ハイドン:もう一人の音楽の父

(Public Domain /‘Franz Joseph Haydn’by John Hoppner. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、ベートーヴェン、モーツァルトらと並ぶ古典派を代表する作曲家で、『交響曲の父』『弦楽四重奏曲の父』とよばれています。また彼が作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え』は、現在のドイツ国歌に用いられています。

■モーツァルトに負けず劣らずの『神童』

一般的に『音楽の父』と呼ばれるのは、フーガの技法をはじめ鍵盤楽曲を中心に1000曲を超える作品を残した音楽家、ヨハン・セバスティアン・バッハのことを指します。しかしもうひとり、音楽界の歴史を語る上で忘れてはならない『父』がいます。

それが『交響曲の父』『弦楽四重奏曲の父』と呼ばれる、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンです。

ハイドンは、1732年にハンガリーオーストリアの国境にあるローラウ村で生まれました。彼は6歳の時、音楽学校の校長をしていたおじのマティアス・フランクにその才能を認められ、フランクの元で音楽の勉強を始めます。

1740年、ハイドンが8歳の頃にシュテファン大聖堂の聖歌隊の一員として認められてウィーンへ移住し、9年間聖歌隊員を務めました。彼は8歳にして「プロの音楽家」としてデビューしたのです。

聖歌隊をやめた後のハイドンは、勉強にいそしみながらフリーの音楽家として活動します。そして弦楽四重奏やオペラ曲の作曲を行い、徐々にその名が知られるようになりました。

ハイドンは若い頃から才能を持ちながらもその才能に溺れることなく、勤勉に励み、着実に人としても音楽家としても成長を遂げていきます。1759年にはボヘミアのモルツィン伯の元で宮廷楽長の職に就きましたが、わずか2年足らずで経済的な理由で解任されてしまいます。

しかし、1761年にハンガリーの大貴族エステルハージ家に召し抱えられるという幸運が舞い込みます。当初は副楽長を務めていましたが、1766年には前任者の死去に伴い、楽長に昇進します。

その後24年間、彼はエステルハージ家の音楽家として仕えることになります。

■エステルハージ家での生活とよき理解者

エステルハージ家ではアイゼンシュタット、ウィーン、エルテルハーザの3つの邸宅に仕え、ここで作曲、オーケストラの運営、室内楽の演奏、オペラ作品の上演など音楽にまつわる様々な仕事に従事します。特にエルテルハーザはオペラ劇場なども備えており、ハイドンはここで音楽監督を勤めていました。ただの作曲家というよりも、この時代は「音楽の総合プロデューサー」といったほうが表現的にはしっくりくるかもしれません。このころ仕事は非常に激務でした。

ただ、ハイドンにとって幸運だったのは、当主であるニコラウス・ミクローシュ・エステルハージが非常に音楽に対して理解が深く、またハイドンの能力を高く評価していたことでした。彼は宮殿の音楽家としてハイドンを重用するだけでなく、音楽家としての成長も考え、外部からの作曲依頼も自由に引き受けることを許可していました。

この時期の作品として著名な『パリ交響曲』や『私たちの救い主の十字架上での最期の7つの言葉』などは、外部からの依頼で作られたものです。もしニコラウス・ミクローシュ・エステルハージがハイドンに「音楽家としての自由」を与えなければ、彼はここまで有名な音楽家になることはなかったかもしれません。

■モーツァルトとの出会い

エステルハージ家に仕えていたハイドンにとって、大きな出会いとなったのが神童ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとの出会いでした。

二人はともに楽曲を奏でるなどして親交を深め、その中でハイドンはモーツァルトの作品に強い感銘を受けます。その結果モーツァルトの得意分野であるオペラや協奏曲の作曲をあまり行わなくなってしまいます。50歳近くとなり音楽家としてのキャリアも豊富であったハイドンが25歳のモーツァルトの楽曲から受けた衝撃はそれほどのものでした。

一方でモーツァルトもハイドンの音楽にすっかり心酔します。特に『ロシア四重奏曲』は彼の心に残り、彼はハイドンのために約2年の歳月をかけて弦楽四重奏曲、世にいう『ハイドンセット』を作り上げました。

このふたりは、得意とする作曲ジャンルが対照的であり、またその性格も違っていました。やや破天荒な人生を送ったモーツァルトに対し、長く宮廷に仕え、安定した生活を送っていたハイドン。もしかすると、互いが音楽家として高い能力を持ち合わせていなければ、全く馬の合わないふたりだったのかもしれません。

晩年、ハイドンは「モーツァルトのピアノ演奏が忘れられない」と、涙を湛えながら話していたとも言われており、彼にとってモーツァルトとの出会いが音楽家人生を送る上で大きな意味を持つものだったことが想像できます。

■宮廷音楽家としての終わりと、最期

1790年にハイドンを高く評価していたニコラウス・ミクローシュ・エステルハージが死去します。後継者のアントン・エステルハージは全く音楽に興味がなかったために音楽家のほとんどを解雇し、その中にはハイドンも含まれていました。

しかし当時十分な貯蓄があり安定した収入として年金があったハイドンにとっては、自由に音楽を作ることのできる、願ってもないチャンスでもありました。

ハイドンは音楽興行主であるヨハン・ペーター・ザーロモンからイギリスで新しい交響曲を演奏する計画を持ち掛けられこれを許諾します。1791年から1792年、1794年から1795年とイギリスへ遠征し、これが大成功を収めることとなります。

結果としてハイドンは高い名声、そして富を手に入れることとなりました。また、この時期に有名な交響曲『驚愕』『太鼓連打』や、弦楽四重奏曲『騎士』などが産み出されました。

イギリスから帰国したハイドンは、ニコラウス・ミクローシュ・エステルハージの孫のニコラウス2世の要請により、再度エステルハージ家の楽長に再就任します。そして『天地創造』『四季』といったオラトリオを作り上げます。彼はこの時すでに60歳を超えていましたが、精力的に作曲活動を行っていました。

そして1809年5月31日ウィーンで、ハイドンは77歳という大往生でこの世を去りました。

■改めてわかるハイドンの凄さ

ハイドンは生きている間に700曲を超える作品を残しました。その作曲数も目を見張るものがありますが、幅広いジャンルの作曲もこなしていたという部分も触れておかなければならないでしょう。得意とする交響曲や弦楽四重奏曲はもちろん、舞台作品、オペラ、協奏曲、果てには民謡の編曲などに至るまで、本当に幅広く活動をしていました。

またハイドンはその勤勉でまじめな性格から、自らの立場しっかりと見極め、周りの人間が求めている楽曲を作り上げる能力がありました。長きにわたって宮廷の楽長を務めることが出来たのは、ハイドンの凄さのひとつといえるでしょう。

ハイドンもまた、この時代を代表するモーツァルトやベートーヴェンとは違った『天才音楽家』だったのです。

逸話の多いベートーヴェンやモーツァルトに比べると、現代では一般的な認識率の低いハイドン。しかし彼の存在なくしては、ベートーヴェンやモーツァルトが後世でこれほど評価される音楽家になることはなかったかもしれません。それほど、ハイドンが残した功績は重要なものであり、バッハと並び『父』と呼ばれる理由なのでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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