ドヴォルザーク:ブラームスも認めた天才

(Public Domain /‘Dvorak’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ドヴォルザークという作曲家をご存知でしょうか。ドヴォルザークといえば何と言っても「新世界より」という作品が有名です。テレビCMのBGMとして用いられていることも多いので聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。また、ドヴォルザークはあのブラームスと非常に深い親交があった作曲家としても知られています。

そんなドヴォルザークがいったいどのような生涯を送ってきたのか、そして彼の代表曲についても見ていきましょう。

<ドヴォルザークの生涯>

~生い立ち~

アントニン・ドヴォルザークは1841年9月8日にチェコのプラハから少し離れた町であるネラホゼヴェスで生まれました。実家は肉屋と宿屋として生計を立てており、決して裕福な家庭というわけではなかったようです。

ツィター

父親はツィターという弦楽器を演奏し、また伯父もトランペット奏者であったため、小さい頃から音楽に触れる機会は多かったようです。
ドヴォルザークも小学校に入学すると校長先生からヴァイオリンの手ほどきを受けるようになり、みるみると上達していきました。そして実家が営んでいる宿や教会などで演奏をするようになります。
めきめきと実力を伸ばしていったドヴォルザークは、9歳の頃にはアマチュア楽団のヴァイオリン奏者に抜擢されます。しかしながら、父親は自身の経営する肉屋を長男である彼に継いで欲しいという想いが強かったようです。
父はドヴォルザークにドイツ語を習わせるために、彼を伯父が住むズロニツェという町へ送り出します。そこでも彼はドイツ語教師のアントニン・リーマンからオルガンやピアノ、ヴァイオリンのレッスンだけでなく、初歩的な音楽理論を学ぶことができました。

~進路に悩んだ少年期~

先ほど述べた通りドヴォルザークの両親は彼に肉屋の経営を引き継いでほしいと願っていました。当時、家庭の経済状況が思わしくなかったために、これ以上彼に音楽教育をさせることは困難だったのです。
しかしながら、ドヴォルザークに相当な音楽的才能があることもまた明らかでした。彼の才能を認めていたリーマンと伯父は両親の方針に反対し、必死に説得を試みます。

結果的には伯父がドヴォルザークの音楽教育にかかる費用を負担するという条件のもと、両親はついに彼が音楽の道に進むことを認め、1857年にプラハのオルガン学校に入学します。
ドヴォルザーク自身、経済的に厳しい状況であることには変わりありませんでした。それでも彼は裕福な友人であるカレル・ベンドルから楽譜を借りたり、授業で必要なものを買い足してもらったりしてなんとか乗り切ることができました。
そうしてドヴォルザークは2年後、優秀な成績を残してプラハのオルガン学校を卒業します。

~卒業後~

(Public Domain /‘ANton Dvorak in 1868’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ドヴォルザークはオルガン学校を卒業したのちに、スメタナが指揮者を務めるオーケストラのヴィオラ奏者に就任します。スメタナは今でもチェコ音楽の祖と呼ばれている偉大な作曲家で、中でも「モルダウ」という曲で有名です。ドヴォルザークはスメタナから多くを学びました。
またドヴォルザークはオーケストラの仕事の合間に音楽教師の仕事もしていました。ある家庭では2人姉妹を教えていたのですが、女優業をしていた姉に好意を寄せて失恋したこともあります。この出来事はのちに様々な作品に昇華されることになりました。

また、オルガン学校にいる頃から作曲も行っており、コンクールに応募するために交響曲を書いたりもしていたようです。しかしながら、結局は日の目を見ることなく終わってしまう作品ばかりでした。
彼の作品を聴いたスメタナは「まさに天才の理念に満ちた作品である」と評価しましたが、また「これが上演されるとも思わない」とも言いました。
それでもドヴォルザークは作曲家として生きていくことを強く望んでおり、スメタナのオーケストラを辞め、作曲に集中することを選択します。収入源は音楽教師としての個人レッスンのみとなりました。
結果的にドヴォルザークの選択は功を奏することとなります。1873年、「白山の後継者たち」という作品がヒットし、ドヴォルザークはついに一流作曲家への第1歩を踏み出したのです。ちなみに初演の指揮者は学生時代ドヴォルザークを親身になって支えてくれたあのカレル・ベンドルが務めました。この曲がヒットしたのには当時の民族主義の高まりという時代背景も関連していたようです。

