マネ:フランスに印象派の時代をつくった画家

(Public Domain /‘Close-up photograph of artist Édouard Manet’ by Nadar. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

エドゥアール・マネは1832年フランス生まれの画家。「バティニョール派」のリーダーと呼ばれ、後に印象派と呼ばれる画家たちに大きな影響を与えました。印象派の画家ではないものの、印象派画家たちに時代を用意した人物として知られています。1883年4月30日には、51歳で亡くなりました。

マネの生い立ち・生涯

<幼少期・家族構成>

1832年、パリ(現在のボナパルト通り)で誕生。

マネ家はイル・ド・フランス地域で古くから名高い裕福なブルジョワジーの名家で、父オーギュストは法務省の高級官僚、母ウジェニーはストックホルム駐在の外交官の娘でした。1833年に弟ウジェーヌ、1835年にはギュスターヴが誕生しました。

<少年時代・学生時代>

(Public Domain /‘Édouard Manet’ by Anonymous. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1844年、12歳の時にトリュデール大通りの中学校コレージュ・ロランに入学し、4年間を過ごします。

自分と同じ法律家の道を歩んでほしいという父の意思の一方で、マネは母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉からデッサンなど芸術の基礎を学びます。兄弟3人でルーヴル美術館に足を運ぶなど、次第に芸術の世界に興味を抱くようになりました。この頃から、周囲の子どもたちにはない特殊な芸術性を感じさせる言動をしていたといわれています。

1849年までに、海軍兵学校の入学試験に2回落第。両親は芸術家の道を進むことを許します。

<画家になるために修業した時代>

17歳になったマネは、本格的に画家を目指します。

1849年、アカデミズムの歴史画家トマ・クチュールのアトリエに入り、6年間の修業を積みました。

絵画の基本を学ぶ一方、クチュールのモダニズムから大きな影響を受けますが、伝統的な歴史画からの枠を超えることはありませんでした。そのため、革新的な絵画を目指していた彼は、クチュールのやり方に反発を覚えるようになります。

マネは絵画の学習をアトリエだけで済ませることなく、ルーヴル美術館などのヨーロッパ中の名高い美術館を旅行しながら廻り、模写を続けたといわれています。なかでも特筆すべきは、ルーベンスやティツィアーノといった明るい光の使い方を模写によって学んだという点です。

この時の体験は、独自の光の使い方を生み出すことに大きく影響を与えたとされています。産業革命以降、人々の生活において灯りはますます明るくなっていきました。絵画の中の光がつくる印象こそが、その時代を反映していたともいえるでしょう。

そのほか、ギュスターヴ・クールベやカミーユ・コロー、フランソワ・ドービニー、ヨハン・ヨンキントなどの風景画からも影響を受けたといわれています。

1856年、クチュールのアトリエでの修業を終え、友人たちと共有のアトリエを構えます。

その後も独自に修業を続け、ルーヴル美術館でベラスケス、ルーベンス、ヴェネチア派のティントレットといった明るめの色彩画を模写します。

時にはフィレンツェを訪れ、そこでしか見られない教会の壁画を模写しました。この時の旅行で出会ったベラスケスの絵画に大きな衝撃を受けたといわれています。

<画家として歩みだした頃>

1859年、27歳の時に『アブサンを飲む男』を初めてサロンに出品するも落選。

ただ審査員のなかで唯一、フランスのロマン主義を代表する画家、ウジェーヌ・ドラクロワだけはマネの作品を評価しました。この作品がきっかけで、フランスを代表する詩人シャルル・ボードレールと親交を深めるようになります。

(Public Domain /‘Portrait of M. and Mme. Auguste Manet’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1861年、29歳で『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』がサロンに初入選。

『スペインの歌手』は、当時流行っていたスペインの写実主義的な絵画といわれています。スペインを代表する画家カラヴァッジオやベラスケスの影響を強く感じさせる作品です。

この作品は発表当初全く注目されていませんでしたが、画家テオフィル・ゴーティエに絶賛されたことで、注目の的となりました。このことで、サロンでの成功を期待していたしていた父との約束を果たしたといわれています。

1862年、父が死去。

1863年、31歳の時にマルティネ画廊での個展を開催しました。

(Public Domain /‘Music in the Tuileries’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

個展では、『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示しますが、批評家からは激しい非難を受けました。

同年10月、シュザンヌと結婚します。

<スキャンダルと名声の時代>

1863年、サロンに落選。

(Public Domain /‘Palais de l’Industrie’ by Édouard Baldus. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

