千と千尋の神隠し:作品に込められたメッセージと現代社会の病理

2001年に公開されたスタジオジブリの長編アニメーション映画「千と千尋の神隠し」。日本歴代興行収入第1位を獲得、この反響を受け、海外でも公開されるとアカデミー賞長編アニメ映画賞を受賞、21世紀の偉大な映画ベスト100にも選ばれるなど、反響は凄まじいものである。

ここまでの大ヒットの背景は、作品に込められたいくつもの謎に起因するとの考えが広く浸透している。作品に散りばめられた謎は果たして何を意味しているのか、そこを紐解くと、興味深いメッセージと現代社会に通ずる問題が見えてきた。今回は、謎とメッセージ、そして現代社会の病理を深掘りしていこうと思う。

■油屋の神様たち

物語の舞台となるのが湯屋「油屋」。
八百万の神様たちが日々の疲れを癒しに訪れる、大衆浴場のような場所である。従業員は経営者の湯婆婆を筆頭に、千尋や何かしらの動物の化身たち。外観から察するにとても大きな建物で、中の構造も複雑な作りのようだ。従業員の部屋やボイラー室、いくつもの湯釜を置いた浴場、そして宴会場など様々な施設が1つに集約されている。

そこに集う神様たちは個性豊か。例えば劇中でひよこたちが密集して湯に浸かっているシーンを覚えているだろうか。あのひよこはオオトリ様という神様の1人だ。愛嬌のある見た目をしており、大所帯でお風呂に入る習性があるのだとか。ちなみにたまごから生まれてこられなかったひよこの神様らしい。
可愛らしい神様がいる一方で、ちょっとイカつい神様もいる。角を生やした鬼のような見た目の牛鬼、お札のような仮面を顔に貼っている春日様など。他にも、オクサレ様といった最初はヘドロのような姿で登場した神様もいた。正体はおじいちゃんのような面を付けた川の主であり、千尋の尽力によりゴミだらけだった身体が洗い流されたのだった。

そんな神様の中でも千尋の味方のような行動をしてくれたのが「おしら様」。白く豊満な身体、頭に赤いお椀を被り、下半身は赤いふんどしを身にまとった神様だ。おしら様は大根の神様で、実際に東北地方で信仰されている神様である。人に寄り添う優しい神様として慕われているが、作中でもその大きな身体でさりげなく千尋をかくまったり、湯婆婆の所へ行くのを助けてくれたりと、優しさを滲ませた神様であった。

そんな神様たちは、何故こんなにも個性的なのだろうか。
そもそも油屋は湯婆婆の魔法によって洗脳されている世界で、世界が歪んで見える場所である。そのため、神様たちも本来の姿とは違った、特徴的な姿として登場したのかもしれない。また、日本でいう八百万の神とは、字のまま800万の神様を指す。これだけの神様がいるため、見た目にバリエーションがあるというのも考えられるだろう。また、個性的な神様たちを豊富に登場させた方が、没個性にならず映像的にも面白いことは言うまでもない。

■油屋は実は風俗店説

色々な考察の中で「油屋は風俗店をモチーフ」にしているという説がある。豪奢な見た目の建物が昔の日本にあった遊郭を想起させること、油屋に勤める従業員の多くが女性だということ、さらに監督の宮崎駿を始めとする制作スタッフがそのような言動をしていたことに起因している。

監督がそう明言したのであればそれが真実なのかもしれないが、何故風俗店のようなものをイメージしたのであろう。ジブリ作品といえば幅広い年代に親しまれている。大人も子どもも見るので、子どもにとってはいささか教育に良くないのではという指摘も入りそうなものだ。しかしここに宮崎駿が描きたかった世界が、メッセージが隠されているのだろう。

終戦後の日本では、大人も子どもも関係なく働かなくてはならなかった。それこそ遊郭があった江戸時代では、7、8歳頃の女の子も花魁や太夫といった高級女郎の下につき座敷に出ていたという事実もある。男の子も同様に家業を手伝ったり、武士の家の生まれの子だと早くから鍛錬を積んだりしていたそうだ。
本作ではまだ10歳の千尋が親元を離れて油屋で働いている。これは正に昔の日本にあった光景と同じである。働かなければ生きていけない、当然のことのように感じるが、それが現実としてまかり通っていた時代があることを、作品を通して再現したのではないだろうか。
また、風俗店という大人の厭らしさや欲が蔓延る店を舞台にすることにより、ありのままの10歳の少女がその荒波に揉まれる描写を取り入れたかったのかもしれない。往々にして子どもから見て、大人の世界というのは煌びやかに見えるものだ。しかし、反面何かが間違っている、何かがおかしいと感覚的に察知する。それが「社会の闇」だとはまだ理解できなくても、「汚い」ということは理解する。そうしたある種の大人の社会では当たり前になった「常識」を子どもの目を通して見ることが、本作を通して行いたかったことなのかもしれない。

