ガーシュウィン:完璧な音楽家

ジョージ・ガーシュウィンという作曲家をご存知でしょうか?彼の残した「アイ・ガット・リズム」や「ラプソディ・イン・ブルー(Rhapsody in Blue)」といった楽曲は、現在でもなお世界中で親しまれています。

彼の楽曲はあまりにも先進的であり、1960年代のアメリカの作曲家と錯覚してしまいそうになりますが、実はガーシュウィンは19世紀生まれの作曲家です。まだクラシック音楽が栄えていた時代に彼はどのような人生を送ってきたのでしょうか。
「完璧な音楽家」とまで言われた彼の人生、そして、彼の代表曲について見ていくことにしましょう。きっと今までご紹介してきたクラシックの作曲家とは違った魅力を感じることができるのではないでしょうか。

<ガーシュウィンの生涯>

~ガーシュウィンの幼少期~

ジョージ・ガーシュウィンは1898年9月26日にアメリカのニューヨークのブルックリンにて生まれました。彼が12歳の時、父は兄にピアノを習わせようとして買い与えましたが、文学好きの兄はあまり興味を示さず、代わりにガーシュインがピアノに親しむことになります。実は以前からガーシュウィンは音楽に興味を抱いており、友人の家でピアノを弾かせてもらうことがあったのです。
その後ガーシュウィンはピアノ演奏の技術、そして和声についてのレッスンを受け、自らの音楽的基盤を築きました。そんな彼が入れ替わりの激しいアメリカ音楽界での栄光を手にする日々は着々と近づいていました。

~「スワニー」が大ヒット~

父に買ってもらったピアノによって大好きな音楽に熱中していたガーシュウィン少年は、将来のことも考えて商業高校に進学したものの中退してしまいます。決して商業高校での生活に不満があったわけではないのですが、やはり一刻も早く音楽の世界で活躍したいという想いが強かったのでしょう。

高校を中退したガーシュウィンは音楽出版社のピアノ奏者の職につきます。当時、まだレコードは普及しておらず、音楽というものは一般的に生で演奏するものでした。そのため楽譜を販売する音楽出版社は売りたい楽譜のプロモーションのために常時演奏できるピアニストを必要としていたのです。
自分の演奏のかたわら、優秀な黒人ピアニストが出演する店を練り歩くことでガーシュウィンは彼らの技を盗み、どんどん技量を高めることができました。音楽が大好きなガーシュウィンにとって、まさに天職にありつくことができたといえます。
ガーシュウィンは音楽出版社で働く合間に作曲も手掛けていました。ガーシュウィンが一躍ヒットしたきっかけとなる「スワニー」という作品もこの頃に作られたものでしたが、音楽出版社にはあまり気に入られなかったようです。

「スワニー」

そんな彼に転機が訪れます。当時大スターとして活躍していたアル・ジョルソンが彼が作曲した「スワニー」を痛く気に入ったのです。ジョルソンは彼の「スワニー」をいくつものステージで披露しました。

(Public Domain /‘SwaneeCoverGershwinJolson’by George Gershwin and Irving Caesar. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そうして、「スワニー」の作曲者であるガーシュウィンの名もアメリカ音楽界に一躍広まることとなります。当時はまだアメリカ音楽界では全く無名の存在であったガーシュウィンが瞬く間にスターダムを駆け上がったのです。
一方、文学に大きな興味を示していた兄アイラも作詞家として弟の仕事を手伝い始めます。1920年代にはガーシュウィン兄弟が手を組んで、「The Man I Love」、「But Not For Me」、「I Got Rhythm」などの多くの名曲を残しました。

「The Man I Love」

音楽的才能にあふれた弟ジョージと文学的才能にあふれた兄アイラの兄弟そろっての活躍というのは当時のマスコミにも大変注目され、名実ともにアメリカ音楽界のトップスターへと上り詰めました。