この年は、サロンに落選した画家の作品を集めた「落選展」が開催されました。この落選展に、のちに代表作となる『草上の昼食』が展示され、大きなスキャンダルになります。この作品は、今までにない形で裸婦(批評家たちには娼婦と捉えられた)を絵画に登場させたことで、批評家から強く批判されたのです。

1864年、バティニョール大通り34番地に引っ越す。

マネはこの頃から、カフェ・ゲルボワに通うようになります。彼は多くの芸術家や文学者に人気があったため、このカフェには著名人が集まるようになりました。

そのなかには、画家アンリ・ファンタン=ラトゥール、アントワーヌ・ギュメ、版画家マルスラン・デブータン、写真家のナダール、詩人のザカリー・アストリュク、アントナン・プルースト、批評家エドモン・デュランティなどがいたといわれています。

1865年、サロンに『オランピア』を出品し、入選。

しかし、『オランピア』は『草上の昼食』以上に大スキャンダルを起こします。『草上の昼食』同様、娼婦を連想させる作品で、そのうえ娼館を連想させるセッティングであったことが理由といわれています。当時、ブルジョア層のなかで人気のあった娼館を堂々と描き、サロンに出品したのは彼だけでした。そのため、テーマそのものが波紋を呼んでしまったのです。これらのスキャンダルに対して、ボードレールはマネ宛に励ましの手紙を送っています。

この頃、はじめてクロード・モネの存在を知り、モネが自分の名前を真似して売名行為を行っていると思い憤慨したというエピソードが残っています。

<バティニョール派の時代>

1866年、サン=ペテルスブール通りに転居します。

同年、サロンに『笛を吹く少年』を出品するも落選。

これを受け、セザンヌの親友で小説家のエミール・ゾラが『レヴェヌマン』紙で、この『笛を吹く少年』を擁護しました。

(Public Domain /‘View of the 1867 Exposition Universelle’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1867年、パリ万国博覧会で自身の作品が外される事態が起こります。

この決定に反抗を示すため、多額の資金を投じて万博会場の近くにパビリオンを設置。マネの全作品を展示しました。

このことはあまり注目を浴びませんでしたが、彼の作品を見た若手の画家たちは大きな影響を受けました。その頃、すでに画家たちの間では人気者になっていたマネの作品を見ることができる、絶好の機会だったのです。

同年、エミール・ゾラが『レヴェヌマン』紙に寄稿した自分の記事をおこし、小冊子『マネ論』を発表。このなかで、ゾラは彼の作風について以下のように述べています。

多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。[中略] 複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆さばきによって色調の美しい煌めきを作り出せるかどうかということだけだ。

引用:エドゥアール・マネ−Wikipedia

1860年代後半、カフェ・ゲルボワに集まっていた若手の画家たち(後に印象派画家と呼ばれるようになるモネ、ドガ、ピサロ、ルノワール、その他大勢)は総称して「バティニョール派」と呼ばれるようになります。マネは世間から、このグループのリーダーとしてみられるようになりました。

<普仏戦争後の時代>

(Public Domain /‘The Balcony’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1869年、サロンに出品した『バルコニー』『アトリエでの昼食』が入選。

1870年7月、普仏戦争が勃発。

同年11月、国民軍に中尉として入隊。

1871年1月、フランス軍が敗戦。疎開していた画家たちがパリに戻ってくる。

セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエ地区に広大な土地を所有していたマネは、ルノワール、シスレーらとともにモネのアトリエで共同制作をするようになりました。

1872年、有名な画商ポール・デュラン=リュエルが、マネの作品を24点購入。

(Public Domain /‘A Studio at Les Batignolles’ by Henri Fantin-Latour. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1874年、後に『第1回印象派展』と呼ばれた歴史に名高いグループ展を開催。

マネ、モネ、ピサロ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、シスレー、モリゾなど30人の画家が参加しました。

この頃から、印象派たちとの作風の違いが少しずつ顕著になっていきます。

1876年、サロンに出品するも落選。

同年に個展を開き、1日に400人も集客する大成功を収めます。このことは新聞で大々的に報道されました。

<晩年>

1880年頃、ティーンエイジャー時代にブラジルで感染した梅毒が悪化。医師のすすめにより、パリ郊外ベルビューで静養します。

(Public Domain /‘Portrait of Henri Rochefort’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1881年、サロンに出品した『アンリ・ロシュフォールの肖像』が高い評価を受け、銀メダルを獲得。

