グッチオ・グッチ:ファッション実業家の大誤算

グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)は、ファッションブランド『GUCCI』の創立者であるイタリアの実業家です。世界大戦の影響を受けながらも鋭い観察眼と柔軟な発想力で切り抜け、一代でGUCCIをファッションブランド界のトップレベルに押し上げました。

■どん底からはい上がったグッチの起こり

1881年に麦藁帽子製造業『ガブリエロ』を営むガブリエロ・グッチの元に産まれたグッチオ・グッチ。その父が営む会社は、彼が幼い頃に倒産してしまいました。

※サヴォイ・ホテル

しかしグッチオは逆境にめげず、当時産業革命がおこり発展著しかったイギリスのロンドンへ渡航。サヴォイ・ホテル(Savoy Hotel)で働き始めます。最初は皿洗いからのスタートでしたが、出世をしてウェイターに昇格しました。

サヴォイ・ホテルは、開業当時から世界的な近代ホテルであった為にイギリスの貴族など正に上流階級の人々が集う場所でもありました。グッチオ・グッチは労働者という立場でありながら、最上級の生活スタイルや言動、そして何より身に着けているものやそのものを選ぶ基準などを、ダイレクトに知ることが出来たのです。

※フィレンツェの景観

グッチオは、第一次世界大戦による徴兵などがありながらも1919年に地元のフィレンツェへと戻り、高級革製品の店に就職。知識を学び1921年に皮革製品や旅行鞄、馬具を扱う企業を設立。そして1922年、フィレンツェのパリオネ通りに自らの店を構え、翌年1923年には『GUCCI』の店名を掲げました。

■店の成功とグッチオの功績

グッチオ・グッチが成功を収めた最大の理由は、彼自身が野心家であったこともありますが、ひとえに「観察と研究」を怠らなかったことにあります。

GUCCIの最初期、主だった業務として請け負っていたのはイギリスからカバンを輸入することと、カバンの修理でした。ホテルマン時代の経験で「上流階級に好まれるデザインやモノ」について学んでいたグッチオは、次にこのカバンの修理で「壊れやすい箇所」や「手を加えるべき箇所」を見つけて研究。そうして、使いやすく丈夫なカバンを作ることが可能となりました。

当時、革製品といえば馬具が多かった時代に旅行鞄を作り、販売させたグッチオ・グッチ。彼に先見の明があったことも確かですが、やはりそれは「観察と研究」の結果だったといえるでしょう。

また、この時グッチオ・グッチはGUCCIが作成したカバンの品質を保証する意味で自らの名前の頭文字をとった『GG(ダブルジー)』をカバンに印字。これが世界で初めてデザイナーの名前を製品に印した起こりと言われており、その後様々なデザイナーやブランドで広く使われるようになりました。

あらゆる面で研究を積み重ねたGUCCIの鞄は瞬く間にその名をとどろかせることになり、一気に人気ブランドへの道を駆け上がります。

■第二次世界大戦の最中で生まれた代表作

鋭い観察眼と的確な研究によって『GUCCI』を軌道に乗せていったグッチオ・グッチ。しかし、そんな彼の前に試練が立ちはだかります。第二次世界大戦の勃発です。この影響でグッチ製品の原材料である革が統制品となってしまい、手に入りづらくなってしまいました。

※『バンブー』のバッグ

原材料の不足に加えて戦時中であったことが災いし、嗜好品の需要は下がってしまいました。その結果、GUCCIは存続の危機に立たされることとなってしまいます。しかし、そんな逆境の中でグッチオ・グッチは全く新しい革新的なデザインのバッグを発表しました。キャンバス地にコーティングを施した素材でカバン部分を作り、持ち手の部分には竹を使用した『バンブー』です。

このバンブーシリーズは現代にいたるまでGUCCIの看板商品として君臨し続けています。ピンチをチャンスに逆転させただけでなく、代表的なブランドバッグまで誕生させる胆力の強さをみせました。

■グッチオ・グッチ唯一の『大誤算』

グッチオ・グッチは6人の子宝に恵まれ、その内ふたりの子供たちがGUCCIの経営に携わるようになりました。

三男であったアルド・グッチは先見性に秀でており、経営面で貢献し、グッチオが当初反対していた海外進出を強く推し進め大成功を収めます。特に1953年に出店したアメリカニューヨークでの成功は「ニューヨークはグッチの街」と言わしめるほどのものでした。

※『GG柄』

また、グッチの代名詞ともいえる『GG柄』を考案したのもこのアルド・グッチ。グッチオが大切に育て上げてきたGUCCIの伝統は守りつつ、見事に世界中にGUCCIの名をとどろかせまました。

一方、もうひとり経営に携わったのが五男のルドルフォ・グッチです。もともと俳優を目指しており、一時注目を浴びましたがその後失脚。ほとんど無一文の状態になっていたところを、父であるグッチオに手を差し伸べてもらう形になります。

ルドルフォは俳優時代に培った人脈を利用して、小物としてGUCCIを映画で使用してもらうことを考案し、結果としてオードリー・ヘップバーンをはじめとした数多くの大物女優にGUCCIを愛用してもらうことに成功しました。

ルドルフォはGUCCIのブランド名を高めることに貢献しましたが、それはあくまで人脈を使ってのこと。経営戦略的な部分は兄のアルドには及びませんでした。

しかしグッチオは末っ子であるルドルフォを深く愛していた為か、本来であればアルドを中心に会社を任せるべきところを、アルドとルドルフォに半分ずつ株式を譲渡することにします。

結果としてこれがGUCCI経営最大の悪手の始まりとなってしまい、後に『GUCCI乗っ取り』という大問題に発展。

しかしグッチオ自身はアルドがニューヨークに出店したその年にこの世を去ることになった為、その後のことは知る由もなかったのです。

■グッチオ・グッチのこだわり

グッチオ・グッチがGUCCIにおいて一番こだわっていたのは『品質』そして『価格』でした。彼の言葉の中に以下のようなものがあります。

「原価は何も意味を持たない。むしろ商品の値段が高ければ高いほど、その所有することの価値も高くなる」

引用元:Wikiグッチオ・グッチ

言葉に尖りこそありますが、ある意味で「ブランド」というものを創り上げるうえでひとつの答えともいえるこの考え方。どこにでもいる平民の青年がこの考えに行きつくことが出来たのは、一重に若き頃サヴォイ・ホテルで上流階級に触れていたからでしょう。

その一方でグッチオ・グッチは「材料費さえ払えば職人が家族に鞄を作ることを許可する日」を制定しました。これは彼がカバン職人たちやその愛する人たちのことを敬愛していたからこそのサービスでした。彼の信念である品質面を支えていたのが、他の誰でもない職人たちだと彼は理解していたのでしょう。

デザイナーとして、そして経営者として正に一流だったグッチオ・グッチ。経営の形こそ変わりましたが、今も彼のGUCCIは世界中で愛されています。

GUCCI公式YouTubeチャンネル
GUCCI公式オンラインストア

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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