ココ・シャネル:永遠のスタイルの生みの親

ココ・シャネルは、20世紀に活躍したフランスのファッション・デザイナーです。パリを代表するビッグ・メゾン「シャネル」の創始者・デザイナーであり、革新的とも評されるコレクションによって、モード界のみならず社会全体に広く影響を及ぼしてきました。その生涯や功績について解説します。

不幸な生い立ち

ココ・シャネル(Coco Chanel)の愛称で知られるファッション・デザイナー、ガブリエル・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel)が生まれたのはフランス西部にあるソミュール(Saumur)という都市です。12歳になる前に母親が病死したのち、3人の姉妹とともに修道院へ送られることとなります。

18歳になるとムーラン(Moulins)という町でお針子として働き始めるかたわら、歌手を夢見てキャバレーなどで歌っていました。“ココ”という名前は、当時歌っていた歌詞や題名にちなんでつけられたといわれています。

その後、温泉保養地として知られるヴィシー(Vichy)という町に移ります。やはり歌手を目指してオーディションを受けるなどの活動を続けますが、叶わず夢を断念。当時付き合っていた将校エティエンヌ・バルサン(Étienne Balsan)とともにパリへ移りました。

シャネルの起業

バルサンの友人達の社交場となっていた牧場で、持て余していた時間を使い帽子のデザインを始めます。これが評判となり、バルサンの資金援助を受けてパリ17区のマルゼルブ大通りにアトリエを開きます。1909年のことでした。

さらに翌年にはパリ1区カンボン通りに帽子店をオープンします。「シャネル・モード(CHANEL MODES)」と名付けられた店は好評を博し、シンプルで優雅なデザインはトレンドに敏感なパリっ子のあいだで話題となりました。これがシャネル(CHANEL)の始まりです。

1913年にはフランス北部の町ドーヴィル(Deauville)に2号店を、1915年にはフランス南部のコミューン、ビアリッツ(Biarritz)にクチュールハウス「メゾン・ド・クチュール(Maison de Couture)」をオープン。ドレスにジャージー素材を取り入れるなど、斬新なコレクションは人気を集め、大成功をおさめました。さらに1921年には、現代でも人気を博す「No.5」と「No.22」2種類の香水を発表します。

新たな取り組み

シャネルが興隆を極めていた当時、ココ・シャネルはミシア・セール(Misia Sert)が主宰した芸術サロンに通い、ピカソ(Pablo Picasso)ら画家や、コクトー(Jean Cocteau)のような詩人、小説家、ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky)ら音楽家などと交流を重ねます。

1924年には第2代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー(Hugh Lupus Grosvenor)との交際を開始。ココ・シャネルは、模造パールなどの模造宝石を使ったアクセサリー、「ビジュー・ファンテジー(Bijoux Fntaisie)」を発表します。公爵から贈られた宝石からヒントを得たといわれているこのコレクションは、素材ではなくクリエイティビティに価値をおいたことで、ジュエリーの価値観を変えたとして現在でも高く評価されています。

また、1930年代の初め頃には100万ドルという莫大な契約金でアメリカ映画界に進出。グロリア・スワンソン(Gloria Swanson)が主演する映画の衣装制作にも携わりました。

第二次世界大戦が勃発すると、フランスはドイツ軍に占領されます。ココ・シャネルはドイツ親衛隊少将と懇意になったり、ゲシュタポの高官の愛人になったりすることで不自由のない暮らしをしていました。ココ・シャネルは反ユダヤ主義者でもあり、スパイとしても活動していたことから、フランスが解放されるとすぐに逮捕され、売国奴として国中の非難を浴びることになります。

リトル・ブラック・ドレス:女性の解放

ココ・シャネルは、1910年代から1920年代にかけての女性服に用いられていたコルセットに対して、どうして女性は窮屈な思いをしなくてはならないのかという疑問を抱いていました。

