ランナウェイズ:ガールズ・ハード・ロックの先駆け

1975年にカリフォルニアで産声を上げた、世界初の女性だけのハード・ロック・バンド、ランナウェイズ。商業的な大成功を収めたわけではありませんが、彼女たちが音楽シーンに残した足跡はとても大きなものだったのです。

ランナウェイズ結成

カリフォルニアの太陽のもと、海とサーフィンをこよなく愛する女の子がロックに目覚めたのは、9歳の時に祖父から買ってもらったドラムセットがきっかけでした。
ランナウェイズのドラムを担当し、結成の中心的役割を果たしたサンディ・ウエスト。15歳の時にはすでに地元のバンドで演奏しており、女性だけのロック・バンドを作るという明確な目標を持っていたようです。
しかし、当時のミュージックシーンにおいてシンガーとしての女性は需要がありましたが、プレイヤーとしてはあまり必要とされていませんでした。それでも、フォークやカントリーといったジャンルではアコースティック・ギターやキーボードを演奏することもあった一方、エレキギターやドラムを女性が演奏するケースは皆無と言えました。
サンディは自身のスキルを磨き、少しでもネームバリューを広げるため、地元のバンドで活動を続けます。
クラブやライブ・ハウスでの演奏によって交友関係の広い業界関係者にコネを作り、カリフォルニア中のガールズ・プレイヤーを探していきます。
そんな中、音楽プロデューサーのキム・フォーリーと知り合います。彼は当初サンディの話に乗り気ではありませんでしたが、1人のギタリストを紹介しました。
ロスのハイスクール時代から独特な声質とギター・ワークで評判だった、ジョーン・ジェットです。サンディと会い意気投合、自身の書いたオリジナルを提供し、新しいバンドをスタートさせるのです。

※画像はイメージです。

ギターにジョーン、ドラムにサンディ、そしてベース・ボーカルにミッキ・スティールというメンバーで改めてキムの前で演奏したところ、彼はバンドの可能性を感じ始め、彼女たちをガールズ・バンドとして売り出すことに決めます。
キムはバンドのサウンドをより厚いものにするため、もう一人のギタリスト、リタ・フォードを紹介。
当時から力強いギターを弾いていたリタはすぐにバンドを気に入り、ジョーンとのツイン・ギターを担当することになります。
その頃のバンドは、ベースのミッキとギターのジョーンがボーカルを担当していましたが、完全なフロントマンが必要と考えたキムは、最後のピースとしてシェリー・カーリをスカウトします。
当時、シェリーはまだ15歳でデヴィット・ボウイが好きなごく普通の女の子でした。ただルックスが良く、一卵性双生児の双子の姉がいたこともあり、学校では少し浮いた存在だったこともたしかだったようです。
家庭環境にはあまり恵まれておらず、両親は不仲で留守にすることが多かったため、地元のクラブに入り浸っていたところをキムにスカウトされたわけです。シェリーがバンドに加わり、ついにサンディの夢はランナウェイズという形で現実のものとなります。
その後、バンドはベースにジャッキー・フォックスを迎え、1976年マーキュリー・レコードからファースト・アルバム「The Runaways」をリリースし、デビューを飾ります。

Cherry Bombのヒット

ファースト・アルバムからのシングル・カット「Cherry Bomb」はビルボードでは106位と健闘しますが、アルバム自体は194位。成功とは言えませんでした。
ところが、「Cherry Bomb」はアジアやヨーロッパで高い評価を得ます。特に日本ではクイーンやキッスに並ぶほどの人気を獲得し、チャートの10位に入る大ヒットを記録したのです。

実は、「Cherry Bomb」はシェリーがランナウェイズのオーディションを受けた時に披露できる曲がなかったため、その場でショーンが作ったものでした。即興で作ったにも関わらず、テンポがよくシェリーの高い声質にもマッチしていたため、そのままラインナップに加えたのです。

相次ぐメンバーの脱退~解散へ

スマッシュ・ヒットこそ恵まれませんでしたが、コンスタントにアルバムをリリースし、精力的にツアーも行っていました。しかし、当時の男性中心のロック・シーンにおいて、彼女たちのストレスは相当なものがあったようです。

