ポール・マッカートニー:ビートルズ以降/世紀を跨いだ天才音楽家

(Public Domain /‘Thebeatleskeywest’ by Florida Memory. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

結果的にビートルズの解散を公にする役目を引き受けたことになったポール。世界中から責められ、当時のソロ活動も不振を極めましたが、妻であるリンダもメンバーに加えたバンド・ウイングスでヒットメーカーの地位を復活させました。1980年は1月に日本にて大麻所持で逮捕され、12月には盟友だったジョン・レノンが殺害されるという最悪な年になりましたが、その後ソロに戻り、70代に至った今でもワールドツアーを精力的に行っています。

ビートルズ解散訴訟

ポールはいち早くビートルズ脱退を公表しましたが、一方でバンドの存続を誰よりも願っていました。実際、先に脱退の意思を示したのはジョンだったのです。
しかし、ジョンとジョージとリンゴの三人のビジネス・マネージャーとしてアップルを支配していたアラン・クラインがビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』を優先させたため、発売予定の『ポール・マッカートニー』の発売を差し止める動きを見せたのが直接的な原因となり、悩みぬいた結果、ビートルズ解散を法的に成立させるための訴訟に踏み切ります。
ロンドン高等裁判所は1971年3月にポールの主張を認め、他の三人は上告を断念しました。

ウイングスの成功

全ての楽器をひとりで演奏したソロデビューアルバム『ポール・マッカートニー』、14曲中6曲は妻・リンダが共作者としてクレジットされたアルバム『ラム』を経て、念願のライブ活動を再開するため新しいグループを作ることにします。
まずはリンダにキーボードの演奏を教え、メンバーの一員にします(リンダは写真家としてはほぼ引退することに)。友人であり元ムーディ・ブルースのギタリスト、デニー・レインにも声をかけました。
バンド名が決まったのはちょうどリンダが三人目の娘を産んだとき。「天使」という言葉から「ウイングス(翼)」を思いつきます。
そして1971年、アルバム『ウイングス・ワイルド・ライフ』を発売。後に何度も再編成されることになるウイングスですが、1973年にリリースしたアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』が1975年3月のグラミー賞で最優秀コンテンポラリー/ポップ・ボーカル賞と最優秀エンジニア賞を獲得します。そして翌年にかけて行ったワールド・ツアーでは、世界200万人の観客を動員して大成功をおさめるのです。
1977年、シングル『夢の旅人』を発売すると、全英チャートで二ヶ月間1位を突っ走り、ビートルズの『シー・ラブズ・ユー』が持っていた国内の売り上げ最高記録(160万枚)を抜き200万枚が売れました。
1981年までウイングスを率いたポールは、バンドについてこう総括しています。
「僕の人生の中でも最も大きな闘いだったよ。ビートルズと肩を並べようとして無惨にも失敗した男として歴史に残る可能性だって十分あった。ビートルズと肩を並べようという思いは叶わなかったけど、僕は最終的に、それでもすごく成功したと感じている」。
なお、ビートルズの元メンバーは皆、マスコミなどから「ビートルズ再結成はあるのか?」という質問を繰り返されていましたが、彼は「ビートルズを観たいならフィルムをどうぞ!」と答えていたそう。

1980年の悪夢

1980年は、ポールにとって忌まわしい大きな出来事が二つ起きました。
1月、ウイングスとして公演を行うために日本を訪れたとき、空港での手荷物検査で大麻が見つかりました。合計219グラム。現行犯で逮捕された彼は身柄を検察庁に送られ、一週間あまり拘留されました。
その間、リンダをはじめウイングスのメンバーも取り調べを受けます。更にアメリカ・フロリダ州のマイアミ空港では、ポール救出のためにハイジャックを図った29歳の男性ファンが射殺されるなどの事件が起きました。
当然、日本公演は中止となり、この騒動はウイングスの活動が終わる遠因となるのです。その後ポールは「僕の人生で最も愚かな出来事」だったと述懐しています。

しかし、本当の悪夢は12月8日でしょう。
ジョンが自宅前で射殺されました。
訃報をマネージャーから聞き、ひどく混乱。ロンドンのスタジオに赴き、ジョージ・マーティンらとレコーディングを続けました。音楽を奏でることで悲しみを振り切るかのように。
事件後、数ヶ月の間は極度のショック状態に陥り、ひたすらスタジオでのレコーディングに専念しました。
ジョンの死後に初めてリリースした『タッグ・オブ・フォー』と、次の『パイプス・オブ・ピース』は、アルバムとして初めて、社会的メッセージをストレートに表現した作品になりました。
ポールは「声をあげろ!というジョンのささやきが聞こえてきたんだ」と語り、この後も積極的にチャリティ活動への取り組み、社会に訴えかけるメッセージソング制作に力を注ぐようになります。

