アルフレッド・スティーグリッツ:近代写真の父

アルフレッド・スティーグリッツは「近代写真の父」と称されるアメリカの写真家です。ニューヨーク在住の芸術思考のある写真家たちを集めて「フォト・セセッション」を結成したことでよく知られています。

アルフレッド・スティーグリッツとは

アルフレッド・スティーグリッツは1864年、アメリカ合衆国ニュージャージー州に生まれました。両親はドイツ系ユダヤ人で、非常に裕福な家庭で子ども時代を過ごしました。

1871年にニューヨークの難関私立学校、チャーリー・インスティチュートに入学します。その後ニューヨーク市立大学への入学資格を得るために公立の高等学校に入学しますが、入学資格が不十分であることが判明し、ヨーロッパで教育を受けることになります。

スティーグリッツはベルリンの技術高等学校の機械工学科へ入学し、科学者で研究者であったヘルマン・フォーゲルのもとで科学を学びます。フォーゲルは写真を現像するプロセスを研究テーマとしており、この時にスティーグリッツは写真に興味を持つようになります。初めて自分のカメラを購入したスティーグリッツは、ヨーロッパの田舎で風景や農民たちを撮影してまわりました。その中でも特に興味を引かれたのはドイツとオランダで、数多くの写真が残っています。

その後スティーグリッツは写真雑誌に論考を投稿するなどの活動をし、写真家としての地位を高めていきます。資料収集と研究を積み重ねることで培った独自の表現方法で、数々の賞を受賞し、スティーグリッツの名前は世界的に有名になっていきました。

1890年にスティーグリッツはアメリカに帰国し、ニューヨークで写真製版業を営むようになります。しかし、会社は高品質の写真を現像することをポリシーとしていたため、ほとんど利益が出ませんでした。またそれに加えて、スティーグリッツの父が事業に失敗してしまい、彼は経済的苦境に立たされます。
このころ、スティーグリッツはエマニュエル・オーバーマイヤーと結婚します。しかしスティーグリッツは彼女を愛しておらず、彼女が父親から受け継いだ財産目当ての結婚だったといわれています。そして実際に結婚後、スティーグリッツは妻の財産を自身の事業につぎ込みます。

(Public Domain /‘A Snapshot: Paris, 1911’ by. Alfred Stieglitz Image via Wikimedia commons)

写真グループ「フォト・セセッション」

1902年にスティーグリッツは、エドワード・スタイケンらと写真家集団「フォト・セセッション」を結成し、ピクトリアリスムという手法を広めてゆきました。ピクトリアリスムとは、写真技術の分野において科学者と写真家が同じくくりで扱われていることに不満を持った写真家たちが起こした運動、また、それを主張するための新しい写真の手法のことを指します。ピクトリアリスムには、空気遠近法を意識して近景にはっきりしたものをおき遠景をあいまいにする、地平線の位置を厳格に合わせるといった特徴があります。

1902年にはフォト・セセッションの展示がアーツ・クラブで開催され、大きな反響を呼びました。これで自信を得たスティーグリッツは、フォト・セセッションの評価をより高めるためにピクトリアリスム専門の写真雑誌『カメラワーク』を創刊します。ただ写真を載せるだけではなく、芸術論や作家への批評や解説なども掲載する雑誌で、年4回刊行されていました。

(Public Domain /‘The Terminal’ by. Alfred Stieglitz Image via Wikimedia commons)

ギャラリー291

しかしこうしたハードワークがたたり、スティーグリッツは体調を崩してしまいます。1904年には休養のためにヨーロッパ旅行に出かけますが、ベルリンに到着すると大きく体調を崩してしまい、1カ月以上の休養を取ることになります。

その後帰国したスティーグリッツは、フォト・セセッションのメンバーが展示するためのスペース「ギャラリー291」を開きます。「291」という数字はニューヨークの5番街291番地に開設されたことに由来しています。当初は単なる「フォト・セセッションの小ギャラリー」(Little Galleries of Photo-Secession)という名前でしたが、後に「ギャラリー291」に変更しました。

ギャラリー291ははじめこそフォト・セセッションのための展示スペースでしたが、次第にヨーロッパの前衛美術の作家のロダンやマティス、ピカソなどといったアーティストもここで展示を行うようになります。
また、アメリカの前衛美術を盛り上げてゆくための場としての役割もはたします。このスタイルがのちのアーモリーショーやニューヨーク・ダダへとつながっていったと考えられています。

ジョージア・オキーフとの出会い

1916年にスティーグリッツはジョージア・オキーフと出会います。当時のオキーフの作品は木炭のドローイングで、彼女のポートレートを見たスティーグリッツは一目でその世界に引き込まれます。そして、オキーフの許可を得ることのないままギャラリー291での展示企画を始めてしまいます。それを知ったオキーフはスティーグリッツに抗議しますが、これを機に二人は手紙をやり取りする中になります。スティーグリッツはすでに結婚していたものの、当時の妻とは別れ、1924年に二人は結婚。公私ともにパートナーとして作品を生み出してゆきました。

1938年スティーグリッツは深刻な心臓発作を起こし、以後8年間後遺症に苦しめられます。1946年に脳卒中を起こし昏睡状態になり、メキシコで制作活動を行っていたオキーフは急遽帰国、友人や家族など20人に囲まれて「近代写真の父」は生涯の幕を閉じました。

おわりに

アルフレッド・スティーグリッツはニュージャージー州に生まれましたが、市立大学の入学資格を持っていなかったことからヨーロッパに渡ります。当時はまだ未開拓だった写真というものの芸術性を切り開いた人物で、作品はひとつひとつが厳密な計算のもと撮影され、高い評価を受けました。

またスティーグリッツは若い芸術家たちを巻き込んで「フォト・セセッション」を設立、ピクトリアリスムの芸術性を高めていきます。またフォト・セセッションのメンバーが展示するスペースとして「ギャラリー291」も開設。当初こそフォト・セセッションのグループの展示スペースでしたが、徐々に前衛芸術家たちの作品を紹介する場所になってゆきました。スティーグリッツは写真家としてもすぐれた人物でしたが、グループを設立し、アーティストを紹介するといった経営者としてのスキルも兼ねそなえていました。

第二次世界大戦で戦地にならなかったおかげで、当時のアメリカではさまざまな芸術が花開きました。ニューヨーク・ダダや抽象絵画といったスタイルが生み出された背景には、ギャラリー291の存在があり、アルフレッド・スティーグリッツがいたのです。スティーグリッツは「近代写真の父」と称されていますが、「アメリカ前衛美術の父」と称しても過言ではないかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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