チャイコフスキー:リズムの天才

(Public Domain /‘Nikolai Dmitriyevich Kuznetsov’by Nikolai Dmitriyevich Kuznetsov. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

さて、今回はピョートル・チャイコフスキーについてご紹介していきます。チャイコフスキーと言えばロシアを代表する作曲家です。「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」のようなバレエ音楽を耳にしたことがあるという方も多いのではないでしょうか。

また、チャイコフスキーは他の音楽家とは違った経歴を経て音楽の道へ進んだ作曲家でもあります。今回はそうしたチャイコフスキーの生涯と、彼の代表曲について見ていくことにします。ぜひ、最後までお読みください。

<チャイコフスキーの生涯>

~生い立ち~

チャイコフスキーの生家
(Public Domain /‘Tchaikovskys family in 1848’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)※左端の男の子がピョートル

ピョートル・チャイコフスキーは1840年、ロシアのウラル地方のヴォトキンスクという土地で生まれました。チャイコフスキーは幼少のころから音楽的才能を示してはいたようですが、彼の両親は彼が堅実な仕事に就くことを強く願い、音楽の道に進むことを認めませんでした。結局チャイコフスキーは音楽に未練を残しながらも10歳の時に法律学校に進学することになります。

(Public Domain /‘Portrait of Tchaikovsky as a legal student.’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

チャイコフスキーが14歳の時、母がコレラを患い40歳にして亡くなってしまいます。これにはチャイコフスキーも大きなショックを受けました。母の死という辛い出来事を乗り越えたチャイコフスキーは19歳の時に法律学校を卒業し、法務省に9等文官として勤務します。とはいえ、法律の道はもともとチャイコフスキー自身が望んだ道ではありませんでした。やはり、チャイコフスキーは音楽の道をあきらめることはできなかったのです。

~ついに音楽の道一本に~

こうして、官吏として働きつつ趣味で作曲活動をするという生活を続けていたチャイコフスキーですが、1861年、彼が21歳の時に人生を大きく変える転機が訪れます。チャイコフスキーが親しくしている友人から、ロシア音楽協会に入ることを勧められたのです。

ペテルブルク音楽院

興味を持ったチャイコフスキーは、迷うことなくロシア音楽協会のクラスを受講するようになります。チャイコフスキーが入学した翌年にロシア音楽協会はペテルブルク音楽院に改編され、チャイコフスキーはここで初めて音楽を本格的に学ぶこととなります。そして音楽家の道を志すと決めたチャイコフスキーは法務省の職を辞めることを決意するのです。
1865年、チャイコフスキーはすべての課程を修了し、ペテルブルク音楽院を卒業します。彼の音楽家としての最初の仕事は、モスクワ音楽院の理論講師として教鞭をとることでした。以降、チャイコフスキーは生涯にわたってモスクワで多くの時間を過ごすこととなります。

~作曲家としての成功~

(Public Domain /‘Pyotr Tchaikovsky’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

モスクワ音楽院の講師として働き始めた1866年には、「交響曲第1番『冬の日の幻想』」の初演が行われています。またこのころからチャイコフスキーは他のロシアの音楽家とも数多く交流を結ぶようになるようになります。

その中で代表的なのが「ロシア5人組」と呼ばれる、ロシアの民族楽派の作曲家たちです。チャイコフスキーとはまた違った音楽観を持った音楽家ばかりでしたが、彼らとの交流ののちに彼の曲にはロシア風の影響が見られるようになります。

(Public Domain /‘Nikolai Rubinstein 1872’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

また、チャイコフスキーは1875年、ピアノ協奏曲第1番という自身のキャリアを代表する名作を生み出します。しかし、初演を依頼した友人でありモスクワ音楽院院長のニコライ・ルビンシテインからは「この曲は陳腐で不細工であり、根本的に書き直すのが望ましい」と酷評されてしまいます。

(Public Domain /‘Hans von buelow’by Leonhard Berlin-Bieber. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

しかしながら、今度はハンス・フォン・ビューローという別のピアニストに依頼して初演に臨んだ結果、見事大成功を収めます。以後、この「ピアノ協奏曲第1番」はヨーロッパ中で大人気となり、当初は作品を酷評していたニコライもチャイコフスキーに謝罪し、自ら演奏を手掛けるようになったそうです。
こうして一躍ロシアを代表する音楽家にまで上り詰めたチャイコフスキーはその後も交響曲を立て続けに書くなど、精力的に活動を続けていきます。

~チャイコフスキー、旅に出る~

(Public Domain /‘Tchaikovsky with wife Antonina Miliukova’by Ivan Grigoryevich Dyagovchenko. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

さて、かつて婚約までたどり着きながらも破局するという苦い思いをしたこともあるチャイコフスキーですが、1877年、ついにアントニナ・ミリューコヴァという女性と結婚します。しかしながら、この結婚も大失敗に終わってしまいます。
夫婦間でのトラブルも絶えなかったようで、チャイコフスキーはモスクワ川に投身自殺を試みるほど精神的に追い詰められた状態になっていたそうです。しかしその年にはそんな状態にも関わらず、チャイコフスキーはあの名曲「白鳥の湖」を同じ年に完成させています。
そして1878年、これまで12年にわたって務めたモスクワ音楽院の講師を辞職して、チャイコフスキーはフィレンツェやパリ、ナポリなどのヨーロッパの諸都市を旅する生活を始めます。
こうした旅で得たものを活かし、1880年には「弦楽セレナード」、「1812年」などの彼を代表する名曲が生み出されます。また、これらの曲が制作された次の年には友人のニコライ・ルビンシテインが亡くなり、彼の死を悼んだチャイコフスキーは「ピアノ三重奏」という作品を残しました。

