ドビュッシー:ロマン派と近代音楽の架け橋

(Public Domain /‘Claude Debussy 1908’by Otto Wegener. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ロマン派の音楽と言えば、優雅な曲調が特徴です。ショパンやシューマン、シューベルト、メンデルスゾーンといった作曲家の名前が思い浮かぶという方もいらっしゃるかもしれません。そういったロマン派の時代も、20世紀初頭で幕を閉じることとなります。

そして、次にやってくるのが近代音楽の時代です。ドビュッシーはこのロマン派と近代音楽という2つのジャンルの間を生きた作曲家であり、2つの時代の架け橋的存在として、クラシック音楽の歴史に大きな足跡を残しました。
彼がどのような生涯を送ってきたのか、そして、彼の代表曲にはどのようなものがあるのかを一緒に見ていきましょう。

<ドビュッシーの生涯>

~ドビュッシーの生い立ち~

ドビュッシーの生家

クロード・ドビュッシーは1862年8月22日に、パリの西部に位置するイヴリーヌ県サン=ジェルマン=アン=レーで、5人兄弟の長男として生まれました。
彼は幼少期からピアノの手ほどきを受け、その才能の片鱗を覗かせていたようです。

~ピアニストとしての挫折~

(Public Domain /‘Theatre du Conservatoire Paris CNSAD’by Charvex. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

少年時代から、音楽の才能を花開かせていたドビュッシーはわずか10歳にしてパリ音楽院に入学します。パリ音楽院と言えば、現在でも言わずと知れた超名門音楽学校です。特にその年の合格者はわずか33名であったという記録も残っており、やはり相当な実力の持ち主であったということは疑いの余地がないでしょう。

ドビュッシーはもともとピアニストになることを志して入学しており、1873年にバッハの「トッカータ」という曲を弾いた際には、その才能を高く評価されました。
そこで自分の演奏を賞賛されたドビュッシーは自分のピアニストとしての技量に自信を持ち、ピアニストになることを決心します。しかしながら、彼はこの後パリ音楽院で挫折を経験することとなります。
当時、パリ音楽院では毎年学内のコンクールを行うことによって学生たちを切磋琢磨させていました。ドビュッシーも当然そのコンクールに参加したものの平凡な賞を取ることしかできず、賞を逃すことも多々ありました。
入学時には大きな自信を胸にピアニストを目指していたドビュッシーもさすがにこの結果から目を背けることはできず、ピアニストの道を諦める決心をします。ほどなくして、ピアノ科からも姿を消しました。

一方でパリ音楽院在学中のドビュッシーは作曲にも挑戦しており、16歳の時には「フーガ」という現存する中で最古のピアノ曲を残しています。
また、ドビュッシーはロシア音楽にも強い関心を示していたようです。
彼は18歳の時にチャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の旅行に、ピアニストとして同伴する機会を得ました。その際、彼は夫人の計らいで「ボヘミア舞曲」という作品をチャイコフスキーの元に送らせてもらいます。

(Public Domain /‘Pyotr Ilyich Tchaikovsky. Russian composer of the Romantic era’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

しかしながら、まだ作曲家としてのキャリアが浅かった当時のドビュッシーはチャイコフスキーからその作品を酷評されてしまいます。それでも、ドビュッシーはチャイコフスキーからの厳しい評価に屈してしまうことなく、その後もロシア音楽には大きな関心を示し続け、チャイコフスキーの最新の作品を逐一チェックし、ロシア5人組と呼ばれた有名な作曲家5人の作品をくまなく研究するなど、チャイコフスキーからの酷評はむしろ彼の情熱に火をつける契機となったようです。

〜作曲家として新たなる道へ〜

(Public Domain /‘Claude Debussy1884’by Marcel Baschet. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

