ジャン=ミシェル・バスキア 〜グラフィティの天才アーティスト〜

ジャン=ミシェル・バスキア(1960-1988)は、20世紀後半に活躍した最も重要なアーティスト。若くして才能を見出され、70年代後半から80年代にかけてニューヨークのアートシーンを席巻しました。「SAMO」というアートユニットを率い、革新的なグラフィティの手法で活動し、新表現主義の芸術家と呼ばれた。作品価格は80年代以降のアメリカ人アーティストで最高値であると同時に、黒人アーティストとしても最高値を記録している。

【生い立ち】

バスキアは1960年にニューヨークで生まれました。60年代のニューヨークは世界のアートシーンの中心であり、その時代の環境に恵まれたことと母親が芸術に理解があったことから、幼い頃から美術館を巡りアートに触れる生活を送ります。彼は頭脳も明晰であり、卓越したデッサン力も生まれながらに持っていたため、母親はアート教育に尽力します。8歳の頃、早くも創作において転機が訪れます。交通事故に遭い、入院したバスキアは「グレイの解剖学」という本と出会い、この本からは思想や芸術に大きな影響を受けたのです。

※グレイの解剖学…1858年にロンドンで出版された解剖学の医学書。著者はヘンリー・グレイというイギリスの外科医。

10代前半にして英語の他にスペイン語やフランス語を流暢に話し、また他言語の文学作品も熟読できるほどになります。そんな中、彼の日常に暗い影を落とす出来事がありました。13歳の頃、敬愛する母親が精神病院への入退院を繰り返すようになってしまいます。さらには父親との関係も悪化し、14歳の頃家出。15歳になると、ニューヨークのトンプキンス・スクエアを仲間たちと溜り場にしていましたが、警察に捕まり強制的に父親の保護下へ置かれるようになります。その後も父親との関係はますます悪化していき、頻繁に家出を繰り返します。どん底の状況下に置かれながら、アートの才能を活かして友人たちとTシャツやポストカードを制作。ストリートで販売することで自立生活を送るようになりました。

【SAMO結成&解散】

1977年、ストリートの友人であり仕事のパートナーとなるアル・ディアスと共に「SAMO」というグラフィティ・ユニットを結成。マンハッタンの建物という建物に様々なグラフィティを残しています。その特徴的な作風は当時のシーンにおいて異端の存在であり、詩的で風刺の効いた言葉を作品にしました。
例えば、

「SAMO©… AS AN ALTERNATIVE 2 ‘PLAYING ART’ WITH THE ‘RADICAL CHIC’ SECTION OF DADDY’$ FUNDS…’ SAMOは親のカネでお遊びしているやつにとって代わるものだ」

引用元:AL DIAZ

など、資本主義や社会環境に疑問を投げかける言葉を多く残しているのです。
次第にSAMOの名前は世の中に知られていきますが、シーンの表舞台に登場したいバスキアと、アンダーグラウンドのままでいたいアルとの間には溝が広がりはじめます。そんな二人の仲を裂く決定的な出来事となったのが、テレビ番組にSAMOとして1人で登場したバスキアが、相棒のアルに全く触れることなく番組が終了したことです。その後SAMOは解散。当時バスキアが残したグラフィティ「SAMO©️ IS DEAD」が何よりもそのことを物語っています。

【独立してさまざまな交友関係を育む】

その後活動は日々勢いを増し、加速していきます。当時ソーホーのレストランでアルバイトをしていたところにウォーホルが現れ、バスキアはハガキを売りました。
1978年、恋人と共にイーストビレッジにあるアパートに移り住みます。住所不定だった彼の最初の固定住所になったのがこの場所でした。この期間中、映画関係者やミュージシャン、アーティスト仲間と共に新しいダウンタウンのトレンドスポットに顔を出すようになります。マッド・クラブ(Mudd Club)、クラブ57、CBGB、Hurrah’s、Tier3の常連となり、そこではデヴィッド・バーン(トーキンヘッズ)、ブロンディ、マドンナ、ジョン・ルーリー、ディエゴ・コルテス、アン・マグナソンらと共にカルチャーシーンを作っていきました。当時バスキアはマッド・クラブのダンサーであり、後に歌手としてスーパースターになるマドンナとも付き合っていました。

