ラフマニノフ:規格外の音楽家

さて、今回はチャイコフスキーらと並んでロシアを代表する作曲家であるセルゲイ・ラフマニノフについてご紹介いたします。ラフマニノフは作曲家、演奏家、指揮者のいずれにおいても非常に高いレヴェルで活躍した音楽家です。

また、ラフマニノフは祖国ロシアだけでなく、アメリカなど海外に出て活躍したピアニストでもあります。今回はラフマニノフがどのような生涯を送ってきたのか、そして代表曲にはどのようなものがあるのかについて見ていきましょう。

<ラフマニノフの生涯>

~生い立ち~

(Public Domain /‘Sergei Rachmaninov at the age of 12(1885)’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

セルゲイ・ラフマニノフは1873年、ロシアのノヴゴロド州で生まれました。貴族の家系出身の父親は音楽を嗜んでおり、その影響をうけラフマニノフも幼くして音楽に親しんでいたようです。ラフマニノフの暮らしていた場所は非常に自然豊かな土地で、幼少期のラフマニノフは自然に揉まれながら、自らの感性を磨いていきました。
彼がピアノを始めたのは4歳の時でした。もともとは姉のために呼ばれていた家庭教師が偶然にもラフマニノフの音楽的センスに気づいたそうです。その結果、ラフマニノフはピアノ教師を付けてレッスンを受けるようになります。
しかしながら、ラフマニノフの充実した練習環境は長くは続きませんでした。彼が9歳の時にラフマニノフ家は破産してしまったのです。このため家は競売にかけられ、一家はペテルブルクへと移住し、両親も離婚してしまいます。
それでも不幸中の幸いといったところでしょうか。ラフマニノフは一家が貧しい中でもなんとか練習を続けることができました。というのも彼の才能は傑出していたために奨学金を受けることで、ペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができたのです。
とはいえペテルブルク音楽院にいたころのラフマニノフは才能こそあったものの、決してエリートというわけではなかったようです。12歳の時には全てのテストで落第するという落ちこぼれぶりでした。
そこで母はラフマニノフをペテルブルク音楽院からモスクワ音楽院へと転校させます。そこで彼は鬼教師ズヴェーレフの家に寄宿してピアノを学ぶことになったのです。

(Public Domain /‘Zveref and students’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)※ズヴェーレフの左後ろにいるのがラフマニノ

~モスクワ音楽院時代~

モスクワ音楽院

さて、才能に恵まれた不良少年としてモスクワ音楽院に転入したラフマニノフは、ズヴェーレフの非常に厳しいレッスンを受けてピアノの基礎技術を磨いていきます。ラフマニノフはペテルブルク音楽院の時には考えられなかったほど、必死にレッスンに食らいついていったようです。
また、このズヴェーレフ邸には当時の著名な音楽家が沢山訪れたこともラフマニノフの刺激となったようです。特にラフマニノフはチャイコフスキーのことを敬愛しており、チャイコフスキーもまたラフマニノフの才能を高く評価していたようです。

チャイコフスキー(Public Domain /‘Tchaikowsky’by Bain News Service. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ピアノ以外に興味を持つことを禁ずるズヴェーレフのもとでのレッスンは、一流の音楽家を目指すラフマニノフにとこの上ない環境であるように見えましたが、実はラフマニノフは作曲にも強い興味を持っていました。そのため次第にズヴェーレフと対立し、ついにラフマニノフはズヴェーレフ邸を出ていくことになります。
そしてラフマニノフは親戚のサーチン家で暮らすことになります。ここでは後に妻となるナターリヤと出会うなど、充実した日々を送ることができたようです。また、ラフマニノフはサーチン家の持つ別荘が大好きだったようです。毎年その別荘を訪れるのを楽しみにしていたと言います。
そうして、モスクワ音楽院の生徒として日々研鑽を積んだラフマニノフは18歳にして、モスクワ音楽院のピアノ科を、大金メダルを獲得して卒業します。「大金メダル」というのはなんだか変わった名前ですが、これには訳があります。
モスクワ音楽院の金メダルは毎年主席に与えられるのが恒例となっていましたが、ラフマニノフが卒業した年にはスクリャービンというもう一人の傑出した才能の持ち主がいました。
そのため、2人は金メダルを大金メダル、小金メダルという異例の形で分け合うことになったのです。ちなみにスクリャービンもこの後、ロシアを代表する音楽家となります。また、ラフマニノフは卒業した1891年、「ピアノ協奏曲第1番」という自身初めての協奏曲を作曲しています。

