ジャン=ミシェル・バスキア:スプレー・ペインティングの天才

ジャン=ミシェル・バスキアはニューヨーク、ブルックリンに生まれた、グラフィティ・アートをモチーフとして作品を制作したアーティスト。彼の人生は27年という短い生涯であったものの、スプレー・ペインティングでアメリカを代表する作品を残しました。

ジャン=ミシェル・バスキアとは

ジャン=ミシェル・バスキアは1960年ニューヨークに生まれました。父ジェラルドはハイチのポルトープランス生まれ、母マチルダはニューヨーク、ブルックリン出身でした。
母は教育熱心でアートを好んでおり、バスキアは幼い頃から絵を描くように薦められていました。彼は美術館によく連れていかれ、ブルックリン美術館の会員になるほどでした。そんな母の熱意を受けて成長し、4歳までに読み書きを覚え、芸術の才能も示すようになります。彼の芸術的才能は学校の教師たちも知るところとなり、1967年には芸術専門の私立校であるニューヨークのセント・アンズ学校に入学、正規の美術教育を受けることになります。

バスキアが13歳になる頃、母は精神を病み入院してしまいます。母の不在が彼に与えたショックは大きく、15歳の時に家出、ニューヨーク、マンハッタンのトンプキンス・スクエアのベンチで寝ながら日々を過ごしていました。その後逮捕され父親の下に連れ戻されますが、高等学校をドロップアウトした折に父親から追い出されてしまったため、友人たちと自立生活を送ることになります。

グラフィティ・アート

こうしてホームレスになってしまったわけですが、彼の表現したいという活力はふつふつとみなぎっており、1976年には友人のアル・ディアスと「SAMO」というユニットを結成。グラフィティ・アートの作品を描くようになります。

ここでグラフィティ・アートについて確認しておきましょう。グラフィティとはエアロゾール・アートとも呼ばれるストリートアートの一つで、スプレーやフェルトペンなどを使い、壁などに描かれた落書きのことを指します。1970年代にニューヨークから始まり、1980年代にはグラフィティ・アートが新しいアートとして評価されるようになっていきました。

一見して落書きに見えるグラフィティ・アートですが、すでに描かれたグラフィティ・アートの上に作品を描く場合はより完成度の高い図案を作らなくてはならない他、描く対象となるのは公共施設や交通機関で個人宅などに描くのは厳禁といった暗黙のルールが存在しています。粗雑に見えるグラフィティ・アートですが、こうしたルールがあったために芸術性が高まっていったといわれています。グラフィティ・アートはバスキアやキース・ヘリングをはじめとした先駆者たちによって紹介されたのち、広く世界に広まっていきました。

アーティストとしての台頭

バスキアは政治的かつ詩的なグラフィティ・アートを制作する描き手として、徐々に名前を知られるようになっていきます。昼の時間は倉庫で働き、夜は近隣の建物にグラフィティ・アートを描いて過ごすという日々を送っていました。その倉庫を運営する会社の社長であったハーベイ・ラッサックは偶然グラフィティ・アートを描いている彼に出会い、制作を依頼するようになりました。

その後はバンド活動を行ったり、映画やミュージックビデオに出演したりと多様な表現活動を行います。特にプラスになったのは、アンディ・ウォーホルと出会ったこと。1980年にレストランで2人は出会い、バスキアはウォーホルに自身の作品のサンプルをプレゼントします。その作品の精度に驚いたウォーホルは彼と交流を深め、のちにコラボレーションを行う仲になりました。

1982年にはアニーナ・ノセイ・ギャラリーで個展を開催。「アート・フォーラム」でバスキアの作品が紹介されると、世界的な注目を集めるようになります。

バスキアの作品

ここまでバスキアの生い立ちとアーティストとしてのはじまりについて確認してきましたが、彼の作品とはどのようなものだったのでしょうか。

《オランピアのメイド》1982年

エドゥアール・マネが1863年に描いた《オランピア》からインスピレーションを受けた作品。マネの《オランピア》は裸体の女性が横たわり、そこに黒人のメイドが花束を持ってきているという作品です。現実に生きる裸体の女性を描くことはもちろん、娼婦を描いた作品であることからも大きな議論を巻き起こしました。

《オランピアのメイド》はそんな黒人のメイドに主眼を置き、多色に彩られた作品の真ん中にその黒人女性のメイドを配置、周りを木枠で囲った作品です。アフリカをルーツとするバスキアにとって、娼婦の女性よりも黒人のメイドのほうがテーマになりえたのでしょう。この作品を通してアフリカの過去の歴史を反芻しているのではないかとも言われています。

絵画の中には「FEET」、「100/49」、「27.」といった文字が描かれていますが、これはどのような意味を持つのか定かではりません。この作品のようにバスキアは単語や熟語、数字、絵文字、ロゴなどさまざまなテキストや数字、記号を作品に織り交ぜています。

《Untitled》1981年

2017年クリスティーズのオークションにておよそ1億1000万ドル(日本円にして約123億円)で落札された作品。この金額はアメリカ人アーティストの作品としては史上最高額であり、日本人経営者が落札したことでも話題になりました。

青と白の背景に黒で荒々しい感情をみせる顔が描かれており、その顔の中にも青、赤、黄色とさまざまな色が織り込まれています。その上には「〇」や「×」のようないくつかの記号が描かれており、バスキアらしい特徴のある作品となっています。

誰を描いた肖像画なのか定かではありませんが、彼は人種差別や歴史的な出来事に対する批判などをテーマとすることが多く、そんななかで育まれた不安や激しい感情を描いたものではないかと考えられます。

おわりに

バスキアはアーティストとして成功をおさめ、グラフィティ・アートを描く若手アーティストのひとりとしてそれからも制作活動を行っていくかと思われました。しかし徐々にヘロイン中毒の症状をみせるようになり、友人関係は破綻、心身共に憔悴していきました。

1987年にコラボレーション作品を制作していたアンディ・ウォーホルが亡くなるとより一層孤独に過ごすようになり、ヘロイン中毒も悪化、鬱状態も見られるようになります。ハワイのマウイに旅行していた際には多少の回復を見せますが、1988年8月12日にマンハッタンのノーホー地区、グレート・ジョーンズ・ストリートにあるスタジオでヘロインのオーバードーズが原因で27歳の生涯に幕を閉じました。

彼の作品には常に人種差別や孤独、不安や怒りといったさまざまな不安や感情が表現されています。そんな孤独と戦った日々が、グラフティ・アートを次の新しいアートへと導いていったのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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