イサム・ノグチ:「あかり」シリーズの魅力

イサム・ノグチはアメリカ合衆国ロサンゼルスに生まれた日系アメリカ人の彫刻家。父親が日本人、母がアメリカ人で、作品の随所にはアメリカのモダンアートと日本の伝統を感じ取ることができます。

イサム・ノグチとは

(Public Domain /‘Isamu Noguchi’by Unknown author. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

イサム・ノグチは1904年、アメリカ合衆国ロサンゼルスに生まれました。父親は愛知県生まれの日本の詩人で大学教授でもあった野口米次郎、母親はアメリカ人の作家で教師のレオニー・ギルモアでした。彼は私生児として母親とともに暮らし、生涯にわたり父親の不在という孤独感に悩まされることとなります。

1907年にはすでに日本に帰国していた父と同居するため、母と来日します。しかし3人での生活は続くことなく、結局は母子家庭となってしまいます。神奈川県の茅ヶ崎に転居し地元の小学校に通ったのち、横浜のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ転入。この頃茅ケ崎の自宅の新築設計を手伝ったり、指物師の見習い修行を行ったりと芸術や工芸に対する学びを深めていきました。

インターナショナル・スクールに通っていたものの、ハーフであったためいじめをうけ、常に孤独感に苛まれていました。そんな彼の様子を見た母はアメリカの全寮制学校への進学を進め、13歳で単身渡米することになります。インディアナ州ローリング・プレーリーのインターラーケン校に7月入学しますが、8月には学校が経営上の問題から閉鎖してしまいます。

またも居場所をなくしてしまいますが、1カ月の学校生活の間に木彫りの技術が評価されており、その技術力に注目したエドワード・A・ラムリーの援助もあって転入したラ・ポート高校をトップの成績で卒業します。

1922年にはニューヨークへ移り、コロンビア大学医学部に入学。アメリカへと帰ってきた母と暮らすようになります。昼間は医学の勉強をしつつも、アーティストになりたいという強い願望を抱き続けていた彼はレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間の彫刻クラスに通い始めました。この学校でも彫刻の技術を高く評価され、「ミケランジェロの再来」と称賛されます。入学3カ月目には個展を開いたことで自信がつき、彫刻家として生きることを決意します。

その後グッゲンハイム奨学金を経てパリへ留学。ブランクーシの助手をしながら夜間の美術学校に通いますが、奨学金の延長が認められず、ニューヨークに戻ります。この間に作品を売却したお金で東洋への旅に出て、父と13年ぶりの再会を果たします。父とわかりあうことはできなかったものの、京都を訪れ、改めて日本の美を感じ取って帰国します。

日本での滞在で四季の移り変わりや禅の精神といった日本の美学を学びますが、第二次世界大戦が勃発すると在米日系人の強制収容が行われたアリゾナ州の日系人強制収容所に抑留されてしまいます。これは自ら望んだものでしたが、アメリカと日本のハーフであることからスパイではないかという噂がたち、またしても日本人としてもアメリカ人としても受け入れられない孤独に直面してしまうのです。結果的にフランク・ロイド・ライトをはじめとした芸術家仲間の嘆願書により出所し、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構え、制作活動を再開していきました。

デザイナーとして

1947年ハーマンミラー社でデザイン部長を務めていたジョージ・ネルソンの依頼で、テーブルをデザインする仕事を請け負います。このテーブルはのちに「ノグチ・テーブル」と名付けられ、インテリアデザインの仕事に着手するきっかけとなりました。また1951年には提灯の老舗メーカー「オゼキ」から照明器具のデザインの依頼を受け、「あかり(Akari)」シリーズを制作していくことになります。

彼のインテリアデザインは今なお多くの人々に愛され続けており、現在も人気の高いインテリア・アイテムのひとつとなっています。

イサム・ノグチのインテリア

このようにインテリア・デザインの仕事にも取り組むようになったノグチですが、その制作の背景はどのようなものだったのでしょうか。

《ノグチ・テーブル》

1939年にニューヨーク近代美術館の館長であったA・コンガ・グッドイヤーのためにローズウッドで制作したテーブルをベースとしています。このインテリア・デザインはどのように生み出されたのでしょうか。

第二次世界大戦が終結するとアメリカは自国が戦場とならなかったこともあり、世界経済の半分をにぎる強豪国となります。戦時中に軍事開発によって生み出された数々の技術が民間に渡り、それをもとにあたらしい家具やインテリアデザインが生み出されていきました。当時流行したインテリアのことを「ミッドセンチュリー」といい、戦争が終わり開放感のある時代を表すように、ポップなカラーや曲線を多用したデザインが特徴的です。

この作品は、テーブルそのものの柔らかい曲線やガラスのユニークな形が表現されており、まさにミッドセンチュリーを代表する作品といえるでしょう。また脚の部分は二つのパーツを組み合わせることでバランスを取っており、そのアイデアにはどこか指物師の修業時代の経験が影響しているようにも思えます。

《あかり》シリーズ

和紙からこぼれる柔らかな光が魅力的なシリーズ。1951年、平和公園に二つの橋を作る依頼を受け広島へ行くさなか、長良川の鵜飼いを見物するために岐阜に立ち寄ったことがきっかけで始まりました。

(Public Domain /‘Ja-isamunoguchi-akari1’by Fluffy nns. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そこで岐阜の名産品であった「岐阜提灯」に興味を持ち、尾関次七商店の提灯工場を見学、制作工程や材料を学び新しいインテリアデザインに活かそうと試みます。尾関次七商店では彼のデザインをもとに4点の試作品が制作され、その出来栄えに満足し、再度岐阜に足を運び、楕円形や円筒形などさまざまな形の提灯を制作しました。

《あかり》シリーズのユニークなところはスタンドや金具の構造を工夫することで、小さく折りたたんでコンパクトに収納できるという点。日本では布団や押し入れなど折りたたむことでうまく収納するという文化があり、その文化を活かしたこのシリーズは欧米で驚きをもって受け止められました。

ノグチは35年もの年月の間制作し続け、新しい形に取り組んでいきました。その総数はなんと200種類にものぼります。提灯ではなく「光の芸術」と考えられており、また日本の要素を取り入れたことは、父の母国としての憧れと複雑な思いを抱き続けていた彼とって、ひとつのブレイクスルーになったのかもしれません。

おわりに

イサム・ノグチはその後もさまざまな仕事に取り組み、日本万国博覧会の噴水作品やIBMに設置する2つの庭園を設計するなど、大掛かりなプロジェクトにも積極的に取り組んでいきました。そして1988年12月30日、心不全によりニューヨーク大学病院で84歳の生涯に幕を閉じることとなります。

彼の人生は日本人とアメリカ人のハーフとして生まれたことにより、常に孤独感と戦う日々でした。しかしその孤独と向き合い続けたからこそ《あかり》シリーズのような素晴らしいインテリアデザインが生み出されたのでしょう。《あかり》シリーズはいまもなお愛好家が多く、暖かい光を人々に届け続けています。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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