ヨハネス・イッテン:バウハウスと教育

(Public Domain /‘Bildnis Itten’by Hermann Stenner. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ヨハネス・イッテンは1888年スイスのベルンに生まれた芸術家であり、バウハウスの教育者でもあった人物です。主に色彩論や造形論でも知られており、バウハウスの予備課程を担当したことから、多くの者たちがイッテンのもとで学び、巣立っていきました。そんなイッテンの教育とはどのようなものだったのでしょうか。

■ヨハネス・イッテン

ヨハネス・イッテンは1888年スイスのベルンに生まれました。1904年から1908年まで教育者になるための教育を受け、主に初等教育の教師として働いていました。イッテンは教師として働きながらも芸術に関心を持ち、青騎士や分離派、またのちにバウハウスに集まる芸術家たちと交流を持つようになります。
1919年にはバウハウスの創設者であったヴァルター・グロピウスの招聘を受け、バウハウスのマイスターとして予備課程を担当することになります。しかしイッテンの精神主義的ともいえる教育理念が原因でグロピウスと対立し、1923年には解雇されています。

■バウハウスとは

ここで、イッテンが教鞭をとったバウハウスについて確認しておきましょう。バウハウスは1919年、ヴァイマル共和制期にドイツのヴァイマルに設立されました。工芸や写真、デザインなど美術や建築に関する総合的な教育を行った学校であり、のちの近代美術に大きな影響を及ぼしました。
バウハウスの教授陣は多種多様で、初期の教育は機能主義的なものから神秘主義、精神主義、または手工芸的なものに至るまで、さまざまな内容が混在している状態でした。
イッテンは予備課程を担当していましたが、その教育内容が神秘主義的であったことからグロピウスと対立するようになり、1923年にはイッテンがバウハウスを辞めることになります。その後はモホリ=ナジ・ラースローが就任し工業デザインや大量生産に適した合理主義的、機能主義的な教育が行われていきました。
その後ナチスの台頭に伴ってバウハウスはナチスを中心とした右翼勢力に敵視されるようになり、1933年にはミース・ファン・デル・ローエによって解散させられてしまいます。その後はモホリ=ナジがシカゴ芸術産業協会に招かれ、ニュー・バウハウスが設立、モホリ=ナジの教育方式は1949年にイリノイ工科大学に引き継がれ、バウハウスの教えはアメリカへも広がっていきました。

■イッテンの色彩論

ヨハネス・イッテンは「色彩の芸術」という色彩論集を書いており、この本は「この書をわが愛する学生諸君に贈る」というイッテンからのメッセージから始まっています。イッテンはさまざまな観点から色彩について論じているものの、全体的に「3つの観点」から色彩美学は語られると考えています。
ではその3つの観点とは、どういったものを指すのでしょうか。これは「視覚的」「感情的」「象徴的」という3つにまとめられています。例えば「赤」という色を選ぶ場合、人はどのような観点で選ぶでしょうか。赤はどんなところでもアクセントになる、目立つ色です。つまり「目立つから」という視覚的な理由によって赤を選ぶ場合もあるでしょう。また赤はエネルギッシュなイメージであることから「情熱的な色である」というイメージを持っている人は多いと思います。そうした感情的な観点で赤を選ぶ方もいるはずです。
こうした理論に加えて、色彩の三原色である赤、青、黄を基本として12色相環を位置付けた色相環、その色相環の分割法であるダイアードやスプリットコンプリメンタリー、トライアドなどイッテンの色彩論は理論的、あるいは数学的と言えるものでした。
こうしたイッテンの色彩論は現代の美術やデザインの根幹となり、現在も色彩のバイブルとして世界中の作り手たちが学び続けているのです。

■バウハウスのその後

ナチスドイツの台頭と第二次世界大戦によってドイツは東西に引き裂かれ、バウハウスの関係者の多くは活動を国外に移し、アメリカに亡命するものも現れるなど、バウハウスの継承は長きに渡り難しい状況にありました。

バウハウス大学

しかし東西併合後、バウハウスのヴァイマル校舎はバウハウスの流れをくむ国立の総合芸術大学として再編されることが決まり、1996年には建築やデザイン、土木工学、そしてメディアの4つの領域を学ぶ場としてバウハウス大学として新たにスタートすることになりました。ヴァイマル校舎自体は旧東ドイツ時代、建築・土木工科大学として機能していたものの、このバウハウス大学の設置によってさまざまな領域を横断しながら新たな芸術を目指すコースも設置され、これからのデザインや芸術をリードする大学となっていきました。

バウハウス・デッサウ校

また1999年にはバウハウス・デッサウ財団管理のデッサウ校舎で理事長を務めるオマー・アクーバーが実験的教育機関「バウハウス・コレ―グ」を設立。都市をテーマとしてメディアや建築、アートやデザインなど専門知識をもった20人前後の学生たちが学ぶ場として大きな注目を集めました。従来のバウハウスは「すべては建築に収束する」としていたのに対し、テーマを「都市」としたことから、より包括的に21世紀のアートや建築、デザインを考える場として実験的な試みが行われています。

■イッテンの教育とその後

ヨハネス・イッテンは当時の前衛芸術に触れ、バウハウスでは色彩論を中心に造形教育や色彩教育を中心に独自の教育を展開した人物です。その考え方は精神主義とも捉えられるものであり、バウハウスの校長であったグロピウスとは袂を分かつことになってしまいます。
イッテンはその後1926年にベルリンで「イッテン・シューレ」といわれる学校を設立します。この学校には遠く日本からの留学生もおり、イッテンの影響力が伺えます。イッテン・シューレは1934年に閉鎖されますが、戦時中はスイスにとどまり、戦後も作品制作を継続し、生涯にわたって芸術と教育に身を捧げました。
近代芸術の底上げを図ったといっても過言ではないバウハウス。そのバウハウスで教えた、あるいは学んだ者たちは世界中に散らばり、さまざまな傑作を作り上げていきました。その背景にはイッテンの芸術への深い愛と教育への情熱があったのです。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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