このような経緯を経て、ドビュッシーは作曲の道に専念することとなりました。そして、ドビュッシーは自らの作曲した作品を試すように「ローマ賞」という作曲家のためのコンクールに出品するようになります。
ドビュッシーは1882年に初めてローマ賞に出品しましたが、この時は予選落ちに終わってしまいました。しかしながら、2年目の挑戦では、「祈り」という作品を持ってして見事に予選突破を果たします。そのまま本戦にも出場したドビュッシーは「剣闘士」という作品で第二等賞を獲得します。
ドビュッシーはローマ賞という大きなコンクールにおいて初めての賞を獲得したことで、作曲家として大きな自信を手にすることとなったのです。そして、1884年に3回目のローマ賞に挑戦するのですが、ここでドビュッシーは更なる名誉を手にすることとなります。
ドビュッシーは「春」という作品で軽々と予選を突破すると、本選では「放蕩息子」という作品を提出し、見事ローマ大賞を獲得します。ついにドビュッシーは作曲家としての大きな名誉を手にすることができたのです。
ローマ大賞を受賞した作曲家にはローマへと留学する権利が与えられ、ドビュッシーも2年余りに渡って、ローマで作曲家としての研鑽を積みました。しかしながら、ドビュッシーはイタリアの雰囲気があまり好きにはなれなかったようです。
ドビュッシーは結局留学期間の終了を待たずして、パリへと戻りました。ちなみにドビュッシーがパリに戻ったのは、当時ドビュッシーが片思いをしていた相手がパリで暮らしていたということも関係していると考えられています。

1882年にはワーグナーが建設したことで知られるバイロイト祝祭劇場へと赴き、念願であった「ニュルンベルクのマイスタージンガー」というオペラ作品を鑑賞し感銘を受けました。

〜作曲家としての全盛期〜

ついに作曲家としての地位を手に入れたドビュッシーですが、1889年、27歳になったドビュッシーは更なる飛躍を遂げることとなります。
同年1月、これまでの功績を認められて国民音楽協会に入会し、そこで多くの著名な作曲家たちとの人脈を手に入れます。また、この国民音楽協会に入ったことによって自らの作品を発表する機会を得ることにもなりました。

(Public Domain /‘Exposition Universelle de Paris 1889’by 作者名. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

また6月には彼の生まれ故郷であるパリで万国博覧会が催され、ドビュッシーは特にジャワの民族音楽である「ガムラン」に大変大きな感銘を受けたようです。彼はのちにこのガムランをモチーフにした楽曲をいくつか残しています。

また、この年、ドビュッシーは人生で2度目のバイロイト音楽祭に参加し、そこでワーグナーの音楽を耳にします。今まで彼はワーグナーの音楽に対して大きな敬意を払ってきましが、この音楽祭を境に「アンチワグネリズム」と呼ばれるワーグナーの音楽に対して否定的な立場をとるようになります。そしてこのこともまた、彼の作風の変化に反映されていくこととなります。
こうしてドビュッシーは第一次世界大戦が始まる1914年頃まで活発に作曲活動を続けることになります。

~大戦の始まり、そして晩年~

1914年に第一次世界大戦が始まった時には既にドビュッシーは大腸がんを患っており、以降4年にわたって彼は自らの病と闘いながらの作曲活動を強いられることになります。この頃「様々な楽器のための6つのソナタ」という作品にも着手しますが、完成できたのは3曲のみと非常に苦しい状態であったことが窺えます。
1918年になると、ドビュッシーは直腸がんにも悩まされるようになり、いよいよベッドで寝たきりの生活を送ることとなります。そしてその年の3月25日、ついにドビュッシーは息を引き取りました。ドビュッシー55歳の時でした。

<ドビュッシーの代表曲>

~ベルガマスク組曲「月の光」~

おそらくドビュッシーの残したピアノ曲の中で最も有名なのがこの「月の光」という作品なのではないでしょうか。テレビでBGMとして用いられることも度々あるので、冒頭のメロディーを聞いたことがあるという方も少なくないはずです。
まるで窓から一筋の月の光が差し込んでいるかのような冒頭から、それが雲と重なりあって様々な光の筋へと変化しているさまが緻密に表現されているかようです。ドビュッシーの作品の中でも、特にロマン派よりの作品であるということができます。

~「牧神の午後」への前奏曲~

こちらはオーケストラの曲となります。冒頭では不思議なフルートのメロディーによって不思議な世界へと誘われているような感覚に包まれます。少し眠気がして、ゆったりと過ごしたい午後の雰囲気にピッタリの曲です。

<終わりに>

さて、今回はドビュッシーについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか。ドビュッシーはロマン派と近代音楽のはざまに生きた音楽家です。どちらにもとらわれない絶妙なバランスがまた彼の魅力であるといえます。
ぜひ今までにご紹介したロマン派の作曲家の作品とも聞き比べて、彼の音の新鮮さを感じてみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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