■カオナシは何者なのか

奇妙な生き物が数々登場する中で、一際こいつは何者だ?と想像力を駆り立ててくれるのがカオナシである。黒い影のような身体にお面だけが付いたような見た目をしており、「ア」というような一音しか発することができない。自力でのコミュニケーションがとれないために、他人を飲み込んで声を借りることで話すことが特徴である。性格傾向については、普段は温厚な立ち居振る舞いをするが、気分を害するとあらゆるものを飲み込んだり身体を肥大化して暴走する節がある。最初は千尋に気に入られたいがために金を渡したりしていたが、拒絶されると怒りのあまりか油屋にて暴走していた。

といった具合に、危険な存在なのか味方なのかの見極めが難しく、それ以前にカオナシはどんな理由の元、登場しているのか、立ち位置などが全く掴めないキャラである。これについてはいくつかの考察があるが、宮崎駿は「現代の若者をイメージしている」と発している。「現代の若者」とはどういうことだろうか。宮崎駿には「現代の若者」がどう見えているのだろうか。

頻繁に耳にする「現代の若者」の評価は「若者は欲がない」「個性がない」「競争心や野心がない」といったところだろうか。他人の顔を伺い空気を読む、社会的不景気から将来の見通しも立たず安定や平凡を好む、こういった傾向は確かに強くなっているように感じる。これは現在、日本が陥っている深刻な病理が起因していると考えられる。終戦後の高度経済成長期、人々はそれこそがむしゃらに仕事に打ち込み、それが社会全体の成長に結びついていた。そして日本は世界的に見ても飛躍的な急成長を遂げ、成熟した国となった。誇らしい事実ではあるものの、こうした成熟した社会に待ち受けているのは衰退である。熟した果実が腐るのと同様で、今、日本経済は確実に成熟社会の病理の1つ、衰退の経過を辿っているのだ。こうした背景が散々嘆かれている不景気に繋がり、現代の若者から欲や野心、個性を奪ってしまったのではないだろうか。

次に、「現代の若者」を社会的単位でなく、個人単位から解剖していこう。

カオナシはコミュニケーションの手段を持たないという特徴がある。声を持たないカオナシは他者を飲み込むことで声を手に入れ、初めて他者と会話ができるようになるのだ。また、闇と同化してしまいそうな特徴のない身体。この2つの特徴から推測できうるのは、カオナシ自身には「自己」というものがないという点である。
また、暴走していたシーンを見る限り、感情をコントロールすることが下手なように感じる。携帯電話やゲームの普及により現代人のコミュニケーション不足が嘆かれ、結果としてコミュニケーション能力の低下が生じているそうだが、適切なコミュニケーション能力が培われていない者同士が対峙した際に起こりうるのは、譲歩を知らない自我の押し付け合い、つまりは喧嘩、敵対である。カオナシが暴走した所以も、コミュニケーション不足を原因とする、感情の抑制力の欠如が招いたのかもしれない。

また、こんな視点はどうだろうか。
カオナシは最初、千尋に気に入られたいような素振りを見せていた。例えば千尋に金塊を手渡そうとしていたり、番台から薬湯の札を盗んだり。これらの行動は明らかに千尋のためを思って起こしている行動である。しかし結果として千尋はその好意を受け入れなかった。そして暴走。
この一連の流れ、わたしたち人間でも頻繁に起こす流れだとお気付きであろうか。好きな人に気に入られたいから相手が喜ぶであろう行いをする、しかし拒絶され、不貞腐れる、もしくは癇癪を起こす。自分の要求を受け入れてもらえなかった、期待に沿わなかった、というのが、この一連の流れに対する基本的な解釈であろうが、筆者は相手との距離を量り兼ねてしまった結果であるとも考える。

相手が喜ぶ行為をしたいと思うのは、全人類共通の思いだろう。しかし、自分の行い全てが相手に受け入れられるかといえば、それはまた別の問題となる。カオナシの場合も、千尋は自分がこうすれば喜ぶに決まっている、と考えてしまったのではないか。その結果が期待に反するものだったために感情の行き場がなくなり暴走という手段に及んでしまった、と。要するに、相手と自分との適切な距離感をカオナシは知らなかったのだろう。

