パウル・クレー:経験から画法を何度も変更し、独自の画風を確立

(Public Domain /‘Paul Klee’ by AlexanderEliasberg. Image via Wikimedia commons)

パウル・クレー(1879―1940)はスイスの画家・美術理論家です。幾何学模様や図形を用いた絵を描き、どの派閥にも属さない独自の作風で様々なものを絵画で表現しました。両親ともが音楽に精通した人物であったことから、クレーは音楽がいつも身近にある環境で育ちます。そのため、彼の作品は音楽の影響を如実に受けているものが多くあります。

<音楽と美術の才能に恵まれる>

クレーは1879年12月18日にベルン近郊のミュンヘンブーフゼーという町で誕生しました。父は音楽教師で、母も声楽を学んでいたためクレーも幼い頃からヴァイオリンを習い、腕前はかなりのものでした。バッハやモーツァルトらの古典的な音楽からストラヴィンスキーやヒンデミットのような現代的な音楽にまで幅広く触れ育ち、後の作品にも「ポリフォニー」や「フーガ」といったものがあるほどです。そして、美術に造詣の深い祖母がいて少年時代のクレーの絵を大切に保管してくれていました。

<妻と息子に支えられた無名時代>

クレーは絵画の腕を磨くためにパリへ行くかミュンヘンに行くかで悩みますが、19歳の頃まずはミュンヘンに渡ります。ミュンヘンに渡った2年後にバウハウスに入学し、象徴主義のフランツ・フォン・シュトゥックの指導を受けました。しかしクレーはバウハウスの画一的な指導が合わず1年で退学してしまいます。それからは友人らとイタリアを周遊し、ルネサンスやバロックの絵画や建築を見て回りたくさんのことを吸収しました。

1906年にピアニストのリリー・シュトゥンプフと結婚し、翌年には息子フェリックスが誕生します。しかし当時はまだ無名の画家であったクレーは収入が少なく、妻のリリーがピアノ講師として生活を支えクレーが育児や家事を担っていました。息子フェリックスは後にパウル・クレー財団を設立し、クレーの作品の保存に尽力します。

<抽象画への転機>

「青騎士」は1911年にカンデンスキーという美術評論家らが創立した団体で、ドイツ中の画家たちの企画を展示するツアーキャラバンのようなものを運営していました。

クレーは「青騎士」に所属していたマルクと意気投合し、青騎士展に参加することもありました。クレーの作品は、この頃から陰影や色彩の描写が活発になり、更に自由な動きを見せるようになります。

1914年にクレーはチュニジアへ旅行し、チュニジアに溢れるカラフルな色彩に心を打たれたクレーは、その感性を作品に生かします。これ以降、彼の作品のほとんどが色彩豊かなものとなり、抽象画も描くようになりました。また、ゴッホやマルクとの出会いも画風の変化に影響したようです。

第一次大戦が終わった頃、クレーはミュンヘンの画商ハンス・ゴルツと契約し画家としての認知度を高めます。それからはたくさん仕事が来るようになり、ニューヨークやパリなどで個展を開きました。この頃「養樹園」に代表される「スクリプト絵画」シリーズを制作します。これらは音楽や数学などから着想を得たもので、クレー独特の淡いタッチで描かれています。

<ナチス弾圧と亡命、難病>

1931年から2年間デュッセルドルフ大学で教授を務めていたクレーですが、だんだんと強まっていくナチスの脅威に晒され、故郷のスイスに亡命します。ヒトラーは近代美術や芸術などの自由表現を嫌悪し「非ドイツ的」な芸術作品を全て退廃芸術として排除しました。

クレーも例外ではなく、ドイツの銀行口座を凍結されてしまい、一気に経済的貧困に陥ります。それに加えて体調が悪化し、皮膚硬化症という難病にかかり闘病生活をしながら制作を続けます。

<ピカソとクレー>

クレーとピカソは同世代の画家であり、病に苦しむクレーの元にピカソが訪れたことは、クレーはとても勇気づけました。ピカソと会った後のクレーはやる気に溢れ、そこから約1200点以上の作品を残します。

クレーは「芸術は見えないものを見えるようにする」という言葉を残しています。大きなキャンバスに残した作品は少なく、日常的に使用する小さな紙や新聞紙、布など、あらゆるものに絵を描いていたのです。

晩年に描かれた「天使」というシリーズでは、様々な状態や様々な表情をしている天使を1人ずつ描きました。これらは紙に線のみもしくはシンプルな構図や色使いで描かれたものが多くを占める作品群で、仰々しい絵画の対極にあるような、絵を描くことの普遍の喜びがつまった作品と言えるのではないでしょうか。

そして、パウル・クレーは1940年にサンタニェーゼの療養所で息を引取りました。ベルンのショースハルデン墓地にあるクレーの墓石には

この世では私は理解されない。なぜならいまだ生をうけていない者たちのもとに、つまりは死者のもとに、私はいるのだから

引用:Wikipedia

という言葉が刻まれています。

※スイスのベルン郊外には「パウル・クレー・センター」という、クレーの作品が4000点以上収蔵された美術館が建てられています。

参考文献
「クレーの日記」「パウル・クレー 絵画のたくらみ」

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