フレディ・マーキュリー:不世出の天才!世界を震わせたボーカリスト

フレディ・マーキュリー、本名ファルーク・バルサラは、クイーンのフロント・マン。4オクターブを超える声域と圧倒的な歌唱力、そして素晴らしいコンポーザーとして、世界でもっとも成功したと言われるボーカリストです。

少年時代

当時、多くのミュージシャンがイギリスやアメリカで育っていたのと違い、フレディが幼少期を過ごしたのはインドでした。生まれたのは、インド洋に浮かぶ南北80km程度の小さな島・ザンジバル島で、8歳になるとマハーラーシュトラ州にある全寮制の学校に入学します。
7歳からピアノを習っていた彼は友人たちとバンドを組み、早くもミュージシャンとしての才能を発揮し始めるのです。
当時多くのミュージシャンがチャック・ベリーやエルヴィス・プレスリーに憧れたのとは別に、フレディはインドの映画音楽から大きな影響を受けていきます。
中学生になる頃には、バンド仲間の間でも絶対音感の持ち主として知られるようになります。ラジオで聞いた曲をすぐにピアノで演奏できるほどの才能の持ち主だったようです。
17歳になるとザンジバル島に戻り、再び家族と同居し始めます。しかし、翌年ジョン・オケロによる武装クーデター、通称ザンジバル革命が起き、一家は安全を考慮して島を脱出。イギリスに移住します。
この革命では10000人〜15000人とも言われる犠牲者が出ており、フレディの人生観に大きな影響を与えたと言われています。
その後、イーリング・アートカレッジでグラフィック・デザインを専攻。ここでクイーンの前身であるスマイルのボーカリスト、ティム・スタッフェルと知り合います。
ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ティム・スタッフェルによるスマイルというバンドは、シングル1枚を発表するものの全く売れず、ティムが脱退。その後を受け継ぐ形でフレディが加入することになったのです。

バンド名のクイーンと中世の紋章を思わせるシンボル・マークは、フレディの発案によるものでした。その後、オーディションを経てジョン・ディーコンを加え、クイーンとしての活動が正式にスタートします。

突出したセンス

クイーンがファースト・アルバムを出す前、すでにフレディはソロ・シングルを発表していました。クイーンのアルバムをレコーディング中、彼の歌唱力に目を付けたロビン・ジェフリー・ケーブルが、「Be my Baby」のヒットなどで知られるザ・ロネッツの「I can hear music」をカヴァーしたものをリリースさせます。このシングルは、クイーンのデビューを控えていたことからラリー・ルーレックスというペンネームで発表されていたこともあり、商業的には全く成功しませんでした。しかし、この作品にはブライアンとロジャーも参加しており、特に後半のギターソロでは早くもブライアンの非凡な才能を感じることができます。
そして、ファースト・アルバム「Queen」がリリースされたのは1973年。結成から2年以上も経過してからのことでした。

クイーンの成功

3rdアルバム「Sheer Heart Attack」は全英チャート2位、全米チャート12位を記録し、一気にクイーンの名を世界に広げます。
続く4枚目のアルバム「A Night at the Opera」の世界的大ヒットにより、トップ・バンドの仲間入りを果たすことになるのです。
「A Night at the Opera」からのシングル・カット「Bohemian Rhapsody」は演奏時間6分と、当時としては長すぎるシングル曲であったにもかかわらず大ヒットを記録。
本国イギリスでは9週連続の1位を獲得し、アメリカでも最高9位を記録しました。
オペラとハード・ロックが見事に融合したこの名曲のルーツこそ、幼少時代にフレディが影響を受けたインドの映画音楽にあったのではないかと言われています。

クイーンに捧げた一生

多くのミュージシャンが成功と同時にバンドを去ったり、ソロ・プロジェクトを計画したりしていますが、フレディは一貫してクイーン一筋で歌い続けてきました。
18年のキャリアの中で、実質的なソロ・アルバムと呼べるものは1枚だけ。イギリスでは6位と健闘したものの、アメリカでは100位内にもランキングされませんでした。
その反面、クイーンにおいては積極的に楽曲を提供しており、とくに3rdアルバム以降は作曲家としての比重がとても大きくなっています。
アメリカでの成功を決定づけた「Jazz」「The Game」からのシングル・カットのほとんどは彼の手によるもので、改めてコンポーザーとしての高い才能が感じられます。

