ワーグナー:自由すぎる「歌劇王」

さて、今回はワーグナーについてお話しします。ワーグナーはクラシック音楽の歴史において非常に大きな功績を残しただけでなく、思想や哲学といったような分野でも活躍したという点において、他のクラシックの作曲家とは一線を画していると言えるでしょう。

また、ワーグナーと言えば、派手な女性関係や自由すぎる発言など、話題に事欠かない人物でもありました。今回はそうしたワーグナーの生涯や彼の代表曲について見ていくことにしましょう。

<ワーグナーの生涯>

~生い立ち~

ワーグナーの生家(Public Domain /‘Birth house of Richard Wagner in Leipzig’by Hermann Walter. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

リヒャルト・ワーグナーは1813年、ザクセン王国(現在のドイツ)のライプツィヒで生まれました。父のカール・ワーグナーは下級官吏として働きつつ、得意のフランス語を活かし、ナポレオンが率いるフランス軍との間の通訳としても働いていました。
しかしながら、父カールはリヒャルトが生まれて間もなくこの世を去ってしまいます。そして母ヨハンナはすぐにカールと親交の深かった俳優のルートヴィヒ・ガイヤーというユダヤ人と再婚しました。
ワーグナー一家はみな音楽を愛しており、家族で演奏会を開いたりと、幼少期から音楽に親しんでいたようです。リヒャルト自身だけでなく、その他の兄弟もその後音楽家として生計を立てていきました。

カール・マリア・フォン・ウェーバー(Public Domain /‘Carl Maria von Weber’by Ferdinand Schimon. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

こんなにもワーグナー兄弟が音楽の世界へとのめり込んだのにはワーグナー一家と長年の付き合いがあったウェーバーの影響も大きかったようです。ウェーバーと言えば、当時のドレスデン宮廷歌劇場音楽監督を務める時代を代表する大音楽家でした。クラシック音楽の歴史においても大変重要な人物です。
ワーグナー少年はそんなウェーバーに対して強いあこがれを抱いていたようです。そして、ウェーバーへの畏敬の念は一生にわたって続きました。自信家のワーグナーにとってこれは異例のことだと言えます。ウェーバーはワーグナーにとってまさに「師匠」だったのです。
ワーグナーは15歳の時にベートーヴェンの作品に感銘を受け、音楽家として生きていくことを決意します。のちに「歌劇王」と呼ばれることになるワーグナーですが、このころから劇に対しても強く関心を寄せていたようです。
そんなワーグナーが特に気に入っていた曲がベートーヴェンの交響曲第9番でした。最後の部分が合唱になっているこの曲を気に入るところなど、とてもワーグナーらしく思われます。
ワーグナーは17歳の時、この作品を自らピアノ版に編曲し、それを出版社までもっていったほどです。しかしながら、このころのワーグナーはまだ作曲家として未熟であったため、残念ながら、出版には至らなかったようです。

~様々なことに挑戦し続けた青年時代~

そしてワーグナーは18歳になると地元のライプツィヒ大学に進学します。ワーグナーはここで音楽論だけではなく、哲学や思想についても学びました。しかしながら、我の強い性格が災いしてしまったのでしょうか。彼は数年後にライプツィヒ大学を中退してしまいます。
ワーグナーはライプツィヒ大学在学中に自身が初めて手掛けた交響曲である「交響曲第1番ハ長調」を完成させます。そして同年、最初の歌劇「婚礼」という作品も完成させました。これらの作品が認められ、ワーグナーは1833年にヴェルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者に任命されます。

こうして音楽家としてまずまずのスタートを切ったワーグナーでしたが、彼の本当にやりたいことは指揮者ではありませんでした。指揮者の仕事はあくまで生活していくための「仕事」に過ぎなかったのです。そして、ワーグナーは指揮者の仕事の傍ら、歌劇作曲家としての制作に取り掛かります。しかしながら、歌劇作曲家としてはなかなかうまくいかない日々が続きました。
またこのころ、ワーグナーは最初の論文を新聞に寄稿しています。その中で「イタリア音楽やフランス音楽に対して、ドイツ音楽というのは学識的ではあるが、実際の生活や民衆の声とは遠くかけ離れたものとなっている」と論じました。ワーグナーは自分の考えを外に発信することがとにかく大好きな性格だったようです。
1834年には今度はマクデブルクという町の劇団の指揮者となり、当時女優として活躍していたミンナ・プラーナーと出会います。ワーグナーはミンナとほどなくして恋仲となります。

(Public Domain /‘Portrait of Minna Planer’by Alexander von Otterstedt. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

しかしながら、それからほどなくしてワーグナーは劇団の解散により指揮者の職を失い、またミンナは別の町の劇団で働くことになります。それでもワーグナーはミンナの後を追って同じ町に暮らすようになり、ついに二人は結婚します。
しかしながら、ワーグナーとミンナの関係は次第に冷え切ったものとなっていったようです。ワーグナーはミンナを独占したいという欲望がありながらも不倫を繰り返し、一方のミンナも愛人と駆け落ちを繰り返すという非常に不安定な状況でした。
そんな荒れた私生活を送っていたワーグナーですが、このころは各地を転々としながら劇場指揮者として生計を立てていたようです。

~パリでの生活~

ドイツで一定の評価を得たワーグナーは、紹介状をもってパリで当時活躍していたユダヤ人作曲家のマイアベーアのもとを訪ねます。マイアベーアは銀行家の息子で、そのころすでに劇場作曲家として非常に高名な存在でした。後にベルリン宮廷歌劇場音楽監督も務める人物です。

ジャコモ・マイアベーア(Public Domain /‘Portrait of Giacomo Meyerbeer (1791-1864)’by Daniel John Pound. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1839年、マイアベーアはワーグナーをオペラ座支配人として推薦しました。しかしながらその推薦もむなしく、ワーグナーはオペラ座支配人の座を手にすることはできませんでした。これにはワーグナー夫妻そろって絶望したようです。
そして、その影響もあり、このころからワーグナーはマイアベーアに対して不信感を抱くとともに、ユダヤ人のことを敵対視するようになります。
しかしながら、その後マイアベーアがワーグナーの作品を賞賛し、彼に金銭的支援をするようになると、ワーグナーの言動は一変します。ワーグナーはたちまちマイアベーアは感情の素朴さや曇りのない良心を兼ね備えた素晴らしい作曲家であると言い始めるのです。
このことからわかるように、ワーグナーの発言は生涯にわたって一貫性の無いものが多いのも特徴です。その時その時の出来事によって一喜一憂する非常にわかりやすい性格の持ち主であったのでしょう。
ただこの後、ワーグナーはマイアベーアがサクラを動員したり、ジャーナリストを買収して自分の良い評判を書かせたりしていることを知ると、すぐさま彼のことを「計算ずくのペテン師」と呼ぶなど、ワーグナーはこの後もマイアベーアに対して賛成の立場と反対の立場を入れ替わり立ち代わり取ることになります。
こうして、ワーグナーはしばらくパリで創作活動を続けますが、残念ながらパリで芽が出ることはありませんでした。そして彼はパリを去り、再びドイツへと帰国することとなります。

~帰国後~

失意のうちにパリでの生活を終えたワーグナーですが、帰国の理由は悪いものではありませんでした。というのも、ワーグナーが作曲していた「リェンツィ」という作品を、当時完成したばかりのドレスデン国立歌劇場で上演することが決まったのです。この曲の成功を受けて、ようやくワーグナーは注目を浴びることとなります。

その後も敬愛していたウェーバーの遺骨を移送する式典の演出をするなど、着実にキャリアを積み上げていったワーグナーですが、1846年にはついに彼の夢が叶うこととなります。彼の大好きなベートーヴェンの交響曲第9番を復活祭直前の日曜日の演目として演奏することが決定したのです。
それまでベートーヴェンの交響曲第9番というのは今では考えられないほどマイナーな曲であったため、当初は猛反対を受けたようです。しかしながら、ワーグナーは入念に練習とリハーサルを重ね、この演奏会を見事に成功させてみせました。勢いに乗ったワーグナーはさらに「ローエングリン」という自身の代表作も作曲しています。

~指名手配、そして逃亡~

(Public Domain /‘1848 revolution in Berlin.’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そんなワーグナーですが、1848年のドイツ三月革命にも参加します。1949年にはドレスデン蜂起に参加し、前線で主要な役割を果たしましたがこの運動は失敗に終わり、ワーグナーはドイツ国内で指名手配されてしまいます。
フランツ・リストの力を借りなんとかスイスへと逃亡することに成功しますが、1962年に恩赦が下りるまでの間、ワーグナーは亡命生活を余儀なくされます。
亡命先でもワーグナーは数々の作品を生み出しましたが、引き続き論文の執筆にも精を出しました。ワーグナーは亡命先でもドイツという国のあるべき姿について論じ続けたのです。
一方ワーグナーがスイスに逃亡している間、母国ドイツではリストの指揮によって自作である「ローエングリン」の初演が行われました。最初こそ不評だったものの、演奏を重ねるごとにどんどん評価が上がっていき、ワーグナーの代表作となりました。

「ローエングリン」の成功を伝え聞いたワーグナーは思わず、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ。」と嘆いたそうです。

~帰国後~

ルートヴィヒ二世(Public Domain /‘Ludwig II of Bavaria with coronation mantle’by Ferdinand von Piloty. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1862年、ワーグナーはザクセンでの指名手配を解かれ、ようやく母国に帰ることができました。そして1864年にはバイエルン国王ルートヴィヒ二世から招待を受けるのですが宮廷内や国民からの批判が強く、翌1865年にはまたスイスへ退避することに。

(Public Domain /‘Richard and Cosima Wagner’by Fritz Luckhardt. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

というのも、そこには愛人の存在があったからです。そしてその相手コジマはなんとリストの娘でした。当時、ワーグナーとコジマはお互いに惹かれあっていき、気づけば恋仲になっていましたが、お互いに既婚者でした。それにもかかわらず、2人はついに子供まで儲けてしまいます。
そして、ワーグナーは妻のミンナが病死すると、すぐにコジマも夫と離婚し、2人は結ばれたのでした。

~バイロイド祝祭劇場の建設~

バイロイト祝祭劇場

あまりにも大胆な再婚を果たしたワーグナーですが、彼の晩年を代表するイベントが「バイロイト祝祭劇場」の建設です。ワーグナーはルートヴィヒ2世から援助を受け、自分の作品を上演するための劇場を建造したのです。
1876年、初演の『ニーベルングの指環』が華々しく上演されましたがワーグナーは満足することができず再演を希望しましたが、結局金銭的な理由から生前に果たされることはありませんでした。

~ワーグナーの最後~

ワーグナーは晩年まで精力的に活動していましたが、その死は突然のものでした。1883年、ヴェネツィアで旅行中に急死してしまいました。心臓発作が原因だったようです。享年69歳でした。
生涯にわたって多くの敵を作ってきたワーグナーでしたが、敵味方関係なくすべて人が彼の死を悼みました。

<ワーグナーの残した代表曲>

「ローエングリン」

結婚式でもよく流れる曲の一つです。のびのびとして華やかな作品です。

「ニーベルングの指輪」

これは歌劇としても非常に有名な作品です。歌劇の方も見てみると、より作品の背景を深く理解することができるのではないでしょうか。

<最後に>

さて、今回はワーグナーという人物についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。派手な女性関係や敵を作りやすい自由な発言など、個性が強い作曲家でしたが、「ワグネリズム」と呼ばれるブームを作りだすほど、同世代、そして後世の作曲家に多大な影響を与えた作曲家でした。
そんな彼の音楽と他の作曲家の作品を聞き比べて類似点がないかを考えてみるのも興味深いのではないでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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