ストラヴィンスキー:ロシアが生んだ異端児

(Public Domain /‘Photoportrait of Igor Stravinsky’by George Grantham Bain. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

さて、今回は20世紀のロシアを代表する作曲家であるストラヴィンスキーについてご紹介していきます。ストラヴィンスキーは「春の祭典」、「火の鳥」、「ペトルーシュカ」などの名曲を残した作曲家であり、また指揮者や演奏者としても活動しました。

彼は音楽家になる前に一般大学に入学していたり、また数多くの女性と不倫関係を結んでいたりと、なかなか波乱万丈な人生を送っていたことで有名です。彼の生涯と、彼の代表曲について見ていくことにしましょう。

<ストラヴィンスキーの生涯>

~生い立ち~

(Public Domain /‘russian Composer Igor Stravinsky’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

イーゴリ・ストラヴィンスキーは1882年6月17日、首都サンクトペテルブルク近郊の街に生まれました。ストラヴィンスキーの父は貴族の家系に生まれながらも三男であったために遺産を引き継ぐことはできませんでしたが、音楽の道を究め、当時のロシアでは有名なバス歌手であったようです。そんな父も影響もあり、ストラヴィンスキー自身も9歳の時にピアノを習い始めます。
また、和声法や対位法といった音楽理論や作曲の方法についても並行して学んでいました。しかしながら、両親はあくまでストラヴィンスキーには教養として音楽を習わせていただけで、決して音楽家にするつもりはなかったようです。

(Public Domain /‘Stravinsky rimsky-korsakov’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)※左端にいるのがストラヴィンスキー、その隣には師のコルサコフが掛けている。

そして、ストラヴィンスキーはサンクトペテルブルク大学の法学部に進学します。またその一方で週に一度音楽理論も学んでいました。ストラヴィンスキーはこのサンクトペテルブルク大学でロシア5人組(ロシアを代表する音楽家5人の総称)の一人であるリムスキー・コルサコフの息子と友人になり、それをきっかけにリムスキー・コルサコフ本人から個人レッスンを受ける機会を得ました。
大学を卒業したころのストラヴィンスキーの作品としては、「幻想的スケルツォ」や「花火」という作品が知られています。しかしながら、師のリムスキー・コルサコフはその初演の前に亡くなってしまい、ついぞ弟子の作品を耳にすることはなかったようです。

~作曲家として華々しいデビュー~

(Public Domain /‘Sergej Diaghilev (1872-1929)’by Aleksandrovich Serov. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Ballets Russes’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

バレエ・リュスというロシアを代表するバレエ団の主催者である、セルゲイ・ディアギレフは、「幻想的スケルツォ」と「花火」の2曲を聞いたことがストラヴィンスキーと親交を持つきっかけとなったと自伝に記しています。
そのディアギレフから頼まれた最初の仕事は、バレエのためにショパンのピアノ曲を管弦楽曲に編曲することでした。そしてこの仕事をきっかけに、ストラヴィンスキーはディアギレフから数多くの依頼を受けることとなります。

(Public Domain /‘Ballet Costume of the Firebird (1910)’by Léon Bakst. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1910年にはこのバレエ・リュスのために作曲した「火の鳥」がパリのオペラ座で初演され、見事大成功をおさめます。この曲はストラヴィンスキーを代表する曲であり、現在でも高い人気を誇る曲です。

(Public Domain /‘Nijinski Petrouchka’by Herman Mishkin. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

翌1911年にはストラヴィンスキーのもう1つの代表作である「ペトルーシュカ」という曲を作曲。こちらもまた大成功します。勢いに乗ったストラヴィンスキーはさらに2年後の1913年には「春の祭典」を書き上げました。

(Public Domain /‘A posed group of dancers in Igor Stravinsky’s ballet The Rite of Spring,’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

この「春の祭典」という作品には賛否両論があり、初演時には演奏をかき消すほどの怒号が湧き上がり、怪我人が出る大騒動になったそうです。しかしその後すぐに高い評価を獲得し、これら3作品の成功によってストラヴィンスキーはロシアの革命的な音楽家として、広く認知されることとなります。