「ピアノ協奏曲第1番」

1892年、ラフマニノフはモスクワ音楽院のピアノ科に引き続いて作曲科も卒業します。この時は「アレコ」という歌劇をわずか数日で完成させ、見事金メダルを獲得しました。さらにこの年、ラフマニノフの代表的なピアノ曲である前奏曲嬰ハ短調も作曲され、初演から大好評でした。こうしてラフマニノフは一躍国を代表する音楽家に上り詰めます。

~ラフマニノフの挫折~

(Public Domain /‘Rachmaninoff,1897.’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1893年、ラフマニノフにとっては辛い出来事が起こります。彼の敬愛していたチャイコフスキーが亡くなったのです。自身の才能を賞賛し、成長の後押しをしてくれたロシアの大先輩を失ったラフマニノフは、チャイコフスキーへの追悼の意を示すために「悲しみの3重奏曲第2番」という作品を作曲します。

ちなみに、この行動もまたチャイコフスキーに倣ったものでした。というのもチャイコフスキーもかつて友人のピアニストであるニコライ・ルービンシュタインが死去した折に「ピアノ三重奏」という作品を残していたのです。ラフマニノフの行動は偉大な先輩への敬意を示した行動だったのです。
そして、チャイコフスキーの死を機に、ラフマニノフの作曲家としての活動は停滞を余儀なくされます。ラフマニノフは1895年に交響曲第1番を完成させ、アレクサンドル・グラズノフという同じくロシアを代表する音楽家によって初演が行われます。しかし、これがまさかの記録的な大失敗に終わってしまったのです。

「交響曲第1番」

この失敗で何よりラフマニノフの心を痛めたのは他の音楽家や評論家からの批判の嵐でした。とりわけ、ロシア五人組と呼ばれる当時のロシアを代表する音楽家の一人であったツェーザリ・キュイからは痛烈な批判を受けました。その後、ラフマニノフがこの曲を演奏することはありませんでした。
しかしながら、この交響曲第1番の初演の失敗は必ずしもラフマニノフの実力不足だけが原因ではないとも言われています。初演が行われたペテルブルクは、ラフマニノフが属すモスクワ楽派と敵対する国民楽派の拠点であったことや、グラズノフの指揮がオーケストラをまとめることができていなかったという説もあるようです。

交響曲第1番での失敗の後、ラフマニノフは完全に自信を失ってしまい、作曲に全く手がつかない状態になってしまいました。そのため、作曲の代わりに知り合いの主催するオペラの指揮者を務めるなどして、生計を立てていたようです。ちなみにこのオペラを通して、ラフマニノフの生涯の友人であるシャリアピンという人物とも出会うこととなります。

トルストイ(Public Domain /‘Lev Tolstoy1897’by F. W. Taylor. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
シャリアピンとラフマニノフ(Public Domain /‘Chaliapin and Rachmanino’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

その後ラフマニノフはロシア文学を代表する作家のトルストイと親交を持つようになるなど、彼の人生における重要な出会いにも恵まれます。しかしながらトルストイの家を訪ねて披露した、ベートーヴェンの交響曲第5番にちなんだ「運命」という曲も酷評されてしまい、まさに踏んだり蹴ったりの時期を過ごした20代前半となってしまいました。

~作曲家としての成功~

(Public Domain /‘Rachmaninoffearly 1900s’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

自身の作品の度重なる不評により、完全に落ち込んでしまったラフマニノフでしたが、1900年、彼はついに作曲家としての名誉を取り戻す機会がやってきます。「2台のピアノのための組曲第2番」、そしてあの「ピアノ協奏曲第2番」を完成させたのです。

