コナン・ドイル:心霊主義の外科医

(Public Domain /‘Conan Doyle’ by Unknown. Image via Wikimedia commons)

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(1859-1930)は、スコットランドのエジンバラに生まれた医者・作家・政治運動です。エジンバラ大学医学部を卒業し、ロンドンで小さな病院を開業しますが上手くいかず、患者を待つ時間を利用して小説を執筆していました。そして1884年にデビュー作シャーロック・ホームズ・シリーズの第1作目「緋色の研究」を発表し、ャーロック・ホームズのシリーズは世界中で大ヒット作となりました。

<恩師をモデルに推理小説を書く>

コナン・ドイルはもともと医師としても活躍していた小説家で、誰もが知っているあの有名探偵小説シャーロック・ホームズの著者です。

ドイルの母メアリーは中世イングランド王朝であるプランタジネット朝の家系の出でした。そのことに誇りを持っていた母メアリーは、息子にも騎士として常に紳士的に振る舞うよう言い聞かせていました。そしてドイルは母の教育通りの、紳士的で教養のある男性に成長しました。

一方父チャールズの家系はみな芸術の才能がありました。祖父は風刺画家で、親戚には画家やイラストレーター、美術館の館長もいましたが、チャールズだけは才能に恵まれませんでした。父は親族たちの華麗な生活と自分の状態を比較しては絶望し、アルコール依存症になり精神病院に入院し、ドイルの一家は非常に貧しい生活を送ることになります。父に稼ぎはありませんでしたが、父の親族は裕福だったためドイルは伯父の支援を受け、ドイルはイングランド中心部にある寄宿学校ストーニーハースト・カレッジへ入学することができました。

ドイルはクリケット部の主将を務めつつ勉強にも励み、卒業後は医者になることを選びました。そしてエジンバラ大学の医学部に進学し、そこで2人の個性的な教授と出会ったことがシャーロック・ホームズ・シリーズのインスピレーションに繋がったのです。そして、ジョウゼフ・ベルという教授をシャーロック・ホームズのモデルに、ウィリアム・ラザフォードという教授をチャレンジャー教授のモデルにして物語を書きました。特にジョウゼフ・ベルからは、患者の患部だけを見るのではなく、患者そのもののことをよく観察することの重要性を教わります。

ドイルは医学生になってからもスポーツが好きで、テニス、ボクシング、ラグビーなどで身体を鍛えたり読書をしたりして過ごします。しかも相変わらず貧しかった実家への仕送りをするため、捕鯨船でアルバイトもしていました。

<医師として上手くいかない日々>

無事に医師免許を取得し大学を卒業してからは、捕鯨船でのアルバイトの経験を活かして船医として働きます。しかしアフリカに航路したときに、当時流行していた感染症マラリア病の治療に苦労し自身も感染し生死の境を彷徨う経験をしたため、船医を辞めます。

その後は大学の研究室仲間と共同で診療所を立ち上げますがその診療所は流行らず、共同経営をしていた友人とも折が合わず解散。アメリカのニュー・ハンプシャー州、ポーツマスに移動し、独立して開業しました。

しかし当時ポーツマスには外科病院がそこら中にあり患者の取り合い状態であったため、ドイルの医院は繁盛しませんでした。そこで暇な時間を持て余すよりはいいと思い立ち、小説を書き始めたのでした。原稿が形になると、自ら出版社に送り書籍化を依頼しました。初めはどこも音沙汰がありませんでしたが、少しずつ買い手がつくようになりました。そしてシャーロック・ホームズのシリーズ第一作目「緋色の研究」がビートン誌に掲載されますが、当初はあまり反響がありませんでした。

<妻と子どもたちと心霊主義>

数少ない患者の1人であるホーキンズは脳膜炎に苦しみドイルの病院に運ばれてきますが、すぐに息を引き取ってしまいました。亡くなったホーキンズの姉、ルイーズは悲しみにうちひしがれながらも、最後まで懸命に治療に当たってくれたドイルのことを好きになってしまいます。そしてルイーズとドイルは結婚し2人の子どもに恵まれます。

しかしルイーズは1897年に当時は不治の病であった肺結核にかかってしまいます。そのとき既に作家として活躍していたドイルは妻の療養や看護のために別邸を建てました。しかしドイルはとあるパーティで、ジーン・レッキーという魅力的な女性と出会ってしまい、ルイーズは病床に居たのにも関わらず、夫の不倫を見抜きます。ドイルはジーンとの関係を続けますが、ルイーズが世を去るまでの10年間は妻をいたわりました。しかしルイーズが亡くなったあと、ジーンはルイーズとドイルの子どもを引き取ることを拒否しました。

ドイルには最初の妻ルイーズとの間に2人、2番目の妻ジーンとの間に3人の子どもがいました。そして長男のアーサー・アレン・キングズリーが第一次世界大戦で負傷し除隊されたあと、スペイン風邪の大流行でこの世を去ります。

このことにドイルはひどく心を痛め、肉体は無くなっても息子の心はずっと生き続けているという思想に傾倒し出します。それは心霊主義と呼ばれるもので、肉体が消滅しても霊魂は存在し、現世の人間が死者の霊魂と交信できるということを信じているということです。ドイルは著作「新たなる啓示」にて

戦争で多くの人の死に遭い、悲嘆を味わううちに、我々の愛する人は死後もなお心に生き続けているはずだとの確信に達した

引用:Wikipedia

と綴っています。そしてドイルの子どもたちもその子どもたちへ心霊主義を説いており、心霊主義関連の書籍を揃えた本屋を経営したり、各地で心霊主義についての講演をして回ったりするなどの心霊主義の啓蒙運動をしていました。

ドイルには孫がいなかったため、コナン・ドイル直系の子孫は存在しません。そしてドイルは1930年7月7日にこの世を去り、クロウバラの家ウィンドルシャムのバラ園に埋葬されました。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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