(Public Domain /‘Antonín Dvořák with his wife Anna in London, 1886’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

また、ドヴォルザークはプライベートでも充実の時を迎えます。かつて音楽教師として教えていたあの姉妹の妹と再会し、結婚を果たしたのです。
さらに1874年にはプラハのヴォイチェフ教会のオルガニストに就任しました。これによって、ドヴォルザークは安定した生活と社会的地位を手に入れることに成功します。
そして、音楽家としての実力が認められ始めたころ、ドヴォルザークはかつて失敗に終わったオペラ「王様と炭焼き」という作品を上演することを決意します。かつてはワーグナーの影響を強く受けていた彼ですが、今度はワーグナーとは正反対の手法をとったところ、初演から大成功でスタンディングオベーションの嵐だったと言います。
当時の音楽雑誌も「ドヴォルザークの名は金字塔として際立つような地位にまで高められることであろう」とドヴォルザークのことを絶賛しました。こうしてドヴォルザークはその名を広く知られることとなります。

~ブラームスとの親交~

ドヴォルザークは1874年に交響曲第3番、第4番を作曲し、それを国家奨学金の審査に提出します。この奨学金というのは当時のドヴォルザークの年収の2倍もの額がありました。
この奨学金には毎年審査があるのですが、ドヴォルザークは5年連続で審査を通過し、奨学金を獲得していたようです。そして、この国家奨学金制度を通じてブラームスと出会うことになります。

1877年、かねてから高い評価を受けていたドヴォルザークの「モラヴィア二重唱曲集」が当時審査員であったブラームスの目に留まったのです。感銘を受けたブラームスは懇意にしていたジムロックという出版社に紹介状を書き、その中でドヴォルザークの作品の出来を讃えました。
この紹介状をきっかけに翌1878年にドヴォルザークはブラームスのもとを訪ね、さらにその翌年にはブラームスがドヴォルザークのもとを訪ねるという風に親密な関係を築いていきました。

~国際的音楽家へと成長~

音楽家として一流であると認められたドヴォルザークですが、プライベートでは悲劇に見舞われることとなります。それが、次女と長男の急死でした。ドヴォルザークは愛する子供が立て続けに亡くなったことで大きなショックを受けました。

(Public Domain /‘The title page of the score of Stabat Mater1884.’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そして彼らの冥福を祈り作られたのが「スターバト・マーテル」という作品です。この作品はドヴォルザークの残した宗教作品の中でも傑作とされています。

(Public Domain /‘Slavonic Dances’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そして、ドヴォルザークはこの後も立て続けに名曲を生み出していくこととなります。18878年、ドヴォルザークはジムロック社から、当時ヒットしていたブラームスの「ハンガリー舞曲集」と張り合うことができるような「スラヴ舞曲集」の作曲を依頼されます。この作品はベルリン国民新聞にも「神々しい、この世ならぬ自然らしさ」と絶賛されます。ついにドヴォルザークの名声は国境を越え、ヨーロッパ中に広まったのです。
そしてその後、ドヴォルザークの作品は1882年にはドレスデン、1883年にはハンブルク、1885年にはウィーンといったように次々と海外で公演されるようになります。こうしてドヴォルザークはヨーロッパを駆け巡る活躍を見せるのですが、彼がとりわけ懇意にしていたのがイギリスでした。