1977年、異常とも言える狂乱ぶりで迎えられた日本公演の最中、ベースのジャッキー・フォックスが脱退を表明。さらに帰国後、普通の生活に戻りたいと主張するシェリーがバンドを去り、ランナウェイズは最大のピンチを迎えることになるのです。
艶やかな衣装と過激なステージングでバンドを牽引してきたシェリーの脱退は大きな衝撃を与えましたが、ジョーンがベース・ボーカルとして専任することでツアーを継続させます。
また、以前から不仲が伝えられていたマネージャーのキムとの契約も解消しました。そして、ブロンディやスージー・クワトロといったガールズ・ミュージシャンのプロデュースに定評のあるトビー・マミズと新たに契約を結びます。
しかし、ヨーロッパツアーを終えたメンバーはロンドンでドラックとアルコールに依存する生活を送り、次第にメンバー間の結束も弱まっていってしまいます。
1979年、パンキッシュな方向にバンドの可能性を見出したいジョーン・ジェットと、リッチー・ブラックモアのようなハード・ロック路線を極めたいリタの間で意見が分かれ、ランナウェイズはわずか4年の歴史に幕を下ろすことになります。

その後の活躍

平均年齢16歳の少女たちが、男性社会の象徴とも言えるロック・シーンに向かっていったランナウェイズ。わずか4年の活動歴ですが、女性がロック・シーンで活躍する下地を作ったという点では大いに評価されます。
ランナウェイズに参加したメンバーは解散後もそれぞれ活躍し、音楽シーンに少なからず影響を残しています。
彼女たちの中で最大の成功者と言えば、ジョーン・ジェット&ザ・ブラック・ハーツを率いて活躍したジョーン・ジェットでしょう。
ジ・アロウズのヒット曲「I Love Rock ‘n’ Roll」のカバーを収録したセカンド・アルバムは、全米2位を記録。シングル・カットもされた同曲は、ビルボードで7週連続1位にチャートインする大ヒットとなったのです。
その後も「Album」が全米20位、「Up your Alley」が19位を記録し、チャートの常連になったジョーンは、スクリーン・デビューも果たします。
マイケル・J・フォックス主演の「Light of Day」を皮切りに、舞台やテレビドラマなど女優としても精力的に活動し、メディアから高評価を受けました。
また、2015年には「ジョーン・ジェット&ザ・ブラック・ハーツ」としてロックの殿堂入りを果たしています。
もうひとりのギタリスト、リタ・フォードはさらにギター・テクニックに磨きをかけ、ヘヴィ・メタル・ミュージシャンとして活動します。
ソロとしての2枚目のアルバムは全米66位と大健闘します。その後リリースされた「LITA」からシングル・カットされた、ヘヴィ・メタルの帝王、オジー・オズボーンとのデュエット曲「Close My Eyes Forever」は全米10位の大ヒット。さらに「Kiss Me Deadly」も12位にランクインとリタのキャリアの中で最大のヒット・アルバムとなったのです。
その後、W・A・S・Pのギタリスト、クリス・ホームズと結婚しますがほどなくして離婚。声でワイングラスを割るパフォーマンスで有名なナイトロのボーカル、ジム・ジレットと再婚し、2人の子供をもうけますが2011年には離婚しています。
ランナウェイズで強烈な印象を残したシェリーですが、脱退後すぐにソロ・アルバムを発表しています。
双子の姉であるマリー・カーリーとのデュエット・アルバムもリリースするなどして活動を続けますが、セールスには結びつかなかったようです。
とくに、「Messin’with the Boys」はマリーの結婚相手がスティーヴ・ルカサーだったこともあり、TOTOのメンバーの全面的なサポートを受けた強力なアルバムでしたが、メディアからの評価は芳しいものではありませんでした。
その後彼女は女優業に転身し、ジョディ・フォスターやデミ・ムーアといったハリウッドの有名女優とも共演を果たしています。

ランナウェイズの再結成

残念ながらランナウェイズの創始者であるサンディは、2006年に病でこの世を去ってしまいました。ランナウェイズの解散という現実を唯一受け入れることができなかった彼女は、音楽業界で活動することも叶わず、アルバイトなどで生計を維持しなければならなかったと後のインタビューで語っています。
ジョーン、シェリーはサンディを失ったことに対するコメントの中で、サンディなしではランナウェイズとして2度とステージに立つことはできないと明言しています。
しかし2013年、37年ぶりにシェリーとリタがライブで共演し、ランナウェイズ時代のヒット曲「Cherry Bomb」を演奏するなど明るいニュースも入っています。
リユニオンが盛んに行われる現代。ランナウェイズにもひょっとしたらニュー・アルバムの話があるかもしれませんね。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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