~2つの大戦~

さて、「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「春の祭典」という3つの大作をもってして、一躍ロシア音楽界の異端児として華々しいデビューを飾ったストラヴィンスキーですが、彼の順調なキャリアに向かい風が吹きかかります。1914年に第一次世界大戦が始まったのです。
第一次世界大戦によってロシアに帰れなくなったストラヴィンスキーはスイスに居を構えていましたが、1917年にロシア十月革命が起こると革命政府によって祖国の土地を没収されてしまいます。また彼のお得意先であったバレエ・リュスの公演も戦争の影響で難しくなってしまいました。そんな難しい時期にありながらも、彼は「狐」、「結婚」、「兵士の物語」といった作品を残し、音楽家としての新境地を切り開いていきました。

~第1次世界大戦後~

(Public Domain /‘Punchinello’by Maurice Sand. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1918年に第1次世界大戦が終わると、ストラヴィンスキーは徐々に自らの作品を発表する場を取り戻します。特に、ストラヴィンスキーは戦後の1920年にパリで初演が行われた「プルチネルラ」という作品において、18世紀の音楽の様式と新たな管弦楽法を融合させたことによって、大きな注目を集めることとなりました。この様式を「新古典主義音楽」と呼びます。

ストラヴィンスキーは1920年ころからフランスに移住し、フランス各地を点々としながら作曲活動をつづけました。一方、かつてのお得意先であるバレエ・リュスのディアギレフとは1923年の「結婚」という作品を最後に疎遠になってしまったようです。
そのかわり、フランス移住後にはアメリカ合衆国からの依頼や、知り合いのヴァイオリニストからの依頼を受けるようになりました。アメリカから依頼が来ていたのですから、当時のストラヴィンスキーの知名度が相当に高かったこともうかがえます。

(Public Domain /‘Stravinsky and Fulwaagder at piano’by George Grantham Bain. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ストラヴィンスキーはフランスでは作曲家としてだけでなく、ピアニストとしての活動も始めます。その影響もあってか、このころにはピアノ用の作品として、「ピアノソナタ」や「ピアノと管弦楽のための協奏曲」といったような作品も残しています。
こうしてフランスで活動を続けていたストラヴィンスキーは1934年にはフランス市民権を得てパリに定住します。しかしフランスでの幸せな生活は長くは続きませんでした。1938年には長女を、翌年には妻と母を結核で失います。さらに、ストラヴィンスキーはナチスから目を付けられ、退廃音楽のレッテルを貼られてしまいます。その影響もあり、ストラヴィンスキーのフランスでの影響力は次第に弱まっていくこととなります。

~活躍の舞台はアメリカへ~

ナチスによる妨害によってフランスでうまくいかなくなったストラヴィンスキーは、第二次世界大戦開戦直後の1939年にハーバード大学から音楽講師の依頼を受けます。それを快諾したストラヴィンスキーは音楽に関する講義を同大学で計6回行いました。そして、アメリカが気に入ったストラヴィンスキーはそのままハリウッドで暮らすようになります。

(Public Domain /‘Time magazine, Volume 52 Issue 4. Front cover is an illustration of Igor Stravinsky1948.’by ime Inc. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ストラヴィンスキーはアメリカでは「交響曲ハ長調」の他にもオペラ曲やバレエ曲を作曲しました。また1945年にはアメリカ合衆国の市民権も得ます。このころは生活のためかアメリカ好みの曲を多く書いています。
またストラヴィンスキーは1950年を過ぎたあたりから、今まで否定的であった「十二音技法」を取り入れ始め、新たな可能性を開きます。ストラヴィンスキーは晩年、この技法を積極的に用い、計20曲ほどを作曲しました。70歳近くになっての作風の変化は大変驚かれました。
またストラヴィンスキーは1959年に来日し、東京の日比谷公会堂で演奏会を行いました。この時ストラヴィンスキーはテレビで見かけた若手作曲家の武満徹を絶賛し、彼を世界に紹介しました。これをきっかけとして、武満徹はのちに世界的な作曲家として知られることとなります。
ちなみに、ストラヴィンスキーは1962年にはソ連を訪れています。80歳にしての祖国への訪問は当時大きなニュースとして伝えられました。そしてこれがストラヴィンスキーの最後の帰郷となります。