「2台のピアノのための組曲第2番」

特に「ピアノ協奏曲第2番」は初演でかつてないほどの大成功をおさめ、この成功によって、ラフマニノフの作曲家としての評価は一変します。ラフマニノフはこの功績を認められ、この年のグリンカ賞(ロシアの優れた作曲家に対して贈られる賞)を受賞しました。こうしてラフマニノフは名実ともに一流の作曲家となります。
また、プライヴェートにおいてもよい流れが続きます。いとこにあたるナターリヤと結婚。この頃には妻に捧げるための曲として、「ここは素晴らしい」といったような曲も残しています。
また、ラフマニノフはその後指揮者としても活動しながら、さらなる成功を収めることとなります。ラフマニノフは1906年ごろから約3年にわたって、ドイツのドレスデンに滞在します。そして、そこで完成させた「交響曲第2番」が再び大ヒットしたのです。そして、この功績が認められ、ラフマニノフは二度目のグリンカ賞を受賞します。

~ラフマニノフ、ロシアを去る~

さて、国内で大きな成功を収めたラフマニノフでしたが、彼も時代の波に逆らうことはできませんでした。そう、ロシア革命がおこったのです。1917年に10月革命が成功し、ロシアがボリシェヴィキによって占領されると、彼はすぐさま家族を連れてロシアを後にします。そして、これ以降、ラフマニノフは二度とロシアの地を踏むことはありませんでした。

(Public Domain /‘Sergei Rachmaninoffin California1919’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ラフマニノフ自身、ロシアを愛する気持ちは変わらなかったようです。本人の言葉を借りると、「僕に唯一門戸を閉ざしているのが、他ならぬわが祖国ロシアである。」といった状況でした。
ラフマニノフはロシアを出た後、デンマークで演奏活動を行い、その後はアメリカに拠点を移します。そして、自身の曲だけでなく、ショパンやベートーヴェンといった先人たちが残した曲も見事に演奏して見せたようです。
ちなみにラフマニノフは異様なほど手が大きく、それを活かした非常に高い演奏技術を持っていたことで有名です。「リストの再来である」という声もあったと言われています。

(Public Domain /‘Rachmaninoff playing Steinway grand piano1936’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そんなラフマニノフですが、ピアニストとしてその後多忙な毎日を送り、アメリカのみに留まらず、ヨーロッパでも演奏活動を繰り広げています。
一方、ラフマニノフのキャリアの後半は演奏活動を積極的に行う一方で、作曲活動にはあまり力が入らないようでした。ロシアを去ったことにより、作曲意欲が湧かなくなってしまったようです。とはいえ、「ピアノ協奏曲第4番」や「パガニーニの主題による狂詩曲」といったような名曲もいくつか残しています。
ラフマニノフは演奏家としての活動を亡くなる直前まで続けていました。歳を重ねるにつれ、人前で演奏することが好きになっていったそうです。
そして、1943年、70歳の時に癌によりその生涯を閉じました。本人は祖国ロシアに埋葬されることを望んでいたようですが、戦時中だったこともあり望みは叶わず、彼の遺体はニューヨークに埋葬されました。

<ラフマニノフの代表曲>

「ピアノ協奏曲第2番」

ラフマニノフの作品の中でおそらく最も有名なのがこの曲です。あのフィギュアスケートの浅田真央さんがソチオリンピックの時にフリーで会心の演技を見せた時のプログラム使用曲でもあります。
その美しさによってラフマニノフの名声を打ち立てた出世作です。最も有名なピアノ協奏曲の一つとして世界中のクラシックファンに愛されています。

「前奏曲嬰ハ短調」

これはピアノの独奏曲の名曲です。この曲もまた浅田真央選手がバンクーバーオリンピックのショートプログラムで用いられました。
また、「鐘」というサブタイトルもついており、ロシア正教の教会の鐘が鳴っているさまを表しているようです。この曲の成功によりラフマニノフの人気に火が点いたといっても過言ではなく、ラフマニノフの生涯の中でも大きな意味を持つ作品です。

<終わりに>

さて、今回はラフマニノフについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。ラフマニノフは作曲家、ピアニスト、指揮者のすべてで非常に高い次元で活躍した音楽家で、リストの再来とまで言われた人物です。
そんな彼の演奏は今でも録音が残っています。ラフマニノフ本人の演奏を聞くことによって、彼がどのような意図をもってその曲を書いたのかを感じ取ってみるのも趣深いのではないでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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