【グレン・オブライエンとウォーホルと出会う】

1979年、グレン・オブライエンが司会者のTV番組「TV Party」に出演。これを機にオブライエンと親交が深まり、定期的に出演するようになります。そして、オブライエンからウォーホルを紹介されるのです。ウォーホルは、かつてポストカードを買ったバスキアの正式な作品を見た際、その才能を高く評価しました。同年、バスキアは音楽活動も本格的にはじめ、ノイズロックバンドを結成しており、よく遊んでいたナイトクラブでも定期的に演奏しています。また、オブライエンが制作したインディペンデント映画「ダウンタウン81」にも出演しました。

【アーティストとしての地位を駆け上がる】

1982年、ニューヨークのギャラリーで個展を開催します。ギャラリストのアニーナ・イセイによる仕掛けの反響が大きく大成功を収め、一躍ニューヨーク・アートシーンの中心へと躍り出ました。また、アート雑誌「Artforum」に掲載され、その活躍がさらにグローバルなものへと飛躍していきます。1983年にはウォーホルの所有するビルへ引っ越し、以降は生活や仕事をこの場所で行いました。

【楽曲も制作する】

1983年、ヒップホップアーティストのラメルジーとK-Robに焦点を当てた、12インチのシングルレコードを制作。「ラメルジー VS K-Rob」というタイトルのレコードに、同じ曲を2つのバージョンで収録。このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーという1度きりのレーベルから限定500枚として発売されました。現在は300枚程度しか見つかってないため、オークションには$1500~2000の値が付けられています。カバーはバスキアが担当しており、現在もレコード・コレクターとアート・コレクターの両方に人気があります。

【バスキア作品のココがスゴイ!】

作品の特徴として、グラフィティの手法が使われています。描かれているテーマの根底には「外vs内」「集団vs孤独」「富vs貧困」などの対比が挙げられたり、数字や単語、詩などが描かれたりと1枚の画面に情報量が多いのも特徴です。また、ペインティングと線画を融合させ、抽象と具象の両方の性質を持ち、痛烈な社会風刺が効いている新しいアートを生み出しました。そのきっかけとなったのが、幼き頃夢中になった「グレイの解剖学」。そこに描かれていたイメージ画とテキスト、シンボルなどの影響を、作品から感じることができます。これはニューヨークで育ち、ストリートで感性を育んだバスキアならではのオリジナルな芸術といえるでしょう。

【ウォーホルとの仕事】

1983年からの数年間、ウォーホルといくつかのプロジェクトで一緒に作品を発表しています。そのなかで最も有名な作品が、1985年に発表された「オリンピック・リング」です。ウォーホル作品の特徴である反復を使った五輪の輪の上に、バスキアは五輪に反対するかのようなペインティングを施しており、彼らの才能と哲学が融合した稀有な作品となっています。

【あまりにも短い生涯に幕を閉じる】

バスキアの落書きはその芸術性で多方面から評価を受け、瞬く間に高額取引の対象になっていきました。1985年には、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の表紙を飾るまでに上り詰め、アート界での立ち位置は確固たるものになります。さらには、アートの世界で成功した初めての黒人アーティストとも呼ばれるようになったのです。しかし、スターになることと比例して、いつ人気がなくなるのか、いつシーンから忘れられてしまうのかという不安と戦っていた彼は次第にヘロインに溺れるようになり、生活も荒れはじめます。唯一ウォーホルだけを頼りにしていましたが、ウォーホルも1987年に亡くなってしまいました。さらに孤独を深めたバスキアは、まるでウォーホルの後を追うように1988年、ヘロインの過剰摂取が原因となり、27歳というあまりにも短い生涯に幕を閉じました。

【おわりに】

彼の死後も作品の価値は上がり続け、2018年には123億円もの値段がついた作品があるほどです。様々な企業、特にファッション業界では作品とのコラボが続いているため、バスキアを知らなくても作品を見たことがあるという方も沢山いるでしょう。もしもウォーホルがもう少し長生きしていたら、もしもバスキアがヘロインに溺れずに生きていたら、いったいどんな作品を残していたのかと思うと残念でなりません。
現在でも彼の評価は高まりによって、他のストリートシーンで活躍するアーティストの作品価値も上昇しています。今後もますます注目され続けていくのがバスキアというアーティストなのです。最後までお読みいただきありがとうございました。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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