを平然とスタジオ内に招き入れ、ポールはギターの弾き語りメインの曲を単独で録音。たまりかねた録音エンジニアが仕事をすっぽかして二度と戻らず、ジョージ・マーティンまで1ヶ月の休暇をとってしまいました。
グループ内外に緊張が高まっている間、温厚で知られるリンゴがついにビートルズを脱退。一週間程度で復帰しますが、さすがに焦った残りのメンバーはリンゴがスタジオに戻る時、ドラムキットに「Welcome Back」のメッセージとともに花束を飾って歓迎する、という一幕がありました。
5ヶ月かけて制作された『White Album』はジョージ・マーティンの予測通り、当時は不評でした。アルバムに先駆けて発売された『Hey Jude/Revolution』が、ビートルズの全シングル中最高の売り上げを記録したおかげで、リスナーのニューアルバムへの期待が高まっているタイミングであったため、運が悪かったとも言えます。

「ゲット・バック・セッション」の混乱

1969年1月、ほぼバラバラになっていたビートルズは、ポールの提案でグループの一体感を取り戻すため「原点に返る」ことをテーマにスタジオに集結します。アルバムの曲を準備し、それをリハーサルして観衆の前でライブパフォーマンスしようというアイディア。それを全てカメラで追って映画にしようという、通称「ゲット・バック・セッション」です。
しかし結果をメンバー各々から言わせると、発案者のポールは「ビートルズの分裂映画になってしまった」、ジョンは「ビートルズをどんなに好きなファンだって、あの悲惨な6週間を耐えしのぶのは無理だよ。この世で一番悲惨なセッションだった」、ジョージは「ものすごくストレスの多い、厄介きわまる時期だった」、リンゴも「一日一日が長かったなあ」と回想。
確かに『Let It Be』と名前を変えたその映画(現在は公式販売されず)を観ると、寒々しいスタジオの中で、より寒々しいメンバーの人間関係がまざまざと映し出されており、辛いものがあります。
スタジオセッションで最も有名なシーンは、ジョージがギタープレイについてポールから細かく注文をつけられ、不満げな表情をするところ。ジョージは主にポールに対する不満が爆発し、5日間だけグループを脱退しています。
そんななかでも何とか踏ん張ったビートルズは、映画・アルバム用の新曲制作を続け、実行自体が危ぶまれていたライブにこぎ着けました。

当初の予定とはだいぶ違うとはいえ、1月30日の昼間、予告なしにアップル・ビルの屋上で約40分のゲリラ・ライブを敢行。その全てをテープ収録、映画も撮影。実に1966年にコンサート活動をやめて以来の屋外ライブであり、最後の公衆の面前での生演奏でした。
レコーディングはかろうじて終了しましたが、ここからアルバム制作に関して迷走の度合いが強くなります。
セッションのテープは最終的にアメリカの有名プロデューサーであるフィル・スペクターの手によって編集されます。彼独特の「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」という手法で、オーケストラやコーラスがふんだんなく加えられました。「原点に帰る」というコンセプトから完全に離れてしまい、ポールは激怒。
結局この『Let It Be』が紆余曲折を経て発売されたのは、最後に作られたアルバム『Abby Road』の後になってしまいました。

至上のラストアルバム『Abby Road』

またもポールが中心となって、以前のようにジョージ・マーティンにプロデュースを一任し、ビートルズはアルバム制作に取りかかります。
メンバー間のいざこざは無くなっていませんでしたが、アップルの財政を立て直すためにも新作を出す必要がありました。
すがはビートルズと言うべきか、最後のアルバムはメンバーが一丸となって取り組み堂々と歴史に残る名盤に。ジョージは『Something』、『Here Comes The Sun』の二つの名曲をもって、ついに大輪の花を咲かせます。そしてB面の圧倒的なメドレー。ラストを飾る『The End』ではリンゴ初のソロ・ドラムプレイと他三人によるギター・ソロの応酬。最後は『And in the end the love you take Is equal to the love you make(そして結局君が受ける愛は君がもたらす愛に等しい)』というポールからのメッセージで締められます。
文句なしの構成と完成度を誇る『Abby Road』は、全世界から惜しみない絶賛を浴びました。

突然の終焉

前述したように、『Let It Be』の仕上がりに不快感を隠せなかったポール。メンバー間における軋轢のエスカレート。そしてついに、1970年4月10日付の英国紙に「ポールがビートルズを脱退することを公式に表明した」という記事が掲載されました。
その後も解散をめぐって訴訟騒ぎが続きます。
世界中を席巻したビートルズは、後期ビートルズを率いて誰よりも存続を願ったであろうポールの脱退という意外な展開をもって実質的に解散しました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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