~枠にとらわれない作曲活動

さて、冒頭でも少しお話ししましたが、ガーシュウィンの生きた時代というのは20世紀の初頭です。すなわち、まだクラシック音楽の面影が色濃く残っていた時代でした。ガーシュウィンはそんな時代に新風を吹き込んだ作曲家でもあります。

(Public Domain /‘Cover of the original sheet music of Rhapsody in Blue’byHarms. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

彼の音楽作品として最も有名なのが1924年に作曲した「Rhapsody In Blue」です。この曲はクラシック音楽に分類されるものの、ジャズの要素をふんだんに盛り込んだ作品として非常に有名な作品です。
ジャズとクラシック音楽を融合させるというスタイルは当時では大変斬新なものであったために、このガーシュウィンの作品は「シンフォニック・ジャズ」という新たなジャンルを切り開いた作品として、世界的に高い評価を受けました。
この曲はオーケストラとピアノで演奏される、ピアノ協奏曲の一種に分類されるのですが、ガーシュウィンは当時オーケストレーションに精通しておらず、ファーディ・グローフェという音楽家の力を借り、この「Rhapsody In Blue」を完成させました。

ファーディ・グローフェ(Public Domain /‘Ferde Grofé (1892 –1972)’by Bain News Service. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そして、この「Rhapsody In Blue」を完成させたことにより、ガーシュウィンはオーケストラ音楽にも関心を示すようになります。そして、今までは触れてこなかったオーケストレーションに関しても自ら進んで勉強するようになるのです。
今ではアメリカ音楽史上に残る代表曲として不動の人気を誇る「パリのアメリカ人」もガーシュウィンがオーケストレーションを学んだ結果生まれた作品の一つです。発表された当時はそれほど話題にならなかったものの、ガーシュウィンの死後に再評価されました。
また、ガーシュウィンは「黒人」に対して非常に大きな関心を抱いていた作曲家としても知られています。当時のアメリカは奴隷解放宣言から50年以上たっていたものの、依然として黒人差別は色濃く残っていました。
しかしながら、ガーシュウィンは黒人の風俗や文化を尊重する立場を取っており、実際に彼らの生活の様子をオペラという形で表現した、「ポーギーとベス」という作品も残しています。この作品はキャストが全員黒人だったという点でも、当時としては非常に斬新な作品でありました。

「ポーギーとベス」

~同時代の作曲家との親交~

ガーシュウィンはアメリカというクラシック音楽があまり盛んではない土地で活躍していた作曲家でしたが、ヨーロッパの作曲家とも親交があったことで有名です。
ガーシュウィンは「火の鳥」などの作品で知られているロシアのイーゴリ・ストラヴィンスキーとも親交がありました。そして、彼のもとへと自ら赴きオーケストレーションを学ぼうとしたそうです。

ストラヴィンスキー(Public Domain /‘Photoportrait of Igor Stravinsky’by George Grantham Bain Collection. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

すると、ストラヴィンスキーが「どのようにすればそんな高収入が得られるんだい?」とガーシュウィンに尋ねたという逸話も残っていますが、ストラヴィンスキー本人によるとそのようなやり取りは実際には存在しなかったようです。しかしながら2人の仲が相当に良かったということは間違いないようです。
また「水の戯れ」などの曲で知られる作曲家モーリス・ラヴェルとも親交があったようです。ガーシュウィンはラヴェルの音楽に非常に感銘を受け、彼に音楽を教えてもらおうとしました。そして、その際のラヴェルの次のような返しが非常に有名です。

(Public Domain /‘Ravel Gershwin’by Wide World Photos 1928. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)※ピアノの前にラヴェル、右端にガーシュウィン

