バッハ:努力は必ず報われる

ヨハン・セバスティアン・バッハは、バロック音楽期の重要な音楽家で、オルガンをはじめとした鍵盤楽器の演奏家としても有名です。特に『平均律クラヴィーア曲集』は、昨今でも鍵盤練習曲として広く親しまれています。また、親としても高名な音楽家を多く輩出しました。

■まさかの「投獄経験」まであるバッハ

バッハは1685年3月31日に、ドイツ南部の町アイゼナハで、ルター派の音楽家であるヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟の末子として産まれます。彼の一族には多くの音楽家がいました。

10歳の頃に父を亡くしたバッハは、真面目に実直に勉学に励み修道院付属の給費生となりました。18歳の時にはヴァイマルの宮廷楽団に就職し、ヴァイオリンを担当しましたが、代役でオルガンもこなしました。

その後、現在バッハ教会と呼ばれる教会にオルガンを設置した際、試奏を行ったバッハの演奏があまりにも素晴らしいと評価され、そのまま教会のオルガニストに就任します。同時に聖歌隊の指揮者も担当することとなりました。

彼は生涯オルガニストとして非常に高い評価を得ましたが、その反面、子沢山だったこともあり生活は決して豊かなものではありませんでした。

バッハの興味深い点は非常に勤勉な人物であると同時に、金銭に強く固執していたからか、しばしば契約面で問題を起こしたという点です。

バッハは1708年にヴァイマル公国の宮廷オルガニストとなったのちも、より良い条件の職場を探すべく奔走しました。そうして1717年に、アンハルト=ケーテン侯国と契約します。しかしヴァイマル公は勝手に他国と契約をしたバッハに激怒し、彼を1ヶ月間投獄したのちに契約を解除しています。

アンハルト=ケーテン時代は、非常に音楽に対して寛容で理解のあった環境であったため、バッハが後に評価される音楽の多くはこの時期に作られました。

その後は聖トーマス教会のカントル(教会音楽家)に就任します。この頃から教会音楽を中心に幅広く作曲活動に精を出します。

1749年、バッハは脳卒中で倒れ、以前から患っていた視力を失う病気がさらに悪化することとなります。翌1750年にイギリスの眼科医ジョン・テイラーによって手術が施されますが、手術が失敗に終わり、後遺症が大きな原因となり同年7月28日ライプツィヒで、バッハは息を引き取りました。

バッハはオルガニストや指揮者としては評価され、聖トーマス教会のカントルという高い地位に就いていましたが、生前には彼の作曲した作品はほとんど評価されていませんでした。

それでは、バッハはどのようにして偉大な音楽家として後世に名を残したのでしょうか。

■10人にも上るバッハの子供たち

バッハの名が残り続けたひとつの要因として挙げられるのが、二度の結婚と多くの子供たちの存在です。

1707年、バッハは22歳でマリア・バルバラと結婚しますが、彼女は1720年に36歳の若さで亡くなります。しかし、約10年の短い結婚生活で7人もの子供を授かり、その内4人が成人しました。

(Public Domain /‘Portrait of a Man’by Friedrich Georg Weitsch. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

バッハはマリアとの間に産まれた子の中では、特に長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハを溺愛していました。またヴィルヘルムは音楽の才能にあふれていたようです。しかしその一方で、バッハから過保護に育てられた影響もあるのか、やや世間知らずな面があり、職場との折り合いがつきませんでした。結局彼は最後までその才能を活かしきれず生涯を終えます。

(Public Domain /‘Carl Philipp Emanuel Bach’by Johann Friedrich Schröter. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

一方で次男のカール・フィリップ・エマヌエルは音楽家として大成します。カールはハイドンやベートーヴェンに多大な影響を与えただけでなく、生前は父であるバッハよりも成功したといわれています。

1人目の妻であるマリアが36歳の若さでこの世を去った後、バッハは宮廷ソプラノ歌手であったアンナ・マグダレーナを2人目の妻として迎え入れます。アンナは実に13人もの子供をもうけますが、こちらも成人したのは6人のみでした。

(Public Domain /‘Johann Christian Bach’by Thomas Gainsborough. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アンナとの子の中で大成したのが、末っ子のヨハン・クリスティアンです。
彼はバロック音楽の巨匠ヘンデルの後継的立ち位置にいただけでなく、イングランド王妃の専属音楽家にも就任しました。またモーツァルトとも親交を持っており、彼に大きな音楽的影響を与えたことでも知られています。

このように、オルガン奏者としては高い評価を得ていた一方で、作曲家としてはあまり人気がなかったバッハが、現代においてここまで有名になり、名を受け継がれ続けたのは優秀な子供たちのお陰でもあったようです。

直接的でないにしろ、彼らが有名になったからこそ『バッハ』の名は世間に知れ渡り続けたのです。

■生前の辛い評価と没後の再評価

今でこそ、数々の有名クラシック音楽家の中で「音楽の父」とまで言われ、その名を世界中に轟かしているバッハですが、何故生前に高い評価を得られなかったのでしょうか。

当時のヨーロッパにおいては「分かりやすさと流れるような耳当たりの良さこそが音楽の本質である」という考え方が一般的でした。そんな時代において重厚で手の込んだ、演奏の難しいバッハの音楽作りは「時代遅れ」だと評価されることが多かったようです。

バッハに師事したこともあるというヨハン・アードルフ・シャイベはバッハの曲の持つ複雑さを、人工的な不自然、間際らしい音楽のスタイルだと痛烈に批判をしています。

バッハが1750年にこの世を去った後、彼の息子たちは確かに活躍をしましたが、それだけでは彼自身の音楽が再評価されることはありませんでした。バッハは「偉大な音楽家」ではなく、あくまでも「偉大な音楽家の父」とみなされていたのです。

ですが、死後やや経ってから現れたモーツァルト、ベートーヴェンといった後世の高名な音楽家たちによってバッハの曲は受け継がれます。

バッハを再評価する上で大きなポイントとなったのが、1829年にメンデルスゾーンが当時の潮流に合わせてアレンジした『マタイ受難曲』を上演したことです。
この事をきっかけにバッハの音楽は陽の目を見ることになりました。死後、約80年が経過したときのことでした。

■不器用ながらも芯の通った音楽観

こうして、バッハの音楽は広く知れ渡り、また彼の得意としていたフーガは今では多くの楽曲に取り入れられる技法となりました。

しかし、バッハは自分自身のことを才能のある音楽家だとは考えていませんでした。非常に真面目で勤勉であった彼は、オルガン技術に関しても「努力をすれば誰でもできるようになる」と考えていたそうです。

現代でもここまで多くの人に聞かれ、愛される音楽を作ることが出来たのは、彼に才能があったからにほかなりません。しかしその才能を開花させることができたのは、彼が勤勉に、真面目に努力をし続けてきたからです。

「努力は裏切らない、いつか報われる」という言葉を地で行った音楽家バッハ。きっと彼は今、自らの音楽が多くの人に愛されていることを大いに喜んでいるでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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