本格的ソロ活動と数々のコラボ

(Public Domain /‘Beatles and George Martin in studio 1966’ by Capitol Records. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1970年代は意識的にビートルズから離れようという思いで活動してきましたが、ソロ・アーティストとして再出発したとき、プロデューサーとして迎えたのはジョージ・マーティンでした。ビートルズ時代のプロデューサーと本格的に組むということは、ようやくビートルズ時代の自分を受け入れる余裕ができたということでしょう。
ジョージ・マーティンとの仕事を通じて「世界一のプロデューサー」だと再認識。大きく満足したそうです。
そしてこのスタジオ・ワークではリンゴ・スターとも共演。リンゴのウェディング・パーティーにはジョージ・ハリスンとともに駆けつけ、ビートルズ時代の色々なトラブルを乗り越えて、三人揃ってセッションを楽しみました。
スティービー・ワンダー、カール・パーキンスなどともコラボレーションを果たし、自由な創作活動をします。

果てはマイケル・ジャクソンとも共作・共演しました。特にマイケルが作った『ガール・イズ・マイン』での共演が収録されたアルバム『スリラー』は、史上最も売れたアルバムとなりました。
エリック・スチュワートとの共作、ヒュー・パジャムとの共同プロデュースを経てエルビス・コステロともコラボ。コステロはポールを前にしてもお世辞どころか遠慮もなく、アイディアが気に入らなければ「クズ」だと言い放ち、指図までしてきたといいます。しかしポールにとってそれは新鮮。ジョン・レノンとの関係を思い出させるものだったとのことで、二人の友情は続いているそうですよ。

リンダの死、再婚での痛手

(Public Domain /‘Linda McCartney 1976’ by Capitol Records.. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

動物愛護や菜食主義など、彼に大きな影響を与え、ビートルズ解散後も共に歩んだ妻・リンダ。人生の全てを分かち合う、理想の夫婦と見られた二人に別れの日が来ます。1995年、リンダの乳ガンが報じられたのです。
1998年4月17日早朝、リンダはポールと子供たちに見守られて永遠の眠りにつきました。
ポールからリンダへの愛に溢れた追悼文には「30年間彼女の恋人であったことを、私は誇りに思います」とあります。
リンダが56歳で亡くなったあと、ポールは二度結婚しました。

二番目の妻となったのが、ヘザー・ミルズ。彼の26歳年下。交通事故で左足のヒザから下を失った義足のモデルで、環境問題や地雷撲滅運動の活動家です。
しかし、ヘザーとの交際が報じられはじめた頃、アメリカのタブロイド紙はヘザーの初婚相手のインタビュー記事を掲載、こんな発言がありました。
「急いで逃げるべきだよ、ポール!君の新しい恋人は、君の壊れやすいハートを打ち砕いてしまうよ。彼女が僕を打ち砕いたようにね」。
事態はその通りになり、二人の間には結婚から二年後に不仲説が流れ、その後結婚生活が破局したことを発表。離婚の手続きがとられました。
その後の離婚裁判は揉めに揉め、正式に成立するまで二年近くかかることに。特に慰謝料で揉め、ようやく裁判は決着。ヘザーは多額の慰謝料、資産を受け取ることになりました。これにはさすがのポールも参ってしまったでしょう。

69歳のポールが三番目の妻に選んだのは、ナンシー・シェベル。運送会社の副社長で、ニューヨーク都市交通局の役員を務める資産家です。二人は問題なく愛に溢れる生活を送っているようです。

70歳を越えてもワールドツアー

21世紀に入った今でもポール・マッカートニーは、大規模なワールドツアーを行っています。ロンドンオリンピックの開会式では、大観衆を前に『ヘイ・ジュード』を披露しました。
数十年にわたる菜食主義、華麗な恋愛遍歴など、多大なエネルギーをもって「ロック界の超人」として君臨する理由は様々挙げられますが、何といっても大きいのは音楽への愛。「たとえ、誰も僕の曲をアルバムに録音する気がなくなったとしても、それでも僕は歌を書き続けるよ」と語っています。
これからも「生ける伝説」、そして今でも新作を意欲的に発表する「永遠のチャレンジャー」として、ポール・マッカートニーの輝きは失われないでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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