晩年~その後

全世界で2億枚以上のセールスを記録したクイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリー。それでもやはり病には勝てず、1991年にはエイズによる気管支肺炎によって、45歳という若さでその生涯を終えることになります。
エイズを自覚したのは1987年の頃だと言われており、その後病は次第に体を蝕んでいきます。1990年には明らかに外観にも異変が感じられるようになってしまいます。
マッチョなイメージのあった肉体はスーツの中で泳ぐようにやせ細り、目には生気もなく、誰が見ても健康体とは言えませんでした。
フレディの病によるものなのか、アルバム「The Miracle」リリース後のツアーは行われませんでした。そして、間を空けず翌年には「Innuendo」をリリースします。

これはすでに死期を悟った彼が、少しでも多くの作品を残すために精力的にレコーディングを行った結果であり、この時には他のメンバーもフレディの状態を知っていたとのこと。
関係者のプライバシーを配慮し、最後までエイズに罹患していたことを認めませんでしたが、1991年11月23日、自宅前で行われた記者会見で代理人により自身がエイズであることを公表。そして翌24日、クイーン結成20年目という節目の年に永眠することになりました。
フレディ死去のニュースは、またたく間に世界中に知れ渡ります。世界中のチャートにクイーンのアルバムがランクインし、改めてフレディの人気の高さが証明されます。とくに本国イギリスでは、フレディの代表曲とも言える「Bohemian Rhapsody」がチャート1位を獲得。これは同一曲が2度に渡って1位を獲得した史上初の楽曲となったのです。

翌年、フレディ・マーキュリーの追悼コンサートを行ったあとも残ったメンバーはクイーンとしての活動を継続します。残された音源やフレディのソロ楽曲をリテイクし、1995年には「Made in Heaven」をリリース。その後も、さまざまなミュージシャンとセッションを重ねますが、ベースのジョン・ディーコンは音楽シーンから引退、現在はブライアンとロジャーの2人が中心となり活動を続けています。

フレディのおすすめアルバム

フレディのおすすめアルバムとなると、やはりクイーンから選ぶのが一番でしょう。
世界的な大ヒットを記録した「Bohemian Rhapsody」が収録された「A Night at the Opera」は外せません。このアルバムには、印税の取り分でバンドともめていた元マネージャーを批判した「Death on two Legs」、最後までステージでハイライトをつとめた珠玉のバラード「Love of my Life」など5曲が収録されています。

「Crazy Little Thing Called Love」、「Another One Bites The Dust」といった全米No1シングルを輩出した「The Game」もおすすめです。それまでは、どちらかと言えばオーバーアレンジとも捉えられていた荘厳なアプローチから一転、もっとも長い曲でも4分33秒とコンパクトにまとめられた楽曲を中心に構成されています。
シンプルなアレンジの中にもしっかりとクイーンらしさを残したこのアルバムは、ビルボードを始めカナダやイギリス、オランダなどでも1位を記録する大ヒット・アルバムになりました。
さらに、フレディの死の前後にリリースされている2枚のアルバムも捨てがたい魅力があります。遺作となった「Innuendo」は、アメリカ的なアレンジが目立った中期以降のクイーンの楽曲から初期のヨーロッパ的なアレンジに回帰したような作風が特徴で、古い時代のクイーンが好きなファンならばぜひ聴いてほしい1枚と言えます。
また、フレディの死後4年経ってリリースされた「Made in Heaven」は、死期を悟ったフレディがスイスのスタジオで残しておいた音源や、他のメンバーのソロ・アルバムの作品、今までのスタジオ・テイクにおける未発表音源に新しく音を重ねていくという手法を使って完成されました。
生前、他のメンバーに自分の病を告白したあとこう告げています。

「何でも歌わせてくれ、何でも僕に書いてくれ、そうすれば僕はそれを歌って、できるだけたくさんのものを君たちに残していくことができるから…」

引用:ドキュメンタリーQueen – Champions Of The World

彼のこの想いが結実した「Made in Heaven」はクイーン史上最大のヒット・アルバムになり、全世界で2000万枚以上を売上げ、現在もその数字を伸ばし続けているのです。

Queen Official – YouTube

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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