ラヴェル:管弦楽の魔術師

(Public Domain /‘Maurice Ravel 1925’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

モーリス・ラヴェルという作曲家をご存知でしょうか。モーリス・ラヴェルは「管弦楽の魔術師」や「オーケストレーションの天才」と呼ばれ、その構成力を高く評価されてきた作曲家です。

そんなラヴェルですが、彼の生涯というのは他の作曲家のように華々しい活躍が続いていたわけではありません。彼がどのような人生を送ってきたのかについて、そして彼の代表曲にはどのようなものがあるかをご紹介していきます。ぜひ最後までお読みください。

<ラヴェルの生涯>

生家の対岸で写真に写るラヴェル(Public Domain /‘Ravel Ciboure 1914’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

モーリス・ラヴェルは1875年にフランスの南西部のバスク地方のシブールという街で生まれました。この地域はフランスでスペインに最も近い場所です。ラヴェルの母はバスク人であり、一方父はスイス出身の発明家兼実業家でした。
ラヴェルの父は大変な音楽好きであったようで、ラヴェルは6歳になるころにはピアノのレッスンを受け、また12歳にして作曲の基礎的な理論も学んでいたそうです。そして息子が音楽の道に進むことを決めた際には息子の才能を信じ、迷わずパリ音楽院へと送り出します。パリ音楽院というのは現在でも音楽院の最高峰であり、その期待の大きさというのが伺えます。

(Public Domain /‘Theatre du Conservatoire Paris CNSAD’by Charvex. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ラヴェルはこの後、14年にわたって音楽院に在籍することになるのですが、同時期の音楽院にはガブリエル・フォーレのような著名な音楽家も講師として在籍しており、ラヴェルの才能をはばたかせるのには最適な環境でした。

(Public Domain /‘Classe Bériot 1895’by Eugène Pirou. Image viaWIKIMEDIACOMMONS)※左端の人物がラヴェル

パリ音楽院はヨーロッパ中の音楽エリートが集う場であり、ラヴェルは同世代の才能あふれる芸術家たちと充実した日々を送っていたそうです。そしてパリ音楽院で研鑽を積んだラヴェルは1898年、国民音楽協会の定期演奏会において、作曲家として正式なデビューを果たします。ラヴェル23歳の時でした。

~権力に屈したローマ賞事件~

そして公式デビューを飾ったラヴェルは、当時若手音楽家の登竜門であったローマ賞というコンクールに応募します。このコンクールで大賞を獲得すれば、奨学金付きでローマへ音楽留学に行くことができたのです。ラヴェルはこのローマ賞に5回挑戦しています。
しかしながら、ラヴェルは結局一度も大賞を受賞することはできませんでした。2度目の挑戦では「ミルラ」という作品で3位に入賞したものの、彼はそれ以降入賞すらできないまま終わってしまいました。
特に最後の挑戦となった1905年のローマ賞では予選落ちというまさかの結果に終わってしまうのですが、これには音楽評論家たちも猛反対。ラヴェルほどの才能の持ち主がローマ賞でこのような扱いを受けるというのは不自然なことですが、実はその裏にはカラクリがあったのです。

ガブリエル・フォーレ(Public Domain /‘Photograph of Gabriel Fauré’by Eugène Pirou. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ラヴェルがパリ音楽院で師事していたガブリエル・フォーレらはローマ大賞の審査結果に対して異議を唱え始めます。すると、なんとこの1905年のローマ賞の本選通過者6名が審査員
を務めていたシャルル・ヌルヴーの門下生であったことが発覚します。言うなればラヴェルは「八百長」に巻き込まれてしまったわけです。
ローマ賞という大変名誉あるコンクールでこのような不正が行われていたことに関しては、当然猛反発が巻き起こり、事件の主犯格であるヌルヴーはもちろん、ラヴェルの通っていたパリ音楽院の院長も事件の責任をとって辞職する事態となります。そして腐敗を正すために、その後はガブリエル・フォーレがパリ音楽院院長に就任します。
こうして、せっかくの飛躍の場を奪われてしまったラヴェルですが、彼の身にはさらに向かい風が吹き付けることとなります。ラヴェルは1907年に「博物誌」という作品を発表するのですが、これはドビュッシーの盗作であると非難され、激しい論争が起こりました。

またしても窮地に立たされてしまったラヴェルですが、その後「スペイン狂詩曲」という作品を発表するとまるで今までの悪評が嘘であったかのように絶賛され、批判はおさまりました。

~大戦を乗り越えて~

「スペイン狂詩曲」の成功の後、ラヴェルは自身がデビューを果たすきっかけとなった国民音楽協会とは決別し、シャルル・ケクランらとともに新しい音楽の創造を目指す団体である独立音楽協会を旗揚げし、ここに籍を置くようになります。
そうして音楽家としてのキャリアをこれから積んでいこうという時期に、またしてもラヴェルには困難が訪れます。「第一次世界大戦」です。

ラヴェルは当初パイロットを志願しました。そこには「大空を飛んでみたい」という想いもあったようです。しかしながらラヴェルはもともと貧相な体つきであり、年齢もパイロットとなるにはふさわしくないという理由で結局彼の希望はかないませんでした。
そしてラヴェルはトラックの輸送兵として大戦に参加することとなります。この仕事は砲弾の下をかいくぐりながら資材を輸送するなど想像以上に過酷なものであり、この時受けた傷から回復することは終生ありませんでした。