(Public Domain /‘Igor-Stravinsky-1961’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

その後、ストラヴィンスキーは老いもあり、1966年以降は作曲家を引退し、また翌年からは胃潰瘍と血栓症で入院生活が始まります。この間、自分で音楽活動をすることができなかったストラヴィンスキーは他の音楽家のレコードを聴きながら過ごしていたようです。特にベートーヴェンの楽曲がお気に入りであったと言われています。

(Public Domain /‘The gravestone for Igor Stravinsky’Smerus. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そして1971年、ついにストラヴィンスキーは88歳にしてこの世を去りました。

~ストラヴィンスキーの女性関係~

さて、音楽家として後世に多大な影響を及ぼしたストラヴィンスキーですが、妻子持ちであるにもかかわらず、実は多くの女性問題を抱えていたことでも有名です。いったい何人と浮気していたのか、数えるのすら難しいと言われています。
ストラヴィンスキーは1906年に従姉のエカテリーナと結婚し、4人の子供を授かりました。しかしながら、子供がまだ幼いころから不倫生活は始まっていたようです。知られている限りで最初の不倫は1916年、アメリカ公演から帰ったバレエ・リュスがマドリードにいるときで、バレエ団のダンサーと不倫関係にあったようです。
そして1920年、ストラヴィンスキーはあの高級ブランド、シャネルの創業者であるココ・シャネルとも不倫関係にあったと言われています。しかしながらこの不倫関係は比較的短い期間であったようです。ちなみにこの2人の不倫関係は2009年に「シャネル&ストラヴィンスキー」という映画にもなっています。

翌年1921年にもロシアのクラブで出会った女性と関係を持つなど、このころは不倫を重ねに重ねていたようです。

(Public Domain /‘Portrait of Vera de Bosset1924’by Serge Sudeikin. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そして彼の不倫で最もひどいのが、画家のセルゲイ・ズデイキンの妻ヴィラとの不倫です。バレエ・リュスでは2人の関係は当たり前のものとなっていたそうです。そのせいもあり、ズデイキンとストラヴィンスキーの関係は険悪なものとなり、2年後にズデイキンとヴェラは離婚しています。
そしてストラヴィンスキーは夫人が亡くなった直後、1939年にアメリカへと渡った後に、ヴェラを呼び寄せて再婚しています。

<ストラヴィンスキーの代表曲>

「火の鳥」

最初の危機感溢れるファンタジックな展開は聴く者を惹きつけます。この「火の鳥」はフィギュアスケートの町田樹選手が2014年のソチオリンピックで披露したプログラムで使用された曲でもあるので、聞いたことがあるという方も少なくないのではないでしょうか。全体を通して聞いてみることで今までとは違った世界観を味わうことができるでしょう。

「ペトルーシュカ」

これはアニメ「のだめカンタービレ」でも取り上げられていたので、知っているという方もいらっしゃるかもしれません。とにかく自由奔放な展開が特徴です。いい意味で「無秩序」な曲であるということができるでしょう。
また、この曲はピアノ用の楽譜とオーケストラ用の楽譜の両方が存在しています。ピアノによる演奏とオーケストラによる演奏を聞き比べてみると楽しいのではないでしょうか。

<終わりに>

(Public Domain /‘Igor Stravinsky (1962)’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

さて今回はロシアの革命児とも言うべき作曲家、ストラヴィンスキーについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。彼の残した功績は現代の作曲家にも少なからず影響を及ぼしています。音楽における「ロシア革命」を起こしたと言っても過言ではないでしょう。
彼の残した曲は時代によってその雰囲気や曲調も全く異なります。年代順に聞き比べてみることで、その作風の変化を楽しんでみるのも趣深いのではないでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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