ジョルジョ・デ・キリコ:形而上絵画とシュルレアリスム

ジョルジョ・デ・キリコは1888年ギリシアのヴォロスで生まれた、シュルレアリスムを代表する画家です。キリコの幻想的な世界観は当時の芸術家たちに大きな衝撃を与え、1919年以降になると新古典主義や新バロック形式の作品を制作するなど、多様なスタイルに挑戦した画家でもありました。

ョルジョ・デ・キリコとは

(Public Domain /‘Giorgio de Chirico (1936)’by Carl Van Vechten. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ジョルジョ・デ・キリコは1888年、ギリシアのヴォロスでジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれました。1891年には弟アンドレアが生まれ、のちに兄弟で画家として活動していくことになります。1900年になるとアテネの理工科学校に通い、画家のジョルジオ・ロイロスやジョルジオ・ジャコビッヂのもとで美術を学びます。このころ静物画を描いており、これがキリコの最初期の作品と考えられています。

1906年にはギリシアを離れてフィレンツェに移り、1907年にはドイツ、ミュンヘンの美術アカデミーに入学することになります。そこではフリードリヒ・ニーチェ、アルチュール・ショーペンハウアー、オットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学に加え、当時大きな注目を集めていたアルノルト・ベックリン、マックス・クリンガーといった象徴主義の作品を目にし、多大な影響を受けます。

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1909年の夏にはイタリアに戻りますが、そのころのキリコは精神的に衰弱状態にあり、幻覚に悩まされながらも、そうした苦しみを表現するかのように神秘的な世界を描き始めます。1910年になるとフィレンツェに向かい、ベックリンの作品を参考にしながらはじめての「形而上絵画」を制作します。形而上絵画とはキリコによってはじめて描かれるようになった作品スタイルで、「実際には見ることができないものを描く絵画」とされています。

1911年にはパリに移住し、先にパリで生活を送っていた弟のアンドレアと生活を共にするようになります。1913年になるとアンデパンダン展やサロン・ドートンヌなどで作品を発表します。この時展示した作品にパブロ・ピカソやギヨーム・アポリネールなどが関心を持ち、この時の縁がきっかけで1914年には画商のポール・ギヨームと売買契約を交わすことになります。

形而上絵画とは

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ここでキリコの作品を表す言葉である、「形而上絵画」について確認しておきましょう。形而上絵画は上記でも述べた通り「実際には見ることができないものを描く絵画」とされています。実際にキリコの作品を見てみると、古代的なモチーフや影、ゴム手袋など実際にはありえない組み合わせが描かれており、どこか幻想的な雰囲気を漂わせています。

この「形而上」という言葉はキリコがカルロ・カッラと出会ったことで、そう呼ばれるようになったといわれています。カッラはイタリア未来派の画家で、二人は「形而上」という言葉を「どこかつじつまが合わない、納得がいかない」といった意味合いで用いており、幻想的で、非現実的な表現を指す言葉として用いようとしました。

シュルレアリスムの提唱者であるアンドレ・ブルトンはキリコの形而上絵画を高く評価しており、シュルレアリスムを代表するイメージとして位置付けました。キリコの作品はマックス・エルンストやルネ・マグリット、イヴ・タンギーといったシュルレアリストたちにも大きな影響を与えたといわれています。

キリコの作品

では「形而上絵画」として当時のアートシーンに大きな影響を与えることになったキリコの作品はどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《通りの神秘と憂愁》1914年

この絵は、フープを持って走っている小さな女の子と、その影を通してのみ絵の中に存在する人物らしきものの出会いを表現しています。右側に描かれた少女は、手前の建物の背後から伸びているらしき光源に向かって移動しているようです。地平線まで伸びる黄色の道は、光と闇の2つのゾーンをはっきりと分けて描かれています。

彼の絵画もほとんどがそうであるように、作品に含まれている謎は解き明かされていません。走っている少女、彼女のフープ、何かの影、馬匹運搬車、遠くにある赤い旗、2つの建物などのいかなるオブジェクトも、存在している明確な理由はわかりません。それでも、キリコがこの絵画を彼自身の強い意志をもって制作したことは伝わってくるでしょう。

キリコはギリシャの建築と彫刻を愛していましたが、単にそれらを讃えるために古典的なモチーフを作品に描くことはしませんでした。それらは、彼にとっての美のシンボルとして、現代のオブジェクトやモチーフと比較するために作品の中に含まれていきました。

《愛の歌》1914年

本作品は1914年に制作された作品で、現在はニューヨーク近代美術館に所蔵されています。これはキリコの最も有名な作品の1つであり、シュルレアリスムの初期作品にあたりますが、1924年にアンドレ・ブルトンによってシュルレアリスムが創始される10年も前に描かれたものです。当時描かれた他のキリコ作品と同様、屋外建築が大きく描かれています。ただし、この作品で主役となっているのは、ギリシャの彫刻の頭部とゴム手袋が取り付けられた小さな壁です。その下には緑色のボールも描かれていて、地平線上には機関車の輪郭も見えます。機関車は、キリコの画家人生の中でこの時期に何度も繰り返して描かれたイメージです。

この作品では、芸術のしきたりと論理を限界まで取り払うという考えが用いられました。ゴム手袋の隣に強調されて描かれているアポロン像の頭部は、フランスの考古学者サロモン・ライナッハの著書「古代ギリシア彫刻」が参考になっていると言われています。

キリコは、個人的な経験を絵画の中に表現することも少なくありませんでした。この作品に描かれている機関車は彼の子供時代を反映し、アーケードはイタリアの建築を彷彿とさせます。また、手袋はキリコが賞賛したティツィアーノのとある絵画をほのめかしているそうです。

《ヘクトルとアンドロマケ》1917年

本作品は1917年に油彩で制作された作品です。キリコは当時、シュルレアリスムとキュビスムという2つの芸術運動に触発されていました。この絵画は、芸術はどのように存在すべきかについて、キュビズムとシュールレアリスムの両方の思想を取り込んだ作品です。

この絵の主題は、ホメロスの叙事詩で語られる「トロイア戦争」のシーンの1つです。勇敢なトロイア戦士であるヘクトールは、愛する妻アンドロマケに別れを告げて戦争に出かけます。この作品では、夫婦は無機質なマネキンに変身し、背景は暗く、独特の陰鬱な視点で描かれています。

おわりに

キリコはその後1919年から古典的な技法に回帰して制作するようになり、シュルレアリストたちとは対立、その後もネオバロック形式の作品を描いたり、過去の作品の模倣作品を制作して販売したりするなどしたため、作品には悪評がつきまとい、非難を浴びることもしばしばありました。

その後1978年には長い治療生活を送ったローマの病院で90歳の長い生涯を終えることとなります。キリコは晩年《不安を与えるミューズたち》の複製を制作しており、その数は18点にも及ぶといわれています。複製を制作したのは過去の作品ばかりが評価されていることへの反発であり、過去の偉業と戦い続けた画家でもあったのです。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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