これは「現代の若者」の多くが抱えている問題だと推測される。先に触れたコミュニケーション不足という観点からも追求できるが、これは他者との関わり方が社会的に変化してきている点が大きく関与するのではないか。
核家族が増えている現代で、周囲との関わりは着実に希薄になっているように感じる。それは家族単位で見た時も該当するし、例えば町内会や学校単位、会社単位で見てもそうだろう。例えば昭和の時代は近所の人にも当たり前に怒られた、という話を聞くが、現代では全くそのような事例は耳にしない。それどころか下手に他の家の子どもに説教をすれば問題になり兼ねない。また、昔は道行く人が挨拶をかけてくれたという話も、現代では一歩間違えれば警察に通報がいく世の中になってしまっている。防犯意識が高いといえば聞こえは良いが、保守的な方向へシフトしていることには変わりない。こうして育った子どもたちが、果たして昔の子どもたちと同じに育つだろうか。答えは否であろう。確実に他人との関わり方に違いが生じるだろう。
そうして他者に対し、ある種の排他的環境の中で育った若者たちは、他者との適切な距離感を築くことが困難になってきているのかもしれない。誰かに認められたい、しかしその術を知らない、だから相手の気持ちを慮るのではなく、自分の思いを優先させた方法になってしまう。

また、先にカオナシには自己がない、と表記したが、これも他者との距離感を築く上での障害になりうるだろう。「自己」とは「自分とは何者か、という問いに対する自分なりの答え」のようなものだ。自分をしっかり掴めていない人間は自信がないことが多く、他者とも距離を置きやすい傾向がある。自信は成功体験や他者からの承認など、色々な要因によって積み重なるが、そもそも他者との距離感が上手く掴めない人は他者と関わる頻度が低い。よって成功体験等を獲得できず、自信を手に入れるチャンスを逃してしまうのだ。そのためより一層コミュニケーション不足に陥ってしまうのだろう。

もし本当に現代の若者の多くが自己というものを確立しきれずにいるとしたら、カオナシのように曖昧な距離感で他者と関わり続ける人も増えているということだろう。誰かと密に接したいのに自信がないから、つかず離れずの曖昧な距離感までしか詰め寄れないのだ。そこも含んだ上で「現代の若者」と称するのなら、カオナシはまさしく「現代の若者」を象徴した存在であろう。

■電車のシーンに隠された謎とメッセージ

物語は進み後半に入ると、千尋はハクを救うためにカオナシと一緒に銭婆の元へと向かう。その方法は電車。水上を走る片道一方通行の電車に揺られ、隣に座るカオナシとただ無言で電車の揺れに身を任せているシーンは覚えている人も多いだろう。

このシーンには多くの謎が込められていると、ファンたちの間で様々な考察が繰り広げられている。その内容は、なんで電車なのか、一方通行の理由は何なのか、電車内にいる黒い半透明な人々は何者なのか、このシーンに込められた本当の意味は何なのか、など。これらの考察は一通り済んでいるようで、目新しい考察もないのだが、いくつか独自の視点から見解を述べていこうかと思う。論点は電車の方向と、電車から見える景色について。

まず、電車の方向について。この電車が一方通行である点について。これは時間の流れを意味しているという。時間というのは戻ることができない。ましてや巻き戻しもできない。
時間という概念としては当然の事実だが、あえてここでそのことを伝えたのは何故か。

思うに、どんな困難な事態が起こってもそれを取り消すことはできない、起こってしまった問題を打破しようとするならば、前に進むしかないのだ、ということを伝えたいのではないか。千尋はハクを救うためにこの電車に乗り込んだわけだが、ハクが捕まった事実は覆らない。それが異世界であってもだ。勿論、そこで立ち止まってしまっても当然助けることなど不可能だろう。その事実を受け止め、苦難であろうと進む道しかない、というメッセージを表現したのかもしれない。
千尋はまだ10歳という幼い少女だ。これから大人になるにつれて、問題は次々と起こるだろう。そしてその度に思うことだろう。どうしたらいいのか、と。まだ幼い故に気付かないかもしれないが、理不尽なこともどんどん起こる。その時にも時間は等しく進み、その歩みに沿って進んでいくことしかできないという、ある種の厳しい現実を電車の進行方向にのせたと推測する。

次に、電車から見える景色についてだが、この時の外の景色を思い出せるであろうか。

水天一碧、海の青と空の青がどこまでも続く、晴れ晴れとした美しい景色であった。
この景色、どこか違和感を覚えなかっただろうか?どこもおかしくはないのだが、電車の中の殺伐とした雰囲気と全くリンクしていないのだ。電車内で千尋は無表情で座り、カオナシもただじっと座っている。交わされる会話は皆無であり、他の乗客は人ならざる異様な存在たちだらけ。それなのに背景は清々しい青一色の世界。このミスマッチは何故生まれたのだろう。

