トールキン : 言語と想像力

J.R.Rトールキン(1892〜1973)はイギリスの作家、文献学者です。彼の創造したファンタジーの世界は今や一つのスタンダートとなっており、その設定は小説やゲームの土台として繰り返し用いられています。トールキン作品の特徴として、魅力的な架空言語が挙げられます。なぜ架空言語は魅力的なのか、また作品に対してどんな意味を持っていたのか。この点に迫っていきましょう。

◇ 架空言語の達人トールキン

(Public Domain /‘J. R. R. Tolkien’ by Unknown author. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

J.R.Rトールキンは、20世紀最大のファンタジー作家の一人。現代の私たちには、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作者という言い方が一番ぴんとくるかもしれません。この映画は全3部作品で、一本の長さは約3時間。合計で9時間以上という、それまでの映画の常識を覆した超大作映画です。もちろん優れている点は上映時間だけではありません。美しく雄大な映像、魔法や怪物をありありと描写する技術力、エルフやドワーフ、ホビットなどのバラエティに富んだ魅力的な種族たち。彼の想像した「中つ国」の世界を、その想像力に劣らぬ力で映像化した不朽の名作です。
映画を見た方なら分かると思いますが、『ロード・オブ・ザ・リング』の世界には数々の架空言語が登場します。元々、映画自体も主人公フロドが執筆した作品を、トールキンが英語に翻訳したという設定です(設定という言葉を使うのは不粋ですが)。架空言語が登場する小説や映画は珍しくありませんが、トールキン作品の場合、その完成度は群を抜いています。文法的な精緻さはもちろん、「ミスランディア」、「ガラドリエル」、「ヴァラール」など言葉の一つ一つが、意味が分からなくとも人を惹きつける美しい響きを持っており、熱狂的なファンの中には架空言語の一つであるエルフ語で会話出来る人さえいるほどです。
なぜ、彼の作品の架空言語は実在するかのように完成度が高く、魅力的な響きを持っているのでしょうか。その秘密はキャリアにあります。トールキンは類稀な想像力を持った作家であると共に、優れた文献学者でもあったのです。また、若い頃の第一目標は物語の創作ではなく、架空言語の創造でした。実際、その生産的な生涯において20以上の言語を創造しています。言語は単なる物語の瑣末な一部でなく、むしろ言語が物語を形作ると考えていて、手紙の中で「名前が先にあり、物語は後からついてくる」とさえ語っています。彼がこのように語る意味とは、一体何なのでしょうか。

◇ 一つの言語はどうやって生まれる?

言語研究というジャンルは幅広く、とても一筋縄で把握出来るものではありませんが、ここでは紀元前4世紀の哲学者プラトンの言語研究を参考にしてみましょう。プラトンは対話篇『クラテュロス』の中で語源探求を行い、一つの単語がどのようにして生まれてくるのか論じています。例えば「r」(ロー)というギリシャ語のアルファベットは、「Rhein」(レイン/流れる)など、主に動いているものを表す場合に使われると言います。「r」(ロー)は巻き舌で発音され常に舌が動くため、動くものを模倣し、動きを表す際に用いられるのだという考えです。そうして生まれた表現に周囲の人間が同意することによって、言語が形作られていくと言います。
さて、こうした見地から言語を見てみると何が分かるでしょうか。世界には様々な言語があり、一つの事柄をどんな言葉で表現するかも当然異なります。例えば、上述のようにプラトンの時代のギリシャ語では「流れる」は「Rhein」(レイン)ですが、現代英語では「Flow(フロー)」と表現します。同じ事柄を異なった単語で表現することは、その事柄をどのようなものとしてみるか、またどのように表現するかが文化によって異なっているからです。つまり、一つの言葉にはその文化圏の人間の思考や感性が反映されています。これは、文法構造などに至っても同様です。そのように考える場合、一つの言語の背後にはそれを作った民族が生きてきた歴史があるということになるのです。逆に言えば、本当の言葉を作ることは、その背後の人々の歴史を作ることを意味します。トールキンが言った、創作において「名前に物語が付随する」とはそうした意味です。若い頃から言葉に魅了されていた彼は、設定や物語に言葉を付随させるのでなく、言葉から全てを想像していくという特異な創作方法を取ったのです。

◇ 言葉に根ざすトールキンの無限の想像力

そんな変わった方法で上手くいくのだろうかと思われるかもしれません。確かに、並みの書き手なら難しいでしょうが、トールキンの場合は違います。彼の作品『ロード・オブ・ザ・リング』には、ホビットという種族が登場します。身長は120センチ足らずで、牧歌的でのびのびとした暮らしを好む、平和的な種族です。映画版ではイライジャ・ウッドらが演じています。このホビットがどのように誕生したかは有名な話です。
オックスフォード大学にアングロ・サクソン語の教授として勤めていたトールキンは、ある夏の日、自宅で試験の採点を行っていました。そこで、受験生が白紙で提出した答案を見つけます。彼はそれに、なんとなく「地面の穴の中に一人のホビットが住んでいた」と書いてみたのです。これが全ての始まりでした。この時点で彼は、ホビットのことを何も知りません。ふと思いついたホビットという一つの名前、一つの言葉の響きから、彼らの姿形、食生活、歴史に至るまで全てを創造したのです。小柄で陽気な愛すべき種族ホビットは、このようにして生まれました。これには、文献学者として語源探求に携わってきたキャリアが存分に活かされています。本物の語源探求に通じていたからこそ、いい加減ではない説得力のある言葉の響きや、その背後にある歴史を想像出来たのです。
トールキンのそうした想像力は、とどまることを知りません。『ロード・オブ・ザ・リング』の「中つ国」には、実に神話の時代まで遡る数万年もの歴史があります。民族間で古来より受け継がれるような創世の物語を、たった一人で作り上げてしまったのです。そしてそれらは全て言葉から始まっています。

◇ 言葉から生まれた遠大な世界

彼にとって何より魅力的だったのは言語であり、一つ一つの言葉は、その背後にある人々の歴史や営みへの入り口でした。トールキン作品を批判する声は今でこそほとんどありませんが、当初彼の言語観は必ずしも理解されず、中には否定的な声もありました。現代でもトールキン作品が苦手な方はいて、「長すぎる」「重厚すぎる」という声もしばしば聞かれます。あまりネガティブなことは書きたくありませんが、確かに彼の作品、特に『ロード・オブ・ザ・リング』などの長編は手軽に読めるものではありません。主人公フロドが冒険に旅立つまででも、1冊の本に出来るくらいの分量があります。その上、比較的地味で平坦なパートも多いため、派手に魔法やドラゴンが飛び交い、ハラハラドキドキしっぱなしのファンタジーを求めている方にはイマイチぴんと来ないのも理解出来ます。しかしながら、トールキンの重厚な作風は今まで紹介してきたように、彼の研究者としての視点と言語観に根ざしています。本当の言葉から生じる物語、人々の着実な歴史と営みは、そこまで軽々しいものではないのです。苦手な方も少し我慢して読み進めれば、その豊かな世界、魅力的な架空言語の虜になるはずです。よろしければ皆さんもぜひ、トールキンの言語世界を体験してみて下さい。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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