ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ:「Less is more.」

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは20世紀モダニズム建築を代表する建築家です。ル・コルビジェやフランク・ロイド・ライトとともに近代建築の三大巨匠とされる彼の生涯とはどんなものだったのでしょうか。

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエとは

(Public Domain /‘Portrait Ludwig Mies van der Rohe, 1934’by Hugo Erfurth. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは1886年、ドイツのアーヘンに生まれました。父親ミヒャエルは墓石や暖炉を得意とする石工だったといわれています。彼は大学で正式な教育を受けることはなかったものの、地元の職業訓練学校で製図工になるための教育を受けています。

1906年になると建築はもとより家具デザインでも名声を得ていたブルーノ・パウルの事務所に勤務することになり、1907年には同僚の紹介で初めての仕事となるリール邸を手がけます。哲学者アロエス・リエルの邸宅として設計されたこの建築で彼は実力を認められ、1908年から1912年までペーター・ベーレンスの事務所で製図工として働くことになります。

ペーター・ベーレンスはモダニズム建築や工業建築の発展に多大な影響を及ぼした人物で、AEGのタービン工場の設計など初期モダニズムの名建築を設計しました。のちにバウハウスの創設者となるヴァルター・グロピウスやル・コルビジェなども一時期ベーレンスの建築事務所に在籍しており、近代建築の巨匠たちが学びあう場を作り上げたという意味では、その影響の大きさは計り知れません。

彼はベーレンスの事務所で働きながら建築を学び、その経験をもとに1912年に自分の事務所を構えます。その後はベルリン近郊の富裕層の住宅を手掛けるようになりました。特に1927年ドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展に参加し、ヴァルター・グロピウスやル・コルビジェ、ブルーノ・タウトらとともに実験的な総合住宅を設計したのは、彼のキャリアの中でも大きな出来事でした。

そんな彼のもとに舞い込んだ最初の大きな仕事が「バルセロナ・パビリオン」です。バルセロナ・パビリオンは1929年のバルセロナ万国博覧会のドイツ館として建設された建物で、スペイン国王を迎えるためのホールとして設計されました。水平に長く伸びる薄い屋根を鉄柱が支える構造や、オニキスやテニアン大理石など高価な素材が用いられたバルセロナ・パビリオンはモダニズム建築の傑作といわれており、高い評価を受けました。

このパビリオンは博覧会終了後取り壊されましたが、1978年にニューヨーク近代美術館がパビリオン50周年展を企画、ミース生誕100周年にあたる1986年に博覧会当時と同じ場所に復元されました。

その後ミースはグロピウスの推薦で1930年からバウハウスの第三代校長をつとめ、教育者としてもその手腕を発揮していくことになります。しかし、当時のドイツにはナチスドイツが台頭し、バウハウスは右翼勢力から疎まれる存在でした。徐々に経営は厳しくなり、ついにナチスによってバウハウスは閉鎖。彼はその前に解散を宣言したものの、ドイツにとどまることは難しくなり、新天地アメリカに亡命することになります。

アメリカ亡命後は1938年から58年にかけてシカゴのアーマー大学建築学科の主任教授をつとめ、後進の指導に当たる一方で、ファンズワース邸やシーグラム・ビルディングといった20世紀を代表する建築の設計にも携わっていきました。

「Less is More」とミースの作品

彼が設計を行う上で重要視した考えが、「Less is More」です。「より少ないことはより豊かなこと」という意味で用いられるこのフレーズは、必要のないものを極限までそぎ落とすことで、より豊かな生活が実現できるという彼の信念を表しています。そんな彼の理想を追求した建築とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

ファンズワース邸1951年

(Public Domain /‘Farnsworth House 2006’by Carol M. Highsmith. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ファンズワース邸はエディス・ファンズワースという腎臓科医が趣味に没頭するために作られた別荘です。イリノイ州のフォックス川に面した広大な敷地に建てられた建築で、ミースの代表作であるとともに20世紀のモダニズム建築を代表する名建築として今も訪れる人が絶えません。

外部に接触している壁はほとんどガラスで作られており、建物周辺の自然に極限まで溶け込むようなデザインです。家の中と外の概念が曖昧になっています。また、解放的な印象を与える一方、個人のプライバシーを視覚的に保護できる「部屋」を作り出すためのカーテンレールも取り付けられるようになっています。

内部に柱はなく、側面に枠のように配置された柱のみで建物は支えられています。内部を自由にゾーニングすることができ、用途によって変化できる柔軟性を持つこの家は、ミースにとっての理想を最初に実現した建築でした。

トゥーゲントハット邸1930年

トゥーゲントハット邸は1928年から1930年にかけてチェコスロバキアのブルノに建てられた邸宅です。この邸宅の設計にあたっては「近代建築の五原則」のひとつである、食堂や書斎、サロンなどが仕切られることのない「自由な平面」が意識されており、彼の代表作としても知られています。

トゥーゲントハット邸はもとも実業家のフリッツ・トゥーゲントハットの依頼で設計が始まり、1930年に完成しました。しかし、トゥーゲントハット一家はユダヤ人であったことからナチスドイツの迫害を恐れ、スイスに移住してしまい、その後一家が戻ることは二度とありませんでした。

第二次世界大戦中にはドイツ人が占領し、メッサーシュミット社の研究所が置かれるなどしましたが、その後はロシア人が占領するなど数奇な運命をたどりました。1955年にはチェコスロバキアの国有資産となり、子どもたちの再教育センターが設置、1963年には歴史的文化財の指定を受け、1992年にはチェコスロバキアを解体するための調印式を開催する場所として用いられました。

現在トゥーゲントハット邸は一般人が訪れることも可能になっています。さまざまな歴史を持つトゥーゲントハット邸ですが、今もモダニズムを代表する名建築として称賛を集め続けています。

シーグラム・ビルディング1958年

シーグラム・ビルディングは1958年シーグラムのアメリカ本社ビルとして設計された建物で、アメリカ合衆国歴史登録財に指定されている建物です。

オフィスの内部空間は仕切りのないフロアが続いており、用途に合わせて自由に仕切れるようになっています。これは彼の「Less is more」の信念を表しているとともに、インターナショナルスタイルの代表作として大きな称賛を集めました。

またシーグラムビルはブロンズや大理石、トラバーチンといった高価な内装材を使用したことにより、当時もっとも高価な高層ビルとしても有名になりました。

おわりに

ミース・ファン・デル・ローエはドイツのアーヘンに生まれた建築家で、「Less is More」の信念のもと、ファンズワース邸やシーグラム・ビルディングといった名建築を生み出しました。彼はバウハウスの校長として教育面でもその手腕を発揮しますが、ナチスドイツの台頭により、アメリカに亡命。それをきっかけとしてインターナショナルスタイルが花開くことになります。
インターナショナルスタイルは今も現代に受け継がれており、所々で見かけることができるのは、彼の建築に対する精神に今も称賛が絶えないからなのでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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