これには宮崎駿が言及しているのだが、「この世界にも綺麗なところはあると知ってほしかった」とのことである。なるほど、確かに奇妙な世界であり、理不尽なことが立て続けに起こっている中で、綺麗な世界があることを表現するには適していると思われる。しかし本当にそれだけなのだろうか。もし綺麗なところがあるということを表現する場合、他のシーンでも問題なかったはずだ。
宮崎駿がこのシーンにそのメッセージを込めた意味は、きっとこういうことだろう。人は問題や困難にぶつかった時、視野が狭くなりがちだ。周囲のことに目をやる余裕もなくなり、普段ならば気付けるような些細な出来事にも気付けなくなる傾向がある。しかし、そんな時でも周囲は普段と同じく動いているし、そこが綺麗な場所であるならそれも変わらない。困難な時にこそ、周囲に目を配らせてみてはどうだろうか、というものだろう。また、乗車中、千尋は外を見ず一貫して景色には背を向けていたが、これは問題にぶつかった時に視野が狭くなってしまっている点を示唆していたのかもしれない。往々にして、困難が目の前にある時、人間はその問題にしか目を向けられないものだ。さらに、目の前には混沌とした世界が広がっているが、皮肉にも目を向けなかった側の世界は美しいこともある、という点も表現しているのかもしれない。

いずれにせよ、生きている限り誰にでも大なり小なり問題は生じる。やり直すことはできないし、その問題はその人の人生を狂わせるかもしれない。けれども世界は灰色に染まるわけでなく、確かに美しい面はある。そして、前に進むことができるのだ、という前向きになれるような意味が込められているのだろう。

■湯婆婆と銭婆の対極性

さて、電車に揺られて千尋たちは銭婆の元へと無事に到着するが、この銭婆、湯婆婆と瓜二つなのに性格は真逆となっている。湯婆婆は強欲で口煩く、自らのためならば悪事にも手を染める。対して銭婆は心優しい穏やかな性格で、遥々訪れた千尋らをもてなす気遣いも見せていた。双子なので見た目が同じことは頷けるが、何故このように性格を真逆にしたのだろうか。

これは人間の持つ理性と欲求の二側面を現しているという説が有力である。
言うまでもなく銭婆は理性を、湯婆婆は欲求を体現している。では、何故この二側面をわざわざ表現したのか。それは社会を生きていくためにはどちらも必要であるし、逆にどちらかだけでは生きていけないという事実があるからだ。
この事実を改めて口にする大人はいないだろう。ただし、誰もが漠然と胸に秘めている思いである。自我を押し通して、自分本位にしていては大人の社会では許容されない。かといって、誰の言葉にも耳を傾け肯定ばかりしていても「自己主張がない」と批判されてしまう。そんな世の中だからこそ、理性も欲求もどちらも必要な要素となってくるのだ。普段は理知的に、協調性を持って行動しながらも、時には自分の意見を曲げずに示す、この絶妙な按配が求められるのが「大人」なのだ。
銭婆は「2人で1人前」と発言しているが、まさしく、この2つの要素があって1人前の大人として認められる。難しいことであり、多くの大人はこの事態に息苦しさを感じていることだろう。だがやはり、世の中を構成するのは、理性と欲求のバランスを維持した大人たちなのだ。このバランスが崩れることにより、社会的問題に発展する恐れもある。現代社会の大人の抱える病理を垣間見られる存在として、湯婆婆と銭婆という対照的な存在を登場させたのだろう。

■さいごに

これまで本作の謎を社会的な問題に照らし合わせて述べてきたが、ここまで現代社会の問題に触れた作品も珍しいことだろう。物語を突き詰めれば突き詰めるほど、まるで現代社会の闇が浮き彫りになるようだ。
元来、ジブリ作品は様々なテーマや社会問題をはらんでいるものだ。本作はそんなジブリ作品の中でも特に現代社会に突っ込んだ作品であるかもしれない。10歳の小さな女の子を通して、ここまでリアルに追求し、その答えも合わせて盛り込んでいるのは恐れ入る。
こうした経緯があるからこそ、本作は映画史に残る大ヒット作になったのかもしれない。多くの人が抱えている問題であるからこそ人々の心に突き刺さり、共感を得た。もし本作の大ヒットの所以がここにあるのであれば、それは果たして喜ぶべきことか、嘆くべきことか。いずれにせよ、2時間余りに込められた多様なメッセージは、まだまだ独自の視点から見ることが可能である。見る人によっても感じ方や考え方が異なるであろうし、より深く掘り下げた考察を繰り広げてみたいものだ。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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