同年、ナポレオン・ボナパルトによって制定された名誉あるレジオンドヌール勲章を受しました。

この頃、最後の代表作『フォリー・ベルジェールのバー』の制作を開始します。

マネは数多くの浮名を流し、愛人がいたことでも有名でしたが、妻シュザンヌを唯一の相続人に指定しました。

1883年4月20日、梅毒の影響から壊疽が進行し、手術を受けるも4月30日に死去。享年51歳でした。

葬儀には多くの画家や有名人が参列しました。

マネの代表作品(年代順)

(Public Domain /‘The Absinthe Drinker’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

『アブサンを飲む男』(1859)

180.5 x 105.6cm
油彩、キャンバス

初期の代表作品です。ローアンバー色の外套を身にまとい、座ってお酒を飲んでいる紳士が描かれています。この頃はまだ暗い色彩で、モダニズムを感じさせない光を描いていました。スペインやイタリア絵画の巨匠たちに影響を受ける以前の作品といえるでしょう。

(Public Domain /‘The Spanish singer’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

『スペインの歌手』(1860)

147.3 x 114.3cm
油彩、キャンバス

初めてサロンに当選した作品。ベンチにはモダンなスニーカーを履いた男性が座り、愉快にギターを弾いています。光の使い方は非常に明るく、色彩も豊かです。構図的にも、明らかにカラヴァッジオやベラスケスといったスペインの巨匠の影響が感じられる作品です。

(Public Domain /‘The Luncheon on the Grass’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

『草上の昼食』(1863)

207 x 265cm
油彩、キャンバス

当時フランスのアート界で大スキャンダルを巻き起こした作品。代表作品のなかでも特に有名です。森のなかでピクニックをしている男女が描かれており、一見問題のない作品ですが、よく見ると紳士風の男性2人が衣服をしっかりと身にまとっているのに対し、女性ふたりは裸でピクニックに参加している様子が描かれています。

この絵画に描かれている女性は娼婦である可能性が高いとされ、話題になりました。当時そのような絵を描く人が彼以外にいなかったのも事実です。

(Public Domain /‘Olympia’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

『オランピア』(1863)

130 .5x 191cm
油彩、キャンバス

代表作品のなかでも有名な作品のひとつ。『草上の昼食』同様、大きなスキャンダルを起こし話題となった作品です。当時の批評家たちからはタブーであるとして批判されました。こちらの絵にも、娼館にいる娼婦が描かれており、フランスの上流社会の裏の真実を描いています。

一見、ヴィーナスに見える構図であることから、その部分は賞賛に値しますが、娼婦は描かれてはいけない官能美として区別していた、批評家たちへの挑戦であることが見て取れます。

(Public Domain /‘The Fife Player’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

『笛を吹く少年』(1866)

160.5 x 97cm
油彩、キャンバス

サロンには落選しましたが、小説家エミール・ゾラが庇護したことで有名になった作品です。日本の浮世絵の影響を感じさせる力強いエッジがきいています。

(Public Domain /‘Portrait of Emile Zola’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

『エミール・ゾラの肖像』(1868)

146 x 114cm
油彩、キャンバス

当時、マネを庇護していた小説家ゾラを描いた作品です。背景には日本の浮世絵や屏風が描かれており、この頃から日本の美術に強く影響されていたことが伺い知れます。浮世絵の影響は、ハイコントラストの色調に強く表れています。

(Public Domain /‘Berthe Morisot With a Bouquet of Violets’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』(1872)

55.5 x 40.5 cm
油彩、キャンバス

画家としても有名だったベルト・モリゾをモデルに描いた肖像画です。この絵が完成したあと、モリゾはマネの弟ウジェーヌと結婚しました。

(Public Domain /‘A Bar at the Folies-Bergère’ by Édouard Manet. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

『フォリー・ベルジェールのバー』(1881-1882)

92 x 130cm
油彩、キャンバス

マネの最後の大作となった作品です。当時パリで流行していたフォリー・ベルジェールの酒場の様子が背景の鏡に描かれており、鏡の前にはバーテンダーの女性が立っています。鏡にうつった女性の後ろ姿や男性客の姿が遠近法を無視して不自然に描かれていますが、その理由は未だ謎包まれたままです。

卓越したデッサン力をもっていたマネが間違ってこのような構図にしたとは考えづらく、おそらく意図的に女性や酒場の店内を強調させるため、このようにした説が有力視されています。

【参考文献】
『現代世界美術全集 25人の画家 マネ』|講談社
『西洋美術史 改定新版』|大沢武雄著
エドゥアール・マネ|ウィキペディア

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