~帰国後の活動、そして急死~

(Public Domain /‘Tchaikovsky’s last home’by 作者名. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

こうしてチャイコフスキーは1878年からおよそ7年にわたって旅をしながら作曲をする生活をつづけましたが、1885年には彼の故郷ともいえるモスクワに戻ってきます。これ以降、チャイコフスキーは主にモスクワ近郊で残りの生涯を過ごすこととなります。

(Public Domain /‘Original cast of Tchaikovsky’s ballet, The Sleeping Beauty, Saint Petersburg, 1890’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Tchaikovsky in doctoral robe (Cambridge University, June 1893).’ByFlorence Henrietta Darwin. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

チャイコフスキーはモスクワに戻った後も「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」といったバレエの作曲や、カーネギーホールのこけら落としへの出演など、当時のクラシック音楽界を代表する作曲家として精力的に活動を続けます。そして、1893年にはケンブリッジ大学音楽協会から名誉博士号を授与され、その功績をたたえられました。

(Public Domain /‘Tchaikovsky in Odessa1893’by 作者名. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

こうして世界を代表する作曲家として活躍していたチャイコフスキーでしたが、彼の死は突然の出来事でした。1893年の10月、チャイコフスキーは自身最後の交響曲である「交響曲第6番『悲愴』」という作品の初演を行います。

チャイコフスキーの墓

しかしながら、なんとその初演から9日後の11月6日、チャイコフスキーは急死してしまいます。その原因には諸説あり、現在でもはっきりとしたことは分かっていません。チャイコフスキーはこのときまだ53歳でした。当時のロシア皇帝アレクサンドル3世は彼の死を悼み、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂にて国葬が行われました。

<チャイコフスキーの残した代表作>

「白鳥の湖」

チャイコフスキーの残した代表的なバレエ音楽の一つです。現在最も有名なバレエ作品の一つです。どこか物寂しい雰囲気の中に秘められた美しい旋律が印象的な作品です。

「くるみ割り人形」

これもまたチャイコフスキーが残したバレエ音楽の名曲です。「白鳥の湖」とは打って変わって、童心に戻ったかのようなかわいらしいメロディーが特徴的です。おとぎ話のような世界観は今でも世界中で愛されています。

「交響曲第5番」

チャイコフスキーの交響曲というのは現在ではどれも非常に有名ですが、その中でも特に人気が高いのがこの「交響曲第5番」です。クラシック音楽初心者でも親しみやすいメロディーが特徴的であると言えるでしょう。
特に第4楽章の感動的な旋律は多くのクラシックファンに愛されています。

<チャイコフスキーの音楽家としての評価>

最終的にはロシアを代表する作曲家としてその名をロシア中に知られる存在となったチャイコフスキーですが、実は彼の作品というのは少し期間を置いてから評価されたものも少なくありません。
例えば、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は今でこそ非常に有名ですが、先ほどもご紹介した通り、作曲された当初は友人のニコライ・ルビンシテインによって、演奏することができないと酷評されています。

(Public Domain /‘Leopold Auer’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

また、このピアノ協奏曲と並ぶ名曲であるヴァイオリン協奏曲も同じようなエピソードを抱えています。この曲が作曲されたときも名ヴァイオリニストであるレオポルト・アウアーに演奏を依頼したのですが、やはり初演を拒絶されてしまいます。
その後他のヴァイオリニストに演奏を依頼し無事初演を行うことができましたが、初演の評判もいまいちだったようで、一部の評論家からは「悪臭を放つ音楽」とさえ言われてしまいました。この曲もまた、各地で演奏されていくうちに徐々にその真価を理解されるようになっていき、最終的には演奏を断ったヴァイオリニストのアウアーも演奏するようになったというのもまた、ピアノ協奏曲の時と同じような展開です。

(Public Domain /‘Design for the décor of Act II of Swan Lake, Moscow, 1877’by F. Gaanen. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

今でこそ皆に知られる名曲「白鳥の湖」も初演の時は大失敗に終わったと言われています。これにはチャイコフスキーも大変ショックを受けたようで、再演を拒否していたとか。この曲に関しては不評の原因は振り付けや演奏者の技量によるものであり、チャイコフスキーの死の2年後に彼の書斎から再び発掘され、今度はきちんとした演出によって再演されたことで人気を博すこととなります。
このようにチャイコフスキーの作品は初演時には演奏者や演出者の技量のせいで、正当な評価をされないことが多々ありました。

<終わりに>

さて、今回はロシアを代表する作曲家ピョートル・チャイコフスキーについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか。チャイコフスキーは一度法律の道に進んでから音楽家になったという異色の経歴の持ち主ながらも、ロシアを代表する作曲家となりました。
彼のバレエ作品は今なお上演され続けていますので、興味を持たれた方は是非とも鑑賞してみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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