1926年に発表されたリトル・ブラック・ドレス(Little Black Dress)はコルセットがないばかりか、当時は喪服以外に用いられることが極めて稀であった黒、一色で仕上げられていました。ココ・シャネルによるリトル・ブラック・ドレスが契機となって、その後、黒という色が女性服に使われる色として広く認知されていくことになります。

スカートの丈を短くしたのもココ・シャネルのデザインにおいて重要な点でした。上品さに欠けるなど批判的な意見も多かった一方で、歩きやすく動きやすい服は女性のあいだで強い支持を集めます。ショーにおいてはポケットに手を入れるよう、モデルに指示するなど自立した女性を表現する斬新なスタイルを提案。ココ・シャネルは、新しい価値観によって女性を解放したといえるでしょう。

シャネル・スーツ:ファッション界への復帰

第二次世界大戦後の混乱を避けるようにしてスイスで亡命生活を送っていたココ・シャネルは、1954年にパリに戻りファッション界にカムバックを果たします。翌年には、イギリスの紳士服に使われている素材や仕立て方法を取り入れ、よりシンプルで動きやすい、新しい女性服としてシャネル・スーツを発表しました。

ところが当時はクリスチャン・ディオールによる、ゆるやかな肩のライン、細いウエストとロング丈のフレアースカートによって特徴づけられる「ニュー・ルック」が大流行していた時期。かつてシャネルが否定したデザインそのものであり、ココ・シャネルに対する嫌悪感が残っていたこともあり、新しいコレクションはヨーロッパでは酷評されてしまいます。

実用的なシャネル・スーツを受け入れたのは、ココ・シャネルやナチスドイツに対する忌避感がやわらいでいたアメリカの女性たちでした。のちにモナコ公妃となるグレース・ケリー(Grace Patricia Kelly)、ジャクリーン・ケネディ大統領夫人(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy)などのセレブリティが、ブレードで縁取りをあしらったウールツイード素材の、アール・デコ調スーツを積極的に着用。すでにマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)がシャネルの香水「No.5」を愛用していたことでブランド・イメージが向上していたこともあり、女性たちのあいだで爆発的な支持を集めることになります。

ウールツイードは当時、男性用の素材と考えられていました。これを女性用のスーツに取り入れたという意味でもシャネル・スーツは画期的でした。同様に、男性のものであったパンツを積極的に女性向けに提案したこともココ・シャネルの大きな功績の一つに数えられるでしょう。

死とその後のシャネル

1971年、ココ・シャネルは自宅として使用していたパリのヴァンドーム広場に面するホテル・リッツ(Hôtel Ritz)の一室で亡くなります。当時87歳でした。第二次世界大戦中にスパイ活動などでナチスドイツに協力したことを理由に高級墓地への埋葬が許されず、スイスのローザンヌにある墓地に埋葬されました。墓石の前には、ココ・シャネルの遺言通り、白い花が植えられています。

ココ・シャネルが没したあと、シャネルの経営権はビジネス・パートナーであったヴェルテメール一族(Wertheimers)に委ねられますが、経営に乗り気でなかったこともあり、シャネル・ブランドは低迷。ところが、1983年に当時新進のデザイナー、カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)がシャネルのデザイナーに就任したことで経営が建て直され、人気が復活し現在にいたっています。

最後に

孤児院で育ち、たった一代でトップ・ブランドを築き上げたココ・シャネル。その波乱万丈の人生のなかで生み出してきた多くの斬新な試みによって、女性を解放した、ファッション界に革命を起こしたなど高く評されています。現在もそしてこれからも、モード界にとどまらず社会全体に影響を与えるその功績の偉大さを私たちは折に触れて目にすることになるでしょう。

出典:
【ウィキペディア】ココ・シャネル 2021.02.08
【ウィキペディア】Coco_Chanel 2021.02.08
【ウィキペディア】coco-chanel2021.02.08

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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