1884年、ドヴォルザークはロンドン・フィルハーモニック協会に招かれ渡英し、いくつかのコンサートを開きました。特にロイヤル・アルバート・ホールで自ら指揮台に立ち演奏した際には、聴衆はとても盛り上がり熱烈に彼を歓迎したそうです。ドヴォルザークはのちに「私は心からの感謝を伝えるために何度も繰り返しお辞儀をしなければならなかった」と述べています。
これをきっかけにドヴォルザークは生涯で実に9度もイギリスを訪れました。ドヴォルザークとイギリスの関係はまさに相思相愛の関係でありました。
こうして世界を駆けまわっていたドヴォルザークですが、1888年にはプラハを訪れていたチャイコフスキーと出会います。2人は意気投合し、ドヴォルザークはその後、モスクワとサンクトペテルブルクにまで足を運んで会いに行ったといいます。

~ついには渡米~

(Public Domain /‘Facade of the National Conservatory of Music of America1905’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

国際的な名声を得たドヴォルザークはこれまでヨーロッパを中心に活動していましたが、1891年になると、さらに活動の場を広げるチャンスを得ます。ニューヨーク・ナショナル音楽院から、音楽院の院長に就任してほしいとの連絡が届いたのです。ドヴォルザークは最初辞退する意向を固めていましたが、長い間悩んだ末にこれを承諾しました。
ドヴォルザークはアメリカの人々からは大変歓迎されたようで、自身もアメリカのことを「ほとんどロンドンのような巨大な街だ。」と評し気に入ったようです。

(Public Domain /‘The title page of the autograph score of Dvořák’s ninth symphony’by Antonín Dvořák. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そしてアメリカに滞在している間に作曲されたのがあの有名な交響曲第9番「新世界より」です。この曲はドヴォルザーク自身アメリカを少なからず意識していたと語っています。「新世界」という言葉は紛れもなく、アメリカのことを指していたのです。

~帰国後~

ドヴォルザークは帰国後しばらくの間活動を休止していましたが、今度はオペラ創作に精を出し、プラハで再び大きな成功を収めることとなります。しかしながら、彼のキャリアの終焉が近づいているのもまた事実でした。彼はもともと尿毒症と進行性動脈硬化症を患っていたのです。

1904年、ドヴォルザークのこれらの持病が再発し、容体が急変します。ドヴォルザークは気分が悪いと訴えてベッドに横たわるとすぐに意識を失い、そのまま帰らぬ人となってしまいました。62歳でした。

<ドヴォルザークの代表作>

~交響曲第9番「新世界より」~

ドヴォルザークと言えば何と言ってもこの曲ではないでしょうか。第4楽章の冒頭で弦楽器パートが弓に圧力をかけて演奏する様子は何かが迫ってきている様子を如実に示しています。そして皆さんお馴染みのあのメロディーへと突入するのです。
また、「新世界より」は第2楽章も有名です。小さい頃夕方に公園で遊んでいると、5時にこの第2楽章のメロディーが流れていた記憶があるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。このように親しみやすいメロディーこそがドヴォルザークの醍醐味なのです。

~ユーモレスク~

この曲もアメリカ時代に作曲されました。ユーモレスクというのは音楽ジャンルの一つで、自由な形式の滑稽で気まぐれな曲調が特徴的です。このユーモレスクを聞けば、のんびりとした調子で軽い冗談を言い合っている光景が容易に想像できるのではないでしょうか。
また、途中で暗い曲調に変化する部分も見られます。ひょっとすると軽い冗談のつもりで言ったのに、相手を傷つけてしまった……。というシーンを表現しているのかもしれません。

<終わりに>

さて、今回はドヴォルザークという作曲家について見てきましたが、いかがでしたでしょうか。ドヴォルザークは多くのクラシックの作曲家の中でも特に国際的な評価を勝ち得た作曲家であったということがわかったのではないでしょうか。
今回ご紹介した曲以外にも、ドヴォルザークの作品は馴染みやすいメロディーが多いのが特徴です。ぜひ色々な曲を聴いてみてください。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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