パウル・クレー:色彩と線のリズム

パウル・クレーはスイスのベルン近郊に生まれた20世紀を代表する画家です。カンディンスキーらと共に「青騎士」を結成し、バウハウスで教鞭をとっていたこともあり、後世の画家たちに多大な影響を及ぼしました。

パウル・クレーとは

パウル・クレーは1879年にスイスのミュンヘンブーフゼーに生まれました。父親は音楽教師で母親も声楽を学んでおり、クレー自身も早くからヴァイオリンを学びます。11歳でベルン音楽連名の特例会員になり、オーケストラにも参加するほどの腕前でした。両親はクレーが音楽家になることを望んでいましたが、彼自身は現代音楽に興味を持てず絵画の道を選びます。

1890年にはミュンヘンの美術アカデミーに入学し、象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックのもとで学びます。しかしアカデミーの画一的な教育はクレーには合わなかったようで、1年後の1891年には退学してしまいます。この頃の彼はドローイングの成績は良かったものの、まだ色彩についてはあまりいい成績を収めていなかったことが知られています。

アカデミーを辞めたクレーは友人と共にイタリアを旅行しました。ローマ、フィレンツェ、ナポリに滞在して古典巨匠の作品を研究した後に、ベルンに戻り芸術教室を開講します。このころからクレーは新しい画法の研究をしており、黒いガラス板に針で絵を描くという手法を開発します。

1906年にピアニストのリリー・スタンフと結婚、長男フェリックスが生まれます。リリーはピアノ教室を開き、クレーは詳細な育児日記をつけるほど熱心にフェリックスの育児をします。そしてその傍ら、自宅で制作を続けていました。のちにフェリックスは「パウル・クレー財団」を設立し、スイスでクレー作品の保存活動に努めるようになります。

そして、1911年にアウグスト・マッケやワシリー・カンディンスキーと出会い、前衛芸術運動「青騎士」に参加します。青騎士とはワシリー・カンディンスキーやフランツ・マルクを中心とした表現主義の画家たちによる芸術運動のことです。活動期間は1911年から第一次世界大戦が始まる1914年までの3年間と短いですが、その後の芸術の発展に大きな影響を与えたことで知られています。
クレーは1912年2月11日から3月18日までゴルツ画廊で行われた青騎士の展覧会に参加し、17点の作品を展示しました。

1914年にクレーは北アフリカのチュニジアを訪問します。チュニジアにあふれる色彩に衝撃を受け、

色彩は、私を永遠に捉えたのだ

(引用:wiki)

とその時のことを語っています。この旅行の経験をきっかけに、クレーの絵は色彩豊かなものへと一変します。このころ《木のリズム》や《ハマメットのモチーフ》などの作品が作られました。これらの作品からは絵を描くというより、切り取られた色彩を置いていくといった印象を受けます。

同年には第一次世界大戦が勃発し、クレーを含む多くの芸術家たちも徴兵されました。友人であったマルクやマッケが戦死してしまい、彼は深い悲しみを受けます。そして、その後戦争をテーマとした作品を多く制作するようになりました。

1919年、クレーはシュトゥットガルトの美術アカデミーで教職に就きます。これはうまくいきませんでした。しかし、同じ年にミュンヘンの画商ゴルツと3年間の契約を交わしたことで画業は大きく躍進します。彼の作品を300点以上も展示する回顧展が行われ、クレーの作品は広く知れ渡ることになりました。

1921年から1931年までヴァルター・グロピウスに招かれてバウハウスで教鞭をとる傍ら、製本技術やステンドグラス作成、壁画のワークショップなどを行い、自らも絵画理論の研究に勤しみました。バウハウスでの講義の内容や彼の現代美術に対する考え方は「パウル・クレー・ノートブック」などの著書にまとめられ、現在でも多くの人に読まれています。バウハウスを退職した後、1931年からデュッセルドルフの美術学校で教授職に就きます。しかし1933年にナチス政権が成立し前衛芸術が「退廃芸術」と呼ばれ弾圧されるようになると、クレーは家族と共に故郷であるスイスのベルンに亡命します。

亡命してからはドイツ国内の銀行口座が凍結されたり、皮膚硬化症という難病に苦しめられたりするという厳しい生活を送ります。しかし、彼はその激動の一年間に1200点以上もの作品を制作します。これは、彼の人生で最も多作な時期と言えます。《泣いている天使》《忘れっぽい天使》など様々な「天使」を描いたシリーズもこのころに制作されました。

クレーの作品

ナチスによる迫害や従軍など、歴史の荒波に苦しめられながらも制作活動を行ったクレー。
そんな彼の主要な作品とその背景や読み解き方をご紹介します。

《襲われた場所》 1922年

《襲われた場所》はクレーの作品の中でも特に重要だとされているもののひとつです。背景に施されたグラデーションが、時間の経過を表しているといわれています。また《襲われた場所》というタイトルから想像できるように、この作品は第一次世界大戦をテーマとして描かれた作品であると考えられています。

大きく描かれている矢印にもグラデーションが用いられ、先端にゆくにつれ色が深まっています。矢印は街に向かって墜落する飛行機を表し、グラデーションがそのスピードや衝撃を表しているのでしょう。

(CC0 /‘Tail Arahoffman’ by Paul Klee. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

《ホフマン風メルヘンの情景》 1921年

《ホフマン風メルヘンの情景》はオッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」に着想を得た作品だといわれています。
クレー特有の黒い「線」で舞台上の様子が描かれています。そしてその線は単純な一本ではなく、途切れたり、太くなったり細くなったりしています。このことから、クレーが線を引くということに対して並々ならぬ思い入れがあったことが伺えます。また、背景の色彩は線ではなく色そのもの、もしくはオペラの響きそのもののようにも思えますが、このようなものを表すためには線が用いられていません。

《ポリフォニックに囲まれた白》 1930年

「ポリフォニー」とはバッハ以前の時代に流行した、複数の独立したメロディーが絡み合う音楽のことです。
この作品は青、赤、オレンジの3色の水彩絵の具のみが使われていて、その3色を上塗りしてゆくと、重なった部分で新しい色が生まれます。パレットの上で完成された色を載せるのではなく、キャンバスの上で重なって自然に生まれた色彩と、それに囲まれた「白」。白というものの存在が際立ち、神秘性を感じさせるものに見えてきます。

クレーの最期

クレーは1940年に亡くなり、ベルンのショスハルデン墓地に埋葬されました。墓石には、

この世では、ついに私は理解されない。なぜならいまだ生を享けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから

(引用:wiki)

という言葉が刻まれており、クレーの人生観が伺いしれます。

クレーの作品はカラフルな色彩と素朴な構成で描かれていることから、わかりやすく単純なようにも見えます。しかしその背景には、音楽と深く繋がった芸術理論や色彩理論が組み込まれているのです。作品の一つ一つにそうした「しかけ」のようなものがあり、それぞれを読み解くことでより深くクレーの世界を楽しむことができるでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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