クリスチャン・ディオール:不世出のデザイナー

(Public Domain/‘Christian Dior 1954’ by The magagine from May 1954. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

クリスチャン・ディオールはフランスを代表するファッション・デザイナーの一人です。「ニュー・ルック」によって鮮烈なデビューを果たして以来、オート・クチュール界のリーダーとして君臨し続けました。現代の女性にふさわしいエレガンスを体現したクリエイションの数々は、現在でも燦然と輝いています。その足跡について解説します。

幸福な生い立ち

クリスチャン・ディオール(Christian Dior)は1905年、フランスの北西部ノルマンディ地方にある港町グランヴィル(Granville)に生まれました。グランヴィルは、有名な海水浴場として有名で、夏になると多くのバカンス客で賑わいます。この風光明媚な土地をクリスチャン・ディオールは生涯愛し、グランヴィルをルーツとすることに大変な誇りを持っていました。

父親が化学肥料の工場経営者として成功していたため、幼少期はとても裕福な家庭で暮らしています。彼らは当時、両親が所有していた海岸沿いに建つ「リュンブの家(La villa “les Rhumbs”)」と呼ばれる家を住まいとしていました。一階の床に羅針盤を模したモザイク柄が埋め込まれていることからその名があり、外壁に小石が埋め込まれているのが特徴です。薄いピンクとグレーの配色が大変美しいことで知られています。

「リュンブの家」を購入した当時、庭はひどく荒れ果てていましたが母の熱心な整備の甲斐あって、美しい庭園に生まれ変わります。当時、幼きクリスチャン・ディオールは母についてまわり、木や花を植えるのを夢中になって手伝いました。植物の姿や名前を暗記するなど、このころに園芸の素養を身につけ、のちにデザイナーとなるための感性を磨いたといわれています。クリエーションのなかに度々登場することになる花や昆虫、動物などは「リュンブの家」での豊かな経験が影響していると考えられています。1953年のコレクションで発表して話題となったチューリップ・ラインはその代表的なものといえるでしょう。

画商として:芸術家らとの交流

1910年頃に、ディオール一家はグランヴィルからパリへと移ります。当時、クリスチャン・ディオールは建築家を目指し芸術に関心を示していましたが、外交官になることを期待した両親の取り計らいでパリ政治学院(Institut d’Etudes Politiques de Paris)に入学します。

このころ、クリスチャン・ディオールは芸術家との交流を深め、パリ8区にギャラリーを開きます。サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)、ジョアン・ミロ(Joan Miró i Ferrà)などの作品の紹介に努めました。

その後、世界恐慌によってギャラリーは閉鎖。病に倒れたクリスチャン・ディオールは療養のためいったんパリを離れます。間もなくパリに戻り自由な生活を送るうち、ファッションのデザインを手がけていた友人がクリスチャン・ディオールの才能に気づき、デザイナーの仕事につくことをすすめます。やがて当時の著名なクチュリエ、ロベール・ピゲ(Robert Piguet)のもとで職を得ることになったのは1937年のことでした。

ところが翌年、第二次世界大戦が開戦し、動員。復員後、およそ2年ニースで避難生活を送ったあとパリに戻り、当時オート・クチュールを先導していた一人、リュシアン・ルロン(Lucien Lelong)のアシスタントを務めることに。ルロンのもとで、クリスチャン・ディオールは、のちにパリのオート・クチュール界で中心的人物の一人となるピエール・バルマン(Pierre Balmain)と出会い、主要なデザイナーとして活躍します。ドイツによる占領下にあったため、クリスチャン・ディオールも他のメゾンと同様、やむなくナチス高官夫人らのためにドレスをデザインしたといわれています。

「ニュー・ルック」による鮮烈なデビュー

(CC0 /‘Dior denver art1’ by SpiritedMichelle. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

クリスチャン・ディオールは、戦後間もなく独立。繊維業で財をなしていた実業家、マルセル・ブサック(Marcel Boussac)の資金援助を受けて、1946年にオート・クチュールのメゾンをパリにオープンしました。翌年には初めてとなるコレクションを発表。コレクションには「コロール(Corolle:「花かんむり」の意)」という名前がありましたが、『ハーパース・バザー(Harper’s BAZAAR)』誌の伝説的な編集長、カーメル・スノウ(Carmel Snow)が評して「ニュー・ルック(New Look)」と絶賛し、大々的に取り上げたことから、現在では「ニュー・ルック」という名前が定着しています。

「ニュー・ルック」は、ゆったりとした肩のライン、細く絞られたウエスト、ペチコートによって膨らんだくるぶし丈のフルレングスのフレアースカートを特徴としています。数字の「8」にシルエットが似ていることから「8ライン」と呼ばれることもあります。戦後、間もない時期ということもあり、当時はシンプルでストイックなファッションが主流。生地もまだ不足している状態でした。そんななか、エレガントで女性的な「ニュー・ルック」はたちまち話題に。戦争集結とともに解放へと向かう民衆の気持ちを巧みに捉えた「ニュー・ルック」は好意的に受け止められることになりました。生地をたくさん使用することから一部から強い抗議を受けたこともありますが、現在では女性の服装に革命を起こしたと評されています。戦後、パリが再びファッションの中心地として脚光を浴びるようになったのは、クリスチャン・ディオールの存在があったからといえます。

華々しくも決して長いとは言えないキャリア

「ニュー・ルック」によって、たちまちファッション界の寵児となったクリスチャン・ディオール。1948年には、コスメティック部門の会社「パルファン・クリスチャン・ディオール(Christian Dior Parfums)」を立ち上げます。モダンな女性にふさわしいフレグランスを作りたいと考え、満を持して発表された初のフレグランスが「ミス・ディオール(Miss Dior)」でした。その後、アメリカでライセンス生産するなど、ブランドビジネスとして先駆的な事業にも取り組みます。

1947年の「コロール・ライン」以降、1953年のチューリップ・ライン(Tulip Line)、1954年のHライン(H line)といった具合に、クリスチャン・ディオールは新しいラインを発表し続け、11年にわたってパリのオート・クチュール界のトップ・ランナーを走り続けました。

1957年、クリスチャン・ディオールはイタリアのモンテカティーニ・テルメ(Montecatini Terme)に休暇滞在中に53歳の若さで突然この世を去ります。死因は心臓発作だといわれていますが、実際のところは明らかとなっていません。

人気絶頂にあったデザイナーを失ったメゾンが後任に立てたのは、クリスチャン・ディオールのもとで修行中であった21歳のイヴ・サン=ローラン(Yves Saint-Laurent)でした。イヴはクリスチャン・ディオールが生前より高く評価していた人物で、1960年に徴兵されるまでディオールの後釜を見事に務めてみせました。

最後に

1950年代のパリのオート・クチュール界をリードし、その足跡を今に残すクリスチャン・ディオール。ファッション界に身をおいたのがわずか11年という短い期間であったにもかかわらず、唯一無二のクリエイションによって存在感を発揮し、死後60年以上経過した現在も多くのデザイナーの尊敬を集めています。フランスが生んだ不世出のデザイナーが作り出すエレガンスは、モード界が存続する限り、語り継がれることになることでしょう。

出典:
【ウィキペディア】クリスチャン・ディオール
【ウィキペディア】Christian_Dior
【ウィキペディア】Granville,_Manche
【ウィキペディア】Dior#newlook

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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