「君はすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないだろう?」
この言葉からはラヴェルがガーシュウィンの作品を非常に高く評価していたことはもちろんですが、それだけでなくラヴェルがこれからの音楽は今までとは違ったものになると予感していたことも伺うことができます。
普通、それまでの伝統を打ち破る芸術家というのは保守的な芸術家たちによって大きな批判に晒されることも少なくありません。しかしながら、他のクラシック音楽からもこのように高い評価を受けていたことからも、ガーシュウィンの才能がいかに傑出したものであったかが伺えるのではないでしょうか。

~晩年~

(Public Domain /‘Portrait of George Gershwin1937’by Carl Van Vechten名. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

アメリカ音楽界を席巻し、一躍売れっ子となったガーシュウィンでしたが彼の人生の終わりは着実に近づいてきていました。ガーシュウィンは1936年ごろからだんだんうつ症状を感じるようになります。しかしながら当時これはスターゆえのストレスが原因であると考えられ、あまり重要視されませんでした。
ところが1937年の2月のリハーサル中、指揮をしていたガーシュウィンは突然バランスを崩し、それ以降謎の意識障害に悩まされることとなります。同じ年の7月、昏睡状態に陥り、懸命な手術も実ることなく、わずか38歳にして、この世を去りました。

<ガーシュウィンの代表曲>

~「パリのアメリカ人」~

この曲はガーシュウィン自身が実際にパリに赴いたときの一種の「紀行文」のような作品です。大通りを行きかう人々、車のクラクションの音など、大都市パリ特有の文化を音楽で表現した曲です。
また、この作品をアメリカで披露するにあたって、ガーシュウィンはパリから本物の車のクラクションを持ち帰ったというエピソードでも有名です。この曲は同じタイトルでミュージカルも上演されているので、そちらの方もぜひ鑑賞なさってみてはいかがでしょうか。

~「I Got Rhythm 」~

ミュージカル映画「パリのアメリカ人」で用いられた曲の一つであり、現在ではジャズのスタンダードナンバーとして非常に親しまれています。作曲はジョージ自身が行い、作詞は兄のアイラが行ったと曲でもあります。
またこの曲はフィギュアスケートの浅田真央選手が過去に競技会のショートプログラムで用いていた曲でもあります。当時の浅田選手がリズムにのって楽しそうに滑っている姿を覚えているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

~「Rhapsody In Blue」~

ガーシュウィンの生み出したこの「Rhapsody In Blue」は「ジャズで作られた狂詩曲」という意味を持っています。ラプソディには、「民族音楽風の形式をもたない自由奔放なファンタジー風の楽曲」といったような意味があり、その名の通り曲調が次々と変化していくのが特徴であるということができるでしょう。
また、この曲はガーシュウィンがホワイトマンという人物に依頼されて作った曲なのですが、そのきっかけとなったエピソードが有名なので少しご紹介することにしましょう。
ある日ガーシュウィンが新聞を読んでいると、「ホワイトマンがガーシュウィンに作曲を依頼した!」という内容の記事を目にしました。しかしながら、ガーシュウィンはそのホワイトマンという人物と契約を交わした覚えなど全くありませんでした。
おかしいと思ったガーシュウィンはホワイトマンに確認するために電話をかけるのですが、実はこれこそホワイトマンの望んでいた展開そのものでした。というのも、当時のガーシュウィンはまさに売れっ子だったので作曲を依頼するのも簡単ではなかったのです。
そのためホワイトマンはあえて嘘の記事を新聞に掲載してもらうことによって、ガーシュウィンに直接作曲の依頼をしようと考えたのです。そしてホワイトマンの熱意に負け、作曲したのがこの「Rhapsody In Blue」なのです。

<終わりに>

さて、今回はガーシュウィンについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか。ガーシュウィンの生涯はわずか38年と非常に短いものでしたが、音楽界にとても大きな功績を残した作曲家です。
ガーシュウィンの残した曲は、ポピュラー音楽に近いものからクラシック音楽に近いものまで多岐にわたります。今回ご紹介した曲も含め、様々な曲を聞き比べてみると、興味深いのではないでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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