~母の死~

戦争で命の危険にさらされる生活を送っていたラヴェルですが、大戦中の1917年、彼にさらなる不幸が訪れます。ラヴェル最愛の母が76歳で亡くなってしまうのです。これにはラヴェルも悲嘆に暮れて作曲活動どころではなくなり、その後の創作ペースは年1曲という極めて遅いペースになってしまいます。
ラヴェルにとって母というのは自分の夢を後押しして、パリ音楽院に行くことを快諾してくれた存在であり、感謝してもしきれないような存在だったのです。そんな母が亡くなったのですから、その喪失感は計り知れないものであったのでしょう。
そんなラヴェルを慰めるかのように1920年、フランス政府はラヴェルに「レジオンドヌール勲章」という彼の功績をたたえる勲章を贈ることを決定します。しかしながらなんとラヴェルは受賞を拒否。これは世間の大きな反感を買ってしまいましたが、ラヴェルからすると今はそれどころではないという気持ちだったのでしょう。

~渡米~

1920年ごろになると、ラヴェルは自身の音楽が時代遅れであるということをだんだん自覚し始めます。というのも1920年代に入るとより前衛的な「フランス6人組」の登場やアメリカからジャズなどの新たな音楽が広まってきたからです。

フランス6人組(Public Domain /‘Les Six Tableau’by Jacques-Émile Blanche. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

しかしながらこうして自身の音楽スタイルが時代遅れであると自覚していたところも、ラヴェルの一つの才能であるといえます。特にジャズに大きな関心を寄せたラヴェルは1928年、自らアメリカへと渡り、最新の音楽とはどのようなものかを自らの目で確かめることにします。
アメリカではラヴェル自身の演奏旅行も行っていました。ニューヨークでは満員の聴衆が詰めよせ、演奏後にはスタンディングオベーションの嵐であったといいます。ラヴェルの音楽は最新の流行ではなくても、まだ多くの人の心を掴むものであると見事に証明されました。
また、ラヴェルはジャズはもちろん、アメリカの大都市の街並みなど、アメリカの文化や風俗全般に大きな感銘を受けたようです。演奏旅行のおかげで世界的な知名度を獲得し、また功績を認められたラヴェルはオックスフォード大学の名誉博士号を授与されています。

(Public Domain /‘Maurice Ravel, Doctor Honoris Causa, University of Oxford, 1928’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

~アメリカからの帰国後~

アメリカで充実した生活を送ることができたラヴェルでしたが、彼が帰国後に残したのはわずか4曲のみ。というのも、この頃から彼は記憶障害や言語障害に悩まされていたのです。

もともと、アメリカに渡る前からその兆候は見られていたようですが、1932年にパリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭ったのをきっかけにさらに症状が進行してしまったようです。
この事故の後、ラヴェルは筆記体を書くことができず活字体を用いるようになります。また単語のつづりを忘れてしまい、ほんの数行の手紙を書くのに辞書を使っても一週間かかることもあったそうです。
また、自らが作曲した曲を聞いて「こんなに素晴らしい曲、誰が書いたんだい?」と聞いたというエピソードも。そんな自らの醜態に耐えかねたのか、時には癇癪を起してしまうこともあるなど散々な生活を送っていたそうです。
「ボレロ」はそんなラヴェルが晩年に残した傑作の一つです。1933年にパリで行われた最後のコンサートでラヴェルは「ボレロ」やその他の代表曲を指揮しましたが、この頃には自分の名前をサインすることすらできない状態でした。
そしてこのコンサートの成功を最後にラヴェルはついに文字を書くことができなくなり、頭の中では新たに思いついた曲が流れているにもかかわらず、それを表現することができないという大変もどかしい状況の中、漠然と過ごす日が続きます。

〜ラヴェルの最後〜

彼の最後はあまりにも悲しいものでした。失語症の権威であった博士は、彼には脳神経学的な症状が現れていると診断しましたが、脳出血を疑っていた彼の弟や友人たちはその診断に納得せず、脳外科医のもとで手術を受けることになります。
結局脳出血は見つからず、その脳外科医は脳が委縮しているのを発見するとそこに生理食塩水を注入するなど、非常にずさんな手術を行ったようです。ラヴェルの容体は術後一時的に改善したものの、ほどなくして昏睡状態に陥ってしまい、そのまま62歳で息を引き取りました。

<ラヴェルの残した代表曲>

「水の戯れ」

これはラヴェルがローマ大賞に応募すべく作った作品であり、水面の微妙な変化を見事に音楽で表現した名曲です。ラヴェル自身、もともと港沿いに住んでいたということで「水」というものに強い関心を寄せていたのではないでしょうか。

「亡き王女のパヴァーヌ」

これもラヴェルがローマ大賞に応募すべく制作した作品であり、現在でもクラシック音楽を代表する名曲です。ピアノ版とオーケストラ版の2種類があるので聞き比べてみると面白いのではないでしょうか。

「ボレロ」

この曲は特にフィギュアスケートでおなじみの曲なのではないでしょうか。あのプルシェンコ選手が競技会で満点を出したときの使用曲としても有名です。ラヴェルが記憶障害や言語障害に悩まされながらも作り上げた晩年の傑作です。

<終わりに>

(Public Domain /‘Maurice Ravel à Londres en 1932’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

さて、今回は印象派の作曲家として名高いラヴェルについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか。彼はクラシック音楽に多大な影響を及ぼした作曲家として名高い存在です。
多難な人生を送った彼の名曲を聴いて、彼が書きたくても書くことができなかった曲というのはどのようなものなのか、ご自身で想像